エンパワーメント

⚫エンパワーメントには、次の3つの鍵が必要
[第1の鍵]のポイント 
・会社の情報を共有し、信頼関係を築く
 ・階層組織の思考を廃し、全員が経営者意識を持って行動することを促す 
・失敗を学習の機会と考える
[第2の鍵]のポイント 
・説得力のあるビジョンを設定する
 ・社員が自分の目標と役割を明確にできるようにする 
・行動の根底にある価値観を定義する
・ルールを定める 
・行動の自由を提供する
 [第3の鍵]のポイント
 ・全員がチームスキルを学び高める
 ・チームが自律するよう支援と励ましを与える      ・コントロールを徐々にチームに引き渡す
 ・困難に遭遇することを覚悟しておく

※すぐに成果は得られない。
    覚悟の問題

組織のメンバーがもっている知識、経験、モチベーションの力を解放し、驚くべき成果を上げることの必要性に注目しているということです。

問題は、社員にベストを尽くす意思や能力がないことではなく、ベストを尽くすことを怖がっていることなのです。
ほとんどの組織は、社員を励まして正しい行動を促すのではなく、間違いを見つけて懲らしめることばかりに意識が向いています」

エンパワーメントはトップダウンの取り組みであり、価値観に立脚して進めるべきものだ、ということです。

社員に自分で考えて仕事をしてほしいと伝えても、どうしたらよいか彼らにはわからないのです。無理もありません。異国ですから。彼らはまだエンパワーメントの国の言葉も話せないし習慣も知らないのです」 
マイケルはうなずきながらメモを取った。
サンディは、マイケルが顔を上げて自分のほうを見たので話を続けた。
 「もちろん、あなたも言葉を話せないし、習慣も知りません。 あなたもあなたの会社の経営陣も、社員をエンパワーする方法を知らないだけでなく、エンパワーされた社員の扱い方も知らない。だから、まったく新しい管理のやり方を学ぶ必要があります。部や課といった業務別組織ではなく、プロジェクト・チームや部門横断型チーム、あるいはもっと進んでセルフマネジメント・チームを管理する、新しい方法を学習しなければならないのです。 先日、私が話したことを思い出してください。『エンパワーメントとは人にパワーを与えることではない。人はもともとパワーをもっている』と言いましたね」 マイケルがうなずくのを見て、サンディは壁に掛けてある大きな額を指さした。そこには次のように書かれていた。

エンパワーメントとは、
人にパワーを与えることではない。
人はもともとパワーをもっている


正しい情報を、全て共有することで責任感をもって取り組む。

エンパワーされたいと思う社員は多いかもしれませんが、エンパワーメントの意味を本当に理解できているでしょうか? 自分の経験や知識を使って自由に働くことが認められ、その結果については、善し悪しにかかわらず説明責任が求められるという、そんな働き方を十分に理解できているでしょうか?」 「できていないでしょうね。自由に働けるという部分は気に入っても、説明責任の部分にはひっかかりを感じるでしょう」
行動のよすがとなる枠組みが必要になるのです。
枠組みと言っても、従来とは意味が違います。ふつう枠組みと言えば、これ以上やってはいけないという禁止を示す境界線をイメージすると思います。でも、エンパワーメントの文脈で枠組みと言えば、そのなかでは自分たちで決めることができ、決めたことに従って行動してかまわないという、自律を促す境界線を意味するのです

「ガイドラインがなければ、社員はエンパワーされる前の古い習慣に戻って、慣れ親しんだ昔の家に帰ってしまうということですね」
目標設定の位置づけについて彼の答えは、煎じ詰めれば〝忍耐して待て〟というものでしたが、
目標設定は境界線を決めるうえで大事な要素と言えるのではありませんか?」 「間違いなく重要です。でも、目標設定のほかにも、境界線となるものはいろいろあります」 そう言いながら、ジャネットは自分のパソコンのところに行き、1枚の紙をプリントアウトした。 「これは、私たちが新しい境界線を定めるときに重要と考えた要素を箇条書きにしたものです」


「枠組みや境界線は、たくさんあるんですね」とマイケル。
「でも、一度に全部決める必要はありません。実際問題、とても一度に決められるものではありません。必要が生じたら、その都度やればよいのです。わが社では、まずトップが、この会社についての説得力のあるビジョンの素案を書くところから始めました」
 「説得力のあるビジョン?」
マイケルはおうむ返しに言った。
 「はい。簡単に言えば、全社員が思い浮かべる明日の会社の姿のことです。社員のニーズや欲求、価値観、信念を簡潔な言葉で示し、社員を知的にも感情的にもひとつに結び合わせる役割を果たします。 説得力のあるビジョンはリストに挙げた最初の3つのと関係があります。そこには会社の未来像、つまりイメージが描かれています。そのイメージが組織の目的(われわれの事業は何か)を示し、目的達成のための行動を導く価値観を照らし出すのです。
事例として、
アップル社の目的は、コンピュータという情報処理システムをつくって個人が買える価格で提供することでした。その根底にある価値観は、簡単に使えるコンピュータを万人に提供するというものです。最終的な結果のイメージは、すべてのデスク、すべての家に、パーソナルコンピュータが置かれている光景でした。 これら3つの要素が彼のビジョンを明確なものにし、説得力を与え
ました。明確なビジョンが確立すると、それを達成する手段も明確になり、ジョブズは高品質のパソコンを大量生産する方法を開発できたのです。説得力のあるビジョンは会社の将来像を描き出すものだということです。

ビジョンの策定について
すべての部署で、すべての社員が、同僚や上司といっしょに動いて、会社のビジョンを、各人にとって意味のある役割とゴールに落とし込んでいきました。骨の折れる作業でしたが、会社のビジョンを実現させるために自分にできる貢献は何かを全員が理解するうえで、どうしても必要な共同作業でした。私たちはこの作業をするとき、会社のビジョンという全体図と矛盾しないように、個人が受け持つ部分図を確定させる、という意識で取り組みました
あなたの会社では、こんなことをしたことがありますか。社員に、『あなたが会社から期待されていると思う仕事を10個挙げてください』と言って書き出してもらうのです」 
「なんのために、そんなことをするんですか? 社員に何をやってほしいかは伝えていますし、社員は人事評価面談で上司と話しているじゃないですか」 「その考えこそ、あなたの会社が抱えている問題を示しているのかもしれません」
仕事を10個書き出すという作業──私たちは〈トップ10プランナー〉と呼んでいます──の有効性がおわかりになったのではないですか? 部下が自分の仕事だと認識していることと、部下が当然やってくれると上司が期待していることのあいだにはしばしば食い違いがあるのです。上司と部下が互いにリストを書いて、優先事項を突き合わせることをお勧めしたいですね。

