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現場と理科教育学の関係

◆「彼」との出会い


  「はい、必ず三浦先生の授業の役に立ちます」はっきりとした言葉で、彼は返答した。

 2017年の3月のことである。北海道大学のS教授からの電話があって、
「ウチの大学院生が現場の調査をしたいのだが協力してくれないか。」という。S教授に対して、断る理由はない。「はい、いいですよ。」と、その翌日、私の勤務する中学校に彼はやってきた。大学院生なのに名刺を交換した。

  「現在の中学生の理科に関する調査を行いたいのです。これまで、理科に関する苦手意識がいつ生じるかを研究しておりました。また、領域では他の領域よりも物理領域の苦手意識が強いことが調査でわかっています。電磁気学などで必要になる、メンタルローテーションの傾向分析についても研究しています。」
 正直、この段階で(恥ずかしながら)理解ができない。ただ、無防備に頷いた。
 「三浦先生の協力で、A中学校(当時の私の勤務先)の中学生の傾向を調べたいのです。」
 断る理由はない。

 その後、質問紙の概要がメールで送られてきた。質問内容に、「~について、1~5で評定してください」とある。イタイケな中学生への質問に「評定」とは何か。前後の脈絡から判断して、「1~5より、一番近い数字を選んで○印をつけなさい」だと思ってメールに返信すると、「現場の先生ならではの記述です。そのとおりです」の返信。
 「ほほう。これが研究者との出会いだ。」と、妙に嬉しかったのを思い出す。

 以下余談として。
 正直に告白すると、私は、大学4年時大学院進学に大いに心揺れた時期があった。
 当時、私の研究室は「鬼の物理学教室」と他の研究室学生から恐れられていた。担当教授は工学博士で、大学3年なのに、講義以外は朝8時から夕刻17時拘束が厳命されていた。曖昧な言語を嫌い、つねに科学的な論理思考と、明確な文章の書き方について厳しく指導された。当時最先端の応用物理学のESR解析が主研究だった。研究室としても、パソコンプログラムによる人工知能開発や、生体半透膜のESR解析など、生体物理学に関する研究が多かった気がする。私は、電気振動におけるフラクタル現象(心筋生理)の解析の実験に明け暮れていた。まず、先行研究の再現すらできない。電圧制御がうまくいかない。部品が壊れる。先行研究再現に成功したあと、やっと自分の研究の記録をするために、ポラロイドでオシロスコープを撮影する。ピントがボケる。もう一度撮影しようとすると電圧が安定しない。それを、人知れず毎日暗室に篭ってやっていた。
   他の研究室の仲間が卒論に取り掛かろうとしている中で、私一人だけ結果が出ない。そんな折、担当教授が「ミウラー!まだ結果でないのか。卒業しないで大学院行ったらどうだ。紹介するぞー」と、怒りなのか、お誘いなのか、分からない口調で言った。
   今考えれば、この言葉に乗る手段もあったと思う。
もう少し、アカデミックな場所に身をおいてもよかったのかな。と思うことがある。

 だから、北大院生の彼との出会いは、私に甘酸っぱい若き日を想起させたのだ。そして、この日から私の理科教育が、理科教育学にわずかにシフトすることになる。

 話を戻す。
 彼と出会った当時、北海道中学校理科教育研究会(道中理)の研究部で、全国大会での実践発表者研究支援チームの担当だった私は、実践前後の「理科アンケート」の分析結果に頭を悩ませていた。百分率で示されたその数値に実践前後の「明確な差」が見られないのだ。支援チームからは、「数パーセントの上昇が見られた」ことを成果としている。確かにそうだ。しかし、どうも僅差で成果としてよいものかどうか。
 折りしも、その冬の道中理冬季研修会で、北海道教育大学W先生から、「道中理の実践研究は大変すばらしいものです。強いて言えば、実践前後のデータに統計的な処理を施すことでより説得力が出る」との助言をいただいた直後だった。