・販売量が落ちた理由を考えてくれるかな。僕も手伝うから。
 ・利益が落ち込んでいるね。どうすればいいか考えよう。
 ・コーヒーが切れていたり、トイレが汚れていたら、お客さまはどう感じるかな? 
・給油のお客さまのついで買いは、売上げの大事な一部だから、ガソリンに水分が混入しないように気をつけよう。
 ・たびたび売上金の計算が合わないけど、お客さまに損をさせていないかな?
・店にとって第一印象は大切だけど、今朝の駐車場の状態をどう思う? 
・商品ルームが散らかっていたら、商品を見つけられなくて、お客さまに品切れだと答えてしまうかもしれないよ。
 ・今週は店員にどんなトレーニングをしましたか? 
・棚の商品交換のスケジュールはどうなっている? お客さまにはいろいろな品物を見てもらうようにしたいね
「何を話すかという点も違いますが、どう話すかという点でもずいぶん違いますね」とマイケル。「一方的に指示したり注意するのではなく、パートナーとして話している感じですね。私がこのアシスタントで、いつもこんなふうに語りかけられていたら、経営者感覚で仕事に取り組むようになるだろうし、オーナー意識ももてると思います」

「確かな参加意識を感じたわけですね」表情を輝かせてマイケルは言った。
「そうです。これほどまで信頼され、価値観を明確にする作業に加わってくださいと頼まれたら、もうほかの会社で働く気にはなれません。でも、このスピーチはまだ価値観確立のはじまりにすぎませんでした。
誰もが価値観を支持しました。合意が必要だったのは、その価値観を実現するためのルールに関してでした。検証作業は全部門をワークグループに分けて行ったのですが、部門ごとに対話が深まるよう、作業の進め方についていくつかの指示が与えられました。それに従って、グループごとに価値観について語り、価値観を日常業務でどう形に表すかを話し合いました」
  「価値観を固める取り組みをしたあとは、意思決定が速く簡単にできるようになったのです。自分たちを導く一連の価値観を共有することができたからでしょうね」
 「いまの話で納得しました。これまで私の会社では、『問題を見つけたら、その場で解決!』という、なんとも単純な合言葉を全社に徹底しようとしていたのですが、こんなかけ声だけで社員を動かそうというのが無理な相談だったのですね」
間違いが2つありました。
ルールは自分たちで選ぶのではなく、上から与えられたものだった。
2つ目に、相手と話し合ってから合意をして進めるステップが無かったこと。

ここに責任が追加されてもよいですね。

「ルールについて合意がなければ、エネルギーをひとつの目的に向けることはできません。価値観は目的を達成するための推進力です。つまり、説得的ビジョンの各要素──目的、価値観、イメージ、目標、役割、そして組織の構造とシステム──はしっかり統合されていなければならないのです」 「組織の構造とシステムは、ビジョンとどういう関係があるのですか?」 「ビジョンは何を遂行すべきかを教えてくれるものであり、組織の構造とシステムは──役割とゴールが正しく組み込まれることによって──その遂行を確実にしてくれるものという関係ですね」 「この絵を見てもらえますか」と言いながら、ジャネットは壁に掛かった額入りの絵を指さした。「これらの要素がすべてとして働き、社員の自律的な働き方を後押ししていることがわかってもらえると思います。ここに〝責任〟という一語を加えてもいいかもしれません」

重要な問いが投げかけられました。私の新しい役割は何か? 私が決定すべきことは何か? 私に課された説明責任は何か? 新しいルールは何か? 新しい仕事に就くとき、どんな訓練を受ければいいのか?」 「そういう質問は社員のあいだに不安を生みませんか?」とマイケルはたずねた。
 「それは因果関係があべこべです」とジャネットはほほ笑んだ。「組織に不安な状況があるから、そういう質問が出てくるのです。変化には不安がつきものです。でも、情報共有が行われている環境では、互いに信頼して仕事をしますから、話し合い、合意し、行動することで、不確実で不安な状況に対処することができます。いま挙げたような質問は、とりもなおさず新しいを明確にしたいという願いの表れなのです」 
「お話の印象では、相当長い時間をかけて取り組まれたようですね」とマイケル。 
「もちろんです。旅ですからね。一気にやる必要はありません」


『エンパワーメントは魔法ではない。単純な考えと賢明な仕事である』


3つ目の鍵

階層の数が減っただけの新たな官僚的組織ができて、ネガティブな気分が蔓延してしまったわけですね。意思決定は相変わらず上で行われるのですから。 エンパワーメント型組織にしたければ、そういう体制や仕組みを根本から変えなくてはいけません。となると、悩ましい問題が生じます。『従来の階層組織においてトップや上司が下していた意思決定を、だれが代わりに行うのか?』という問題です」 マイケルは答えを探しながら話しはじめた。 
「全員が意思決定の責任をもたなくてはならなくなりますね。でも、ほかの人と無関係に行動するメンバーばかりで構成される組織なんてありえませんから、たぶんチームに意思決定を任せることが必要なのかもしれませんね。チームなら個人のスキルや知識をもち寄ることができますから。……チームに意思決定させるという方法がよさそうです」 ビリーはうなずいて同意した。
 2人は人びとが忙しく行き来するフロアで立ち話をしていた。ビリーは職場のコーナーのデスクにマイケルを座らせると、小さなカードを手渡した。マイケルが受け取る3枚目のカードだった。


〇失敗は学び
・マネジャーがなすべきことは、向上しつづけるためには失敗がつきものであることを認め、社員に対し、あなたがたは最善をつくすことにのみ説明責任があるということを伝えるだけなのです
・失敗を責められると、人は自分を守ろうとします。非難の矛先をかわすために失敗をもみ消そうとします。そうすると、その失敗に関連する、全員にとって学ぶべき価値のある情報が遮断されてしまうことになりますね」 「その指摘は、情報共有が信頼を強化すること、裏を返せば、信頼が損なわれると情報共有が行われなくなるという側面をうまく表していると思います。
たとえば役割や目標について見てみましょう。会社のビジョンという全体図を各人の役割や目標という部分図に展開させることについて、きっとジャネット・ウォがお話ししたでしょう?」 「はい、その話はジャネットさんから聞きました(5章参照)」 「これはとても大事なポイントです。個人の役割や目標、仕事の進め方を決めるのは、経営陣と社員の共同作業です。経営陣と社員が互いに相談しながら全体図と部分図を同時に書いていく、双方向の共同作業です。ビジョンが明確であれば、自分の作業や仕事が描かれた部分図が、会社全体の使命や目的が描かれた全体図のどこに当てはまるかがわかります」
 「全体図と部分図の関係について、なにか具体的な例をあげて説明していただけませんか?」とマイケル。 
「靴を返品したことはありますか? 家に帰って履いてみたら、たちまち足が痛くなるほど合わないことがわかって、翌日あわてて店に返しに行ったというような。店員から、別の靴を買うならその代金分は差し引くが、返品希望の靴は今日からセールなので、買ったときの半額にしかなりませんと言われたらどうでしょう?」 「先週、私はそういう体験をしました。ただし、店員の対応は正反対でした。彼女に事情を話すと、ほかの靴をすすめられました。残念ながら気に入るものがなく、物色している時間もなかったので、返金を希望しました。彼女は承諾してくれて、返金処理を始めました。ところが、その靴はそのときセール対象品になっていて、間の悪いことに、私はレシートをもっていなかったのです。でも、セール価格以上の代金を払ったことは間違いありません。彼女は、問題ありませんと言って、システムに登録されていたセール価格を訂正して、私が払ったのと同額を払い戻してくれたのです。 私はすっかり感激してしまって、数日後にその店をたずね、その店員から靴を2足買っちゃいました。私も店も得をした。いい話だと思いませんか? どうして、こんなにうまく事が運んだと思いますか? 彼女が立派なセールスパーソンだったということもあるかもしれませんが、それだけではありません。店員教育によって境界線が示され、それによってエンパワーされた彼女は客である私を助けることができたということなのです」 マイケルが自分の考えを整理しながら言った。 「店が定めた一定のガイドラインのなかで、その女性店員には、仕事の仕方について裁量権が与えられていたということですね。境界線が競技場とルールを定め、その競技場内でルールに従う限り、彼女は自由にプレイすることができるということなのですね」 エリザベスはうなずき、マイケルにほほ笑んだ。 マイケルは話を続けた。 「たしかにこれは、〝境界線〟と〝枠組み〟といった言葉に新しい意味をもたせるものだと思います。 これまで人びとは、組織が定める境界線と枠組みのなかで働くことに慣れきっていました。境界線と枠組みは、行動にしばりをかけ、考えを制限し、リスクを取らせないためにありました。ミスが発生したときの是正措置は、責任者を罰することでした。 ところが、いまあなたが話しているルールや境界線は、それとは意味が180度違っていて、責任を引き受けること、オーナー意識をもつこと、エンパワーされることを奨励する方向に作用しています。このような意識の大転換を、社員のみなさんにどうやって浸透させたのでしょう? あれこれ問題が噴出したのではありませんか?」 マイケルの問いにエリザベスは答えた。 「ええ、それなりに問題はありました。当初私たちは、それまでのルールや枠組みをほとんどご破算にして、スローガンによって社員を方向づけようとしました。でも、それはうまくいかないことがわかりました。かけ声だけかけられても、社員は何をすればいいのかわからず、失敗を恐れて責任をともなう行動をためらったのです。きのうまでコントロールされた環境にいた社員が、一夜のうちに、自律と責任を負う環境に移行することなど、どだい無理な話だったのです」

例として
『ミスが発生したら、まず、なんとしても修復し、次に、ミスから学べ』というものです。社員教育では、『どのように修復を図れば、お客さまに満足していただけて、自分たちも有意義な学びを得られるか?』と自問すること
「以前なら、『だれのせいだ!』と犯人さがしが始まったかもしれません。設計技師なのか、顧客側の担当者なのか、あるいは社内のどこかの部署なのか……。
「まずお客さまに、当社は必ず問題を解決します、と約束しました。そして、工事業者や設計技師と協力して、設置場所と製品の設計変更を協議しました。その一方で、社員を現場に派遣して変更箇所を洗い出し、費用を見積り、修復のための作業計画を立てました。これらすべてが終わったあとに、この失敗から何が学べるかを検討するために特別チームをつくって事実関係を調べました」
「大切なお客さまを失わずにすみました。それだけではありません。このお客さまは、私たちの対処の仕方がすっかり気に入り、次々に新しい取引先を紹介してくださいました。そのとき獲得した新しいお客さまとは、それ以来のお取引をいただいています。

〇お知らせメモとは
まずコストに関連して、ピシッと核心に触れる情報が、部門ごとの問題点が見えるような形で示されているはずです。『全員でがんばりましょう』などという精神論は書かれておらず、合理的な資源節約の方法を決めるのに必要な情報が示されていることでしょう。 私たちも、この〝お知らせメモ〟をはじめて受け取ったときは、顔を見合わせながら読み返したものです。『自分たちで決めなさい』と言われているとわかるのに、時間はそれほどかかりませんでした。この部署のことを決めてくれる人はどこにもいない、私たちが自分で決めなくてはならない、という明確なメッセージが伝わったのです。まもなく職場で意見の交換が始まりました。なにができるかという話が、なにをやりたいかという話になり、なにをやるかを決める話に変わっていきました」