◆現場での研究者


 5月の連休明けに、理科アンケートを実施した。
 私の受け持っている学年すべてで、彼が実施要領を説明し、調査を行った。この時点で、彼とのつながりは、調査活動後の結果の個人情報をふくまない部分でのフィードバックの報告があって「調査活動への協力終了」だと考えていた。
 数日後、彼から「三浦先生、私の調査だけではなく、よろしければずっと先生の授業を見せていただいて、学校の現場で調査以外でも生徒の様子を観察して、先生方の仕事にも携わりたいのです。」と言う。断る理由はない。
 以降、彼は「授業補佐」としてA中学校での「勤務」となる。
 私の授業参観だけにとどまらない。授業準備から片付け、時には予備実験まで取り組んでいただいた。学校行事の時の手が足りない部分の業務もこなす。さらには、A中学校新校舎移転のための引越し作業。学校としても大変頼りになる存在となった。
 さらに、彼は生徒との関係を良好に築くのがうまい。だから、授業前後の教科に関する質問にも気軽に答えるし、休み時間も生徒と談笑して過ごす。生徒にとっては、北大院生というあこがれの存在でもあったのだ。その後、2年目は「学びのサポーター」として、別室登校の配慮を要する生徒の対応もしていただいた。

 長々と駄文を連ねたが、研究者としての彼との出会いはこのようなものだった。

 研究者独自の言語がある。
 既述した「評定する」と、もう一つ違和感を覚えたのが「介入」である。
 例えば、3年天体分野での空間認知に関する効果量測定の研究を行うために、私が授業アイディアを彼と話し合う。
 私「3クラスのうち、2クラスで、理論を先にやってその後にモデル実験をしようと思う。他の1クラスはその逆でどうだろう」
 彼「そうですね、介入のタイミングで分けるのであれば、指導する学級の能力差を加味する必要がありますから、介入ありの学級と介入無しの学級は私が決めていいですか」
 私「カイニュウってなに?」となる。
 今はもうすっかり慣れたこの言語だが、介入と言う言葉に、「軍事介入」とか「強制介入」とかいう、おそろしいイメージを持った。

 研究者(彼)と現場教員(私)は、互いに考えたこと、気づいたことを世間話程度から、かなり込み入ったことまで話せるようになった。
 印象に残っているエピソードがある。 ある単元の授業方法として、私としては「新しい試みとしてやりたいこと」を彼に話したときだ。彼は「先行研究はありますか。」と問う。私は、つい「知らないけど、やってみる。」とやや乱暴に答えた。瞬間、私と彼の間に齟齬が生じた。その後、彼は「巨人の肩の上にのる矮人」のことを教えてくれた。現場授業実践者が何気なく(悪気無く)やっていることが、科学研究の側面から見た場合の当然の解釈であることを再認識した。そもそもが、自然科学を教える立場の者が科学の実証性、再現性を指導しているのに、自分自身の授業の作り方への姿勢(研究への姿勢)に誤りがあったのだ。
 以降、互いに遠慮は無くなった。
 冬休みに、彼に統計学の基本を教わり、HADの利用の基本を習った。
 (ただし、すべてを習得できていないことが寂しい)
 私は彼に、特に観察・実験での指導方法や教材の扱い方を惜しみなく伝えた。
 以下、彼と共同で行った授業実践および、研究実践を掲載する。
 ・中和滴定におけるパフォーマンス評価(共同評価)
 ・運動とエネルギーにおける発展的な課題(台はかりを傾けると目盛りはどうなる)
 ・四季の星座の移り変わりのモデル実験とシミュレーター実験の定着度の相違
 ・天体領域の学習結果と空間図形認知の関係
 ・光学(光の屈折)における苦手意識を低減する授業構築(物理領域の苦手低減)
・電流領域の個別パフォーマンス課題と査読による相互評価
・中1理科オリエンテーションにおける課題探究型授業の指導と研究倫理に関する指導