不安と不満でチームが混乱した、という話がありましたが、みなさんはその時期をどうやって乗り越えたのですか?」 
「けっこう時間がかかりましたよ。訓練中に学んだのですが、集団というものは──個人も同じでしょうけど──ある定まった発展段階をたどって成長するのだそうです。そして、段階ごとに異なるタイプのリーダーシップが求められるというのです」

「グループが形成された当初は、通常、メンバーはとても熱心です。しかし物事の進め方を知りません。だれが、なにを、どうすればよいのか、という基本的なことがわかっていないのです。この時期を〈方向づけの段階〉と言います。この段階では、チームには強く明確なリーダーシップが必要です。だれかが課題を設定し、チームとしての取り組みをひとつにまとめなくてはならないのです」 ルイスは続けた。 「当初、わが社のマネジャーはそんなふうにチームをリードすることができませんでした。すると、チームは第2段階の〈不満の段階〉へと移行しました。チームとして仕事をするのは、メンバーが思う以上に難しいというのが現実なのです。不満を抱えたチームには、引き続き強く明確なリーダーシップが必要ですが、同時に支援も必要です。メンバーの話をじっくり聞くとか、少しでも前に進むよう励ますという態度のことです。 この不満の段階は、どうにも気詰まりな段階なのですが、セルフマネジメント・チームになるために不可欠な段階です。このときわれわれは、ためしに〝チームコーディネーター〟という役割を設けたのですが、この役割はいまも続いています」 「私の会社にもチームリーダーという役割がありますが、あなたの言うチームコーディネーターは、それとは少し違うようです」とマイケル。 ルイスはうなずいた。 「チームが結成されたばかりの初期段階では、チームコーディネーターは、多くの意味で通常のマネジャーとして行動しました。そのうち、メンバーが力を合わせてチームとして働くことに慣れてきました。それが3番目の〈解決の段階〉ですが、この段階で私たちはコーディネーターを交代制に切り替えました。コーディネーターの役割はチームの支援とファシリテーションです」 ルイスはさらに話を続けた。 「チームメンバーには、他の部門で何が起こっているかをよく知ってもらうことが大切です。そこでコーディネーターには、週に一度、他部門との合同会議に出席し、その内容をメンバーに報告してもらうことにしました。それは、この会社の基本的な価値観のひとつである、部門の垣根を越えた資源活用や交流研修にも役立っています。 意思決定のほとんどはチームが行いますが、決定後の事務処理や勤務シフト作成のような細かい作業はコーディネーターが行います。 コーディネーターは、次にコーディネーターになる人の訓練も行います。だんだんわかってきたのですが、グループ成長の最終段階である〈成果発揮の段階〉になってくると、コーディネーターの役割は、それほど重要でなくなります。チーム自体がメンバーを導き、支援するようになってくるからです。 この段階になると、チームのなかにある多様性が価値をもちはじめます。われわれが今日直面しているような複雑な問題に対処するうえで、多様性が大きなプラスになることを何度も経験しました。多様性には、人種や性別だけでなく文化的側面も含まれますし、能力やスキル、主義主張も含まれます。個々のメンバーがもつユニークなスキル、視点、知識などをもちよれば、どんな問題にもすばらしい解決策が見つかることを実感しています」 「そんなふうに社員の能力や貢献度が高まると、会社全体の力は、社員個人の力の総和を超えてしまうことでしょうね」 ルイスの話をそう要約したうえで、マイケルは質問した。 「とはいえ、多様性というのは扱いが難しいですよね。みんなが同じ考えだったほうが楽なこともあります。チームのなかで衝突はありませんでしたか?」 「もちろん、ありました」とルイス。「何度も苦い教訓を学びましたよ。お互いの力を利用し、意見の違いを掘り下げて合意を形成することができず、強引に決めざるをえなかったこともあります」 「そういう場合は、どうなりましたか?」 「裏目に出ましたね。次に何かを決めようとしても、意見を切り捨てられたメンバーは協力してくれなくなりました」 「チームの発展のためには、人間関係のスキルがすごく必要だということですね」 「まったくその通りです。なにか込み入った決定を行うときは、全員に意見や懸念を発言してもらうことが大切ですね。たんに公平さを保つためではなく、個々の才能を問題解決に活かすためにそうすべきなのです」 「チームがこの段階に達すると、どんなことができるようになるのでしょう?」とマイケルはたずねた。 「チームが重要な意思決定の責任をどんどん取るようになりました。多くのチームが、以前なら経営者が行っていたような仕事をどんどん──すべてとは言いませんが──やるようになりました。人材採用、規律順守、人事評価、資源配分、品質保証といったようなことです。つまり、セルフマネジメント・チームが従来の階層的マネジメントにすっかり取って替わったということです」 「驚きました!」マイケルは思わず大きな声を出した。そして、感に堪えない面持ちでゆっくりと首を振った。 「どうかしましたか?」とルイスがたずねた。 「今日、何度かにわたって、エンパワーメントには確かに効果があるという話を聞かせてもらいました。これまでの私の思い込みが、根底からひっくり返されたような気がしています」 「そんな気持ちになったのは、あなたも私たちの仲間入りをしたということです」 ルイスは笑いながら先を続けた。 「ほとんどのマネジャーは、そんなことまで部下に任せてしまうなんて正気の沙汰じゃない、と言うでしょう。トラブル続出は火を見るより明らかだ、と。古い指揮命令型マネジメントの下で働くことに慣れた社員にやらせれば、きっとそうなるでしょう。しかし、エンパワーされた社員──情報を提供され、仕事の境界線を明確に示され、セルフマネジメント・チームとして行動するための訓練を受けた社員──であれば、決してそんなことにはなりません」 ルイスは話を続けた。 「会社がエンパワーメントに取り組むようになってから、私は、人間の能力という資産が会社のなかで未開拓のまま眠っていることを痛感しました。

「会社はよくなり、社員は成長し、新しいスキルや能力を向上させていきます。ですから、成長も向上も止まってしまった社員がいたら、この会社には居場所がないと言うしかありません。そういう人は、言われなくても自分から去って行くでしょう。 でも、成長したい、能力を高めたい、成果を上げたいと望むなら、その人には会社に居場所があります。そういう人のいる会社は、多くの面で利益を上げることになるのです。 セルフマネジメント・チームの利点を書き出してみました。これがそのリストです」

今後、情報共有の必要性はますます高まるでしょう。この会社でも、情報を記録し、多くの社員に使ってもらうために、よりよい仕組みを開発しなくてはなりませんでした。現代のコンピュータ技術のよいところは、すぐに使える情報を、社内ネットワークを通じて全社員に提供できることです。社員はつねに、いま会社で何が起こっているのかがわかります。チームは責任を果たすために、かつてないほど大量の情報を必要としているのです」 ルイスは説明を続けた。 「とはいえ、徐々にわかってきたのですが、チームが進化するにつれ、メンバーたちは本当に仕事に役立つ情報だけを求めるようになりますから、使いもしない情報を要求して情報サービス部門を困らせるような事態はむしろ減ってきます。

会社をエンパワーする3条件──① 正確な情報を全社員と共有し、② 境界線を明確にして自律的な働き方を促し、③ 階層思考をセルフマネジメント・チームで置き換える──をふまえた実行計画だった。マイケルはそれを全社員に配ることを決めた。ゲームプラン発表後、数カ月かけて、マイケルと彼の会社は、彼らなりにエンパワーメントの国への旅を始めた。はじめのうち、マイケルは評価や助言を求めてサンディ・フィッツウイリアムのもとに通ったが、自分なりに確信を深めるにつれ、エンパワーメントに向けて独自の道を切り拓いていくようになった。ときには後戻りすることもあったし、投げ出したくなることもあったが、あくまでもやり通した。困難や否定的な反応はつきものであることをマイケルは知っていたし、折に触れて説いてもいたので、社員たちは3つの鍵を忘れることなく課題に集中し、困難な変革の道のりを歩み切ることができた。そしてついに、マイケルたちはエンパワーメントというゴールに到達した──だれもが能力を発揮し、才能を伸ばしながら会社に貢献することができ、それによって会社にすばらしい結果がもたらされるという境地に到達したのだった。いつのまにかマイケルは、かつてサンディが自分にしてくれたように、教えを求めて自分のもとを訪れる人に助言する立場になっていた。そのなかで、何度となく繰り返したのが次の言葉だった。エンパワーメントは魔法ではない。それを実現させるのは、いくつかのシンプルなステップと、やり抜くための強い意志である。エピローグ──新しいエンパワー・マネジャーの誕生1年ほど経ったある日、マイケルはある会合でサンディとばったり顔を合わせた。あれから自分がどのようにエンパワーメントの文化を根づかせる仕事に取り組んできたか、教えを求めてきた人をどう助けてきたかを話した。話に花が咲き、マイケルは自分が学んだことをサンディと分かちあった。マイケルは言った。「エンパワーメントを実現させることの困難さは教わっていましたが、まったくその通りでした。その経験から、エンパワーメントに至る道のりを教える、私なりの方法を見つけました」「まあ、ぜひ聞かせてほしいわ」
「チームの発展段階について教わったことが元になっています。あなたから、チームは〈方向づけの段階〉〈不満の段階〉〈解決の段階〉を経て、高いパフォーマンスを発揮する〈成果発揮の段階〉に到達するということを教わりました。私の考えもそれと似ていますが、私はエンパワーメント実現までに会社がたどる道のりは、3段階に区分すると理解しやすいと思うようになりました。最初は〈出発と方向づけの段階〉です。エンパワーメントの第1の鍵は情報共有ですが、情報共有された社員は可能性の広がりを感じて士気を高める傾向があります。変化の必要性について、もっと知りたいと望みます。情報を共有すればするほど、社員の意欲は高まり、結果に対する責任を引き受けようとします」そこでサンディが口をはさんだ。「わかります。これまで手が届かなかった正確でタイムリーな情報を共有されるだけで、気合いの入り方がぐっと違ってきますものね」「まったくです」とマイケル。サンディが続けた。「ところが、その高まったエネルギーを保つのが難しくて、いつもがっかりさせられたものです。情報共有によって多くを知るほど、恐れも増すということかしら。エンパワーメント組織への移行で、自分にどんな影響が及ぶのか懸念しはじめるのでしょう。事態の進展とともに、増していく責任をこなせるだろうか、と不安を感じはじめるのでしょうね」「その通りだと思います」とマイケル。「それが第2段階の始まりです。多くの社員があきらめたいと思うようになり、すでに何人かは実際にあきらめてしまったという段階です。私はそれを〈変化と落胆の段階〉と呼んでいます。あなたから教わった〈不満の段階〉に似ていますが、それより広範かもしれません」「よくわかります。もっと考えを聞かせて。お互いに経験を分かちあいましょう」そう促されて、マイケルは自分の経験を語りはじめた。「この段階では、社員は行動を変えようとするけれどうまくいかず、落胆しています。そのうちに個人的な気がかりが強くなり、具体的にどう行動すればよいのか教えてもらおうとしはじめます。行動にお墨つきを求め、自分が傷つかないという保証を求めようとします。失敗の恐れと、失敗したときに古い階層思考によって下される罰への恐れによって、エンパワー行動を抑止してしまうのです」「わかりやすい説明です。でも、変革のプロセスをすっきりと図式化するのは難しいですよね。たどる道筋は会社によって千差万別ですから」「そうなんです。でも、どんな道筋であれ、不満や落胆はつきものだと理解し、わずかずつでも前向きに行動し、情報共有を進めながら全員を巻き込んでいくなら、チームは猜疑心につぶされることなく、この時期を乗り切ることができると思います。ところで、不満の段階のあたりで生じるリーダーシップの空白について教えてくださいましたが、覚えていますか?」「もちろん覚えていますよ」とサンディ。マイケルは説明を始めた。「私は、この段階が要するに何に支配されているのか、わかったような気がします。この時期、全社員が居心地の悪さを感じはじめます。とくに、失敗したらどうなるのだろうと心配している最前線の社員にとっては、そうでしょう。だからこそ、この段階では逆方向の情報共有が大切なのです。どういうことかと言うと、マネジャーは聞き役に徹し、社員からマネジャーへの情報共有の流れに注意を向ける必要があるということです。マネジャーが耳を傾ければ、社員は胸の内を語ってくれるものです」「いい視点だと思うわ。変化の第2段階は、あとから振り返ってはじめて意味を理解できるような、奇妙なパラドックスがいっぱいありますね」「本当にそうですね。なかでも驚かされるのは、不安を覚える社員に対処しようとするときにぶつかるパラドックスです。〈変化と落胆の段階〉で社員が感じる不安に対処するには、マネジャーは境界線を広げて、社員が自律的に動ける領域と責任を増やさなくてはなりません。この段階にある社員は、自分が思っている以上に能力があるのですが、そのことに気づくためには、広げられた境界線のなかでそれを使う機会が必要だからです。つまり、社員が恐れを克服するのを助けるために、もっと恐ろしい状況をつくってあげなければならないということなのです」「まったくその通りだわ。エンパワーメントの旅では、これらの段階を通るのが自然ということを理解し、各段階の問題にたいして3つの鍵をうまく使う方法を知っておきたいわね。そうすれば、旅も少しは楽になるでしょうから。こんどは3番目の段階について学んだことを教えてもらえる?」「もちろんです。3番目の段階は、トンネルの出口から光が差し込んでくるような段階です。私はそれを〈適用と精緻化の段階〉と名づけました。この段階では、社員にはエンパワーメントの価値が見えています。少なくとも何人かには見えているでしょう。自分の知識と経験を使って会社をよくしたいと望んでいる社員であれば、間違いなく見えているはずです。そんな社員は、エンパワーされることの報酬の大きさを実感しているので、ほかの全員にもエンパワーメントをめざしてほしいと願うことでしょう」サンディが言葉をはさんだ。「エンパワーメントは会社のためにだけあるのではなく、個人のためのものでもあるということね。一人ひとりに、大切なことに関わっているという手応えを感じてもらい、自分を誇れる存在になってもらうためのものでもあると」「言葉が見つからないほど同感です」とマイケル。「それから、この段階に達した組織にとって、残された重要な課題は、さらにもう少し遠くまで進む、ということでしょうね。なぜなら第3段階は、ゴールまであと少しの地点ではあるけれど、まだ最終的なゴールではないからです」「私も言葉がみつからないほど同感だわ」とサンディ。「ほとんどいいところまで行っていたのに、ゴール直前で力を抜いたばかりに失敗してしまった会社を、いくつか知っています」サンディはさらに話を続けた。「第3段階になると、エンパワーメントの3つの鍵は、新しい意味と応用の可能性をもちはじめます。情報共有は全員から全員へ、融通無碍の域に達します。境界線は広げられ、会社のいたるところで自律的に仕事が進みはじめます。そして、チームがいよいよ仕事を取り仕切りはじめるのです」マイケルがつけ加えた。「まったくその通りです。3つの鍵は、相乗効果を発揮しながら、エンパワーメントをどこまでも、どこまでも、どこまでも前進させてくれます」サンディが言った。「そして人びとに、エンパワーされていなければ感じることのない、大事な役割を担っているという実感を与えてくれるのです」サンディとマイケルの話はさらに続いた。二人は「エンパワーメント」についての知識と、それがもたらす感動を、一人でも多くの人に伝えたいと願った。ほかの人が読んで活用できるように、二人の考えをまとめることにした。エンパワーメントの国への旅は、困難だが歩き通すことは可能だ。3つの発展段階のそれぞれに応じ、3つの鍵を使いわける術を知るなら、その旅は歩みやすくなる。