◆学習意欲と課題価値理論


 私が彼との日常実践のなかで、特に関心を持ったのは学習動機に関する課題価値理論である。中学生における「入試に出るから学ぶ」「テストに出るから努力する」というような制度的利用価値と、興味価値や実践的利用価値についての概念をきちんと知ることができたことである。これは、当時私が授業作りで一番重要だと考えていた「学びを機能させる理科の導入」P.32-34「理科の教育01」(2014.1東洋館出版社)で述べたこととつながりがあった。授業をつくる方法論は、「そもそも理科は不思議だから学びたい」という「学びへの意欲」を何とかして育みたいということを基盤として論じている。ただ、恥ずかしながら執筆時は課題価値理論すら知らなかった。それが、彼との出会いで明らかになったことも理科教育学へのつながりといえる。


*「高い制度的利用価値の認知は理科における”主体的・対話的で深い学び”を妨害するか?」2017:日本科学教育学会研究会研究報告Vol.32 No.1

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsser/32/1/32_No_1_170103/_pdf

◆課題探究型授業と研究倫理


 さらに、私は7年前から「課題探究型授業」をどのように構成するかを、子どもたちと、指導する教員向けの「指導ガイド」を作成して指導に活用していた。これは、主に理科における学び方である「課題設定」「仮説設定」「観察・実験」「結果」「考察」「結論」という科学的な手法を示すものである。(*下図参照)

 これも、彼との出会いによってバージョンアップしている。特に、中学生は観察・実験において、結果が予測と異なった場合、悪気無く「理想的なデータに書き換える」ことがある。「綺麗なデータの方が先生の評価が高くなる」あるいは「教科書や塾で得た事前の知識から、意図的に結果を合わせる」傾向があることを、これまでも授業の中で認知していたが、具体的な指導を決めあぐねていた。
 ここに、かれの「研究倫理」の考え方を加えることによって、「実験データが予測値と異なっていても、書き換えないこと」や「データが異なっていた場合、なぜ異なったかを考えることも理科」という文言を加えた。このことで、中学生といえども「研究者の倫理」を伝える機会を創出している。しかも、これは、教科書にも指導書にも書かれていないのである。

◆現場と理科教育学


 本稿は、「理科教育学と現場のつながり」として書いている。

 私と彼が現場で過ごした日々は、そのものが「理科教育学と現場のつながり」であったと考える。私の拙い実践の成果は、彼の統計処理によって研究としての体をなすことができた。
 実践者である現場教師は子どもたちの一番近くにいる。その子どもたちに、「理科の楽しさ」を伝えたい。楽しい授業をしたい。そのような思いで「実践研究の船」を漕ぐ。一方で、その航海の方向は様々であり、全国数多の理科教師が、それぞれが何らかの成果をあげている。
 ただ、大くくりの「この方法がより効果的である」という研究者の言葉を知っていたほうがよいと思う。研究者が示すエビデンスを知らないで、エビデンスと真逆の実践を行うことが起こりえるのも現場である。

 私の12月7日付けの記事では、「新学習指導要領」を基本とする中学理科授業と現場の危惧について述べた。

矛盾した内容を記述して本稿を終えたい。

レイチェル・カーソンは、彼女の死後に出版された「センス・オブ・ワンダー」で、
「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない“センス・オブ・ワンダー = 神秘さや不思議さに目をみはる感性”を授けてほしいとたのむでしょう。」
と述べています。

理科教育そのものが「センス・オブ・ワンダー」でありたい。
法的拘束力のある学習指導要領ベースの学びや研究は、大切なものであるが、自然科学の根源である、「不思議なことを知りたい」という、子どもの動機が授業の始まりでなければならないと感じている。
 
 一方で、研究者の導き出す統計的な効果量をきちんと理解する現場教員でありたい。
 「質」「量」どちらも、現場には必要だと感じている。

 そして、このような思考ができるようになったのも研究者の出会があったからだと考えている。プロフェッショナルとしての現場教員は、研究者のエビデンスを得て、正しく理解することで、その日常の授業実践(筆者は、生徒指導や学級指導にも生かされる考えている)に厚みが増すと考えている。

 11月7日の「理科教育学シンポジウム」を終えた後、以上の内容が私の頭の中をグルグル回っている。その後の皆さんの投稿も大変興味深く読ませていただいている。


冒頭の「はい、必ず三浦先生の授業の役に立ちます」は、本当だった。

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