旅への出発1991年、私と弟の2人で父が経営していた軽井沢の旅館を継いだとき、社内には課題が山積していた。最も深刻な問題は人材確保だった。勤務時間は不規則、休日も少ない地方の温泉旅館に就職してくれる人は多くなく、募集広告を出しても応募者は数名しかいなかった。少しでもプラスになるかもしれないと思い、社名を星野温泉から星野リゾートに変更してみたが、中身は何も変わっていないので、せっかく入社してくれた社員の定着も悪く、問題は解決しなかった。社員たちと一生懸命コミュニケーションをとったものの、活気ある楽しい職場にはならず、多くの社員が会社を離れた。そういう組織を経営していた私は、まさに本書に登場するマイケルだったのだ。1984年、米国コーネル大学ホテル経営大学院の人材マネジメントの授業で、ちょうどベストセラーになっていた『1分間マネジャー』を読み、すぐにケン・ブランチャード教授のファンになった。私が実家を継いで人材確保に悩んでいた頃、教授の新しい書籍『Empowerment Takes More Than A Minute』(この本の旧版)が出版され、私は即座に「エンパワーメントの旅」に出る決意をした。その後の星野リゾートの成長は、同書の教えなくしてはありえなかったと断言できる。今では星野リゾートの象徴でもある「フラットな組織文化」は、ケン・ブランチャード教授が提唱する未来型の組織そのものだ。同書の中に何度も繰り返して出てくるのは、その旅は簡単ではないということ。今までの固定観念を捨て去り、短期的副作用を克服し、失敗を辛抱強く修正していく必要がある。当時の私たちにそれができたのは何も失うものがなかったからだ。だから、ケン・ブランチャード教授が言うプロミスランドがあると確信して進むことができた。旅の体験談星野温泉旅館は1914年開業の老舗旅館だが、私たちが経営を始めたとき、建物やサービスなど改善したいことばかりが目についた。母屋の2階にある食堂で提供していた和食は、自分が食べて美味しいとは思わなかった。調理は板前という職種の人たちが厨房で担当していたが、「美味しくないと思う」とは決して言えない。そんなことを言った途端に、板長は辞めていくことが予想できたからだ。その際には、この世界の習慣に従って、調理場のスタッフ全員が辞める、業界用語で言う「総上がり」が起こり、翌日から調理を担当する労働力がなくなって自分が困るのが目に見えていた。お客様の近くで働いているスタッフは、顧客が美味しいと思っていないことを一番よくわかっていた。しかし、それは経営者でも言えないのだから、黙って知らないふりをするしかない。こんな状態からの活路を求めて、ある日、私は勇気を振り絞って板長に話してみた。「私たちの旅館では、もっと美味しい食事を出したいと思うのですが……」と聞くと、板長は「お客様は美味しいと言っている」と反論した。そんなことは決してないと思ったが、確かに味の評価は主観的であり、私も客観的なデータを持って味のレベルを指摘しているわけではなかった。そこで情報公開というエンパワーメントへの第1の鍵を使うことを思いついた。外部の調査会社に委託して顧客満足度調査を実施し、その結果を全社員に公開した。食事の味だけではなく、フロントサービス、お部屋、そして温泉大浴場まで、すべてを調査範囲として結果を定期的に公開したのだ。すると驚いたことに、スタッフに指摘されると感情的になる板長が、顧客に「美味しくない」と言われている結果を見た途端、意地になって改善を始めたのだ。当時、星野温泉旅館の社員は、会社に対する忠誠心はなく、誰も利益を高めようとは思っていなかったが、自分自身がサービスを提供しているお客様に満足してほしいという気持ちだけは持っていた。それぞれ仕事のスキルに高低はあっても、どの社員も持っているこの気持ちこそ、経営者が信頼し活用すべき能力なのだと私は気づいた。その調査結果は、食事の味だけでなく、サービスや清掃状態などさまざまな面で顧客が満足していないことも示していた。私たちは数値を少しずつ上げることを目標とし、前回よりも数値が改善したらお互いに褒め合うことにした。1分間マネジャーからの学びだ。そうすると、社員たちは調査結果の公表を楽しみにするようになった。不思議なもので、これだけで顧客満足度はどんどん上昇し始めたのである。サービスの質に対する評価は主観的になりがちだ。料理の味、スタッフの親切さなどは見えにくいし測るのも難しい。だから、経営者個人の尺度で判断してしまうことが多くなるが、スタッフはその判断をまったく信用していない。「総支配人はお客様のニーズをわかってないよね」という愚痴につながるケースが多い。サービスに対する評価は顧客セグメントによって違う基準があり、年配の女性と20 代男性では食事に対する評価基準がそもそも大きく異なっている。セグメントごとの数値も含めて公開したことが、サービス評価の客観的基準になっただけでなく、よい議論のベースを社員に与えることになり、その意義は大きかった。顧客満足度を少しずつ上げていくことを目標としたが、どうやって上げていくかについては相談されない限り放置した。組織全体が第3の鍵であるセルフマネジメント・チームになっていくことを目指したのだ。前述した通り、目の前のお客様には満足してほしいという気持ちを社員たちは元々の性質として持っている。その力を引き出すことこそがエンパワーメントであると考えた。そうすると仕事が楽しくなってきて、社員の定着率が上がり始めた。さらなる問題に遭遇さまざまなことが好転し始めた実感を得て、私たちは経営に自信を持つようになったが、まもなく大変困った事態が起きた。各職場のスタッフが継続して改善に取り組む中で、多くの問題が解決され、残された課題は難度が高いものに絞られてしまったのだ。つまり、お金がかかる対策である。客室のチームからは「布団など多くの備品を買い直さないと、これ以上満足度は上がらない」、食堂からは「食器を交換する必要がある」、フロントからは「増員して今できていないサービスを提供したい」、温泉大浴場担当からは「そろそろ露天風呂をつくる必要がある」などなど、コスト増になる提案がたくさん上がってきた。社員たちの目は輝き始めているのに、私の目が曇り始めるという逆転現象が起こったのだ。提案の多くは妥当性があり、星野温泉旅館がよくなっていくためにはいつか実施しなければいけない投資だ。しかし、資金は限られていた上に、顧客満足に効果がある対策でも、それらが追加の収益につながるのか心配だった。もしつながる場合でも、新たなキャッシュフローがいつ発生するのかがわからなかった。リスクを感じた私が、いろいろな理由をつけて先延ばししていると、ある社員から「社長は顧客満足を本気で上げようとしていない」と指摘された。焦った私は思わず「顧客満足は本当に重要なのか?」と言ってしまった。この一言で、ようやく社員の中に目覚め始めた価値観が崩壊していくのを感じた。マネジメントとしてこの表現は間違っていたが、その真意は一応こうだ。企業活動の目的は利益を上げることであり、顧客満足はその手段であるはずだ。しかし、経営していた私の実感として、旅館の顧客満足を上げようとすると、利益は圧迫されるのである。サービス産業の論文や書籍には、顧客満足は重要であるとは一様に書いてあるが、それが実際にどのようなメカニズムで利益に結びつくのかについては、誰も把握していないように感じた。「顧客満足は善であるから、それをしっかりとやっていれば神様がどこかで見ていてくれて、いつか必ず利益というご褒美をくれるだろう」と信じているかのようなのだ。これで経営になるのだろうか。同業にも学びを求めたが、驚いたことに、多くの経営者が「顧客満足の向上努力は必ずしも利益につながるとは限らない」「ある程度手を抜くことが収益の最大化につながる」と考えているようであった。そうならば、どの程度手を抜くのが最適なのかを知りたくなるが、感覚としてはクレームが出る寸前まで手を抜くことが最適という感じだ。クレームが発生すると新たなコストが発生し収益を下げるので避けるべきであるが、満足度が非常に高い状態を達成するにはコストがかかりすぎるので、それも収益を下げるという理屈だ。確かに1990年代に日本国内でリゾート滞在を経験してみると「文句を言うほどではないが、大変満足したとも言えない」というモヤモヤしたサービスだった印象を受けたが、その背景が見えた気がした。こんなことで日本観光は世界で勝てるのだろうか、というほど当時の私は高い意識を持っていなかったが、それでも、これでは仕事は面白くならないと思った。この話をすると「口コミが重要だから顧客満足は大事だ」という説を発想する読者も多いだろう。これはSNSの発展で近年ますます重視されている。しかし、それならば口コミするセグメントを特定し、そこだけに集中してコストをかけて、よいサービスを提供すべきとなる。そもそも、悪く言われたくないから頑張る、ネット上で褒めてほしいからよいサービスを提供するということで、私たちの仕事はよいのだろうか。私は今でもこの理屈に納得していない。口コミをする人であろうがなかろうが、いらしていただいた顧客に喜んでもらうことが収益増に結びつくというメカニズムがきっとどこかにあるはずで、そうでなければいけないと思っているのである。3つの鍵が融合した1990年代の話に戻るが、顧客満足がどのように収益に結びつくのかというブラックボックスの解明に社員全員で取り組むために、私たちは旅館の収益情報を社内で公開することに踏み切った。企業の存続、そして社員の生活にとって利益が大事であることは誰もが理解してくれた。顧客満足を高めていくことが収益の安定に結びつくであろうという仮説も理解してくれたが、どうやってこの2つの数字をバランスよく両立させながら向上していくのか、これが経営のテーマであり、それを社員全員の共通の課題としたのだ。このとき、星野リゾートのビジョンを「リゾート運営の達人になる」と設定した。達人とは、顧客満足度と収益率を両立させることができる実力を持つ運営会社と定義した。これは本書に出てくる第2の鍵である。社員の自由な発想、議論、そして行動を真に奨励するために、ビジョンと価値観を明確にし、「自律的に行動できる仕事の領域」を設定したのだ。これが第2の鍵の意義であるが、私たちはそれを無視して、第3の鍵で自由だけを奨励するという失敗をしていたのである。収益情報を公開することで、スタッフは使えるお金が限られていることを初めて理解してくれた。顧客満足の改善提案においても「食器を買い直すと、どのくらい収益が上がるのだろうか?」という本質的な思考が生まれ、有意義な議論ができるようになった。さまざまな節約の工夫が発想され、やりたいことのために削減すべき他のコストの提案も出てくるようになった。今まで経営幹部だけが頭を悩ませていたプロセスを多くの社員が一緒に悩んでくれるようになったのである。もう1つの大きな変化は、決めたことに対する社員のコミットメントだ。自分たちで辿り着いた結論であり、その背景も理解している。なぜこうするのかがわかっているので、実行するチームは最良の結果を出そうという意志を持つようになった。顧客満足や収益は会社の実力を示す情報であり、経営者が公開することをためらうのは自然だ。社内で公開すれば、それが社外に漏れることを覚悟する必要があるからだ。しかし、自社の実態を競合他社が把握することが、実際にどの程度自社の競争力を弱めるだろうか。私はこの問いに何度も自問自答したが、「経営者として恥ずかしい」という個人的な問題以外はないという結論だった。恥ずかしい姿をさらすことで、社員の信頼を得ることができる。それはいずれ恥ずかしくない会社になっていくために必要なことだったのだ。ここまでが1990年代に私が星野温泉旅館で本気で取り組んだエンパワーメントの旅である。

私はその後、単にこのプロセスを他の地域の多くの施設で繰り返してきた。そしてエンパワーメントされた各地のチームが自律的に顧客満足度を改善し、新しい魅力を生み出し、収益を改善してくれた。温泉旅館の「界」が全国の施設で提供する若者旅、北海道の雲海テラス、星のや京都の空中茶室、青森の苔メンなど、これらの大ヒットサービスの中で私が自ら発想したものは1つもない。軽井沢のブライダル事業は、市場縮小期に20 年間業績を維持し続けているが、私が関与していたのは最初の5年だけだ。旅立ちのすすめケン・ブランチャード理論の根底にある理念は、これからの企業が活用すべき資産は人材の能力であるということだ。つまり、資金や土地、または今ある技術の資産で競争優位を持続できる時代ではなく、組織にいる人材の脳をいかに活性化させるかが勝負どころであるという教えである。私が新しい施設の運営を担当させていただき、その施設に長く勤めるスタッフたちと出会い、一緒に仕事を始めるときに感じるのは、マネジメントは社員の能力の半分も活用できていないということだ。ホテル・リゾートの現場で言えば、目の前のお客様に満足してほしいと思う社員の気持ちが能力なのであり、自由な環境を整えることで、その気持ちを発想と行動に変えてもらい、今まで抑えられていた社員のエネルギーを解き放つ。私がやってきたことはこれだけだ。エンパワーメントの旅を日本の組織に当てはめるのが難しい原因は、私たちの文化にある。米国では職務や年齢に関係なく、ファーストネームで呼び合う。そしてYouとIしかない英語は対等な議論をしやすい言語だ。日本では苗字のあとに「様、さん、君、ちゃん」などさまざまな言葉をつけるが、それは上下関係を示す信号でもある。役職名で呼ぶことも一般的だが、それも目上の人を敬う配慮の表れだ。エンパワーメントされたチーム組織では、権限を持ったマネジャーはいても、「偉い人」はいないという組織文化を定着させる必要がある。正しい選択肢を探すために議論している段階では、完全に対等に意見交換ができる環境を維持しなければならない。誰が言っているかが重視される議論は機能しない。説得力ある意見が誰に遠慮することなく自然に重視される環境が必要だ。自分の発言が人事や評価につながってしまう懸念がある状態では、正しい議論はできない。思ったことを言うことが目上の人に対して失礼になる懸念もマイナスだ。「今日は無礼講で意見を出してほしい」という表現を聞くことがあるが、そもそも無礼があるというのは上下関係を認めた発言であり機能しない。完全にフラットな人間関係が定着している世界では、そんなことを言う必要もないのだ。星野リゾートでは、総支配人やマネジャーを役職名で呼ぶことを禁止し、「× × さん」と呼ぶことをお願いしている。総支配人やマネジャーが社員を呼ぶときも同様で、年齢男女に関係なく「× × さん」と呼ぶことをルールにしている。日本でフラットな組織文化を定着させるための工夫の1つだ。米国でもある程度似た事情は存在し、ケン・ブランチャード教授は、上下関係文化が引き起こす課題を打破する唯一の方法は、組織トップの強いリーダーシップだとしている。トップが真にフラットな人間関係を築こうとしない限り、組織のエンパワーメントは不可能だ。そして、それを組織の隅々まで浸透させる努力を継続的に行う必要がある。本書の教えは素晴らしいのであるが、実現するには覚悟が必要であり、「それは1分間では不可能」、ケン・ブランチャード教授はそう言っているのである。

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