【超意訳】身銭を切れ――「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質

不確実な世の中における意思決定方法には様々な考え方があるが,こんなときだからこそ,じっくり腰を落ち着けてタレブの考えに耳を傾けてみたい。過去の著書も再読してみようと思っているが,まずは最新刊の『身銭を切れ』から。

身銭を切れという題名からは,ただの説教臭い話かと思ってしまいがち。しかし,そんな内容に本1冊を費やすわけもなく,実際には,ランダムネスに晒される個人やシステムが健全に機能するためには,各個人がどのような行動規範のもとに生きるべきかを説いている。タレブ自身は2020年現在の混乱をブラック・スワンとは捉えていないようであるが(下記Newyorkerの記事),きっと何かのヒントになるだろうと思う。

https://www.newyorker.com/news/daily-comment/the-pandemic-isnt-a-black-swan-but-a-portent-of-a-more-fragile-global-system

さて,本書のタイトルにもある「身銭を切る」は,その利益に見合ったリスクをきちんと負うという意味である。本書ではこの状態を対称性と呼んでいる。一方で,誰かが利益を独占し,リスクだけを背負わされた人がいる状態を非対称性と呼ぶ。例えば,発言の責任を問われない官僚や専門家(ワイドショーにたくさん出てくる),都合の悪い情報を巧みに隠して取引しようとする物売り(携帯ショップ),自分のことは棚に上げて子供に命令する先生・親(自分)・・・。社会は利益追求をすればするほど,至るところにこの構造ができてしまう。だからこそ,ノブレス・オブリージュという精神があるのだ。身銭を切るとは,これを全人類に実装するための言い換えとも言える。

これだと早々に言いたいことが終わってしまうのだが,タレブは書籍のタイトルを『身銭を切ることの意外な側面ー隠れた非対称性とその影響ー』と文章中で言い直しており,本書の中心話題は身銭を切る事の具体的な効果に移っていく。

身銭を切ることの個人的な効果

タレブは身銭を切らない輩に,次のようにぶちかます。

自分の意見に従ってリスクを冒さない人間は、何の価値もない
語るものは実践するべきであり,実践するものだけが語るべきである。

これだけだと,耳が痛いお説教として本を閉じて終わるかもしれないが,もしこういう輩が他人だったらどうだろうか。身銭を切るという考え方は,他人を見極めるために使うことができる。

アドバイスが間違っていた場合の罰則が存在しない限り、アドバイスを生業としている人間のアドバイスは真に受けるな。

安全なところで意見するだけの専門家や批評家を痛烈に批判する。言っていることの良し悪し以前に,その人間の置かれた立場から判断しろと言うことだ。全員にこのような見方が実装されれば,どんな人でも渋々身銭を切らざるを得なくなる(子供は身銭を切らない連中に敏感だから、子供社会はいまでも健全だけれど)。でもこのような社会になるには時間がかかるし,受け身な対応が気にいらない人もいるだろう。そういう人の筆頭であるタレブは,自己啓発的にもメリットがあると言う。その具体的な事例として,タレブ自身も自らが数学を学び始めたきっかけを紹介し,これが身銭を切った行為だったからこそ,学びに集中できたと述べている。

火事になると人はだれよりも早く走れる。

例えば,物事を達成するために,目標を周りに宣言するということが行われる。これは立派な身銭を切る行為だ。なぜなら,達成できなかった場合に自分の名前に傷がつくからだ。〆切というのも身銭の一種なのかもしれない。

身銭を切ることのシステム的な効果

ここまでに,身銭を切るという行為の意味について,他人の品定めと自己啓発的な側面を紹介した。この本の最大な主張はこれらではなく,タレブが素晴らしいのは身銭を切ることの意味を社会システムに対して展開している点である。身銭を切ったところで失敗した場合に,もちろんその本人も学習するが,一番学習するのはシステム自体である。なぜなら,失敗した人間を何らかの形で排除することで,システムの健全性が強化されるからである。タレブは,肯定より否定の力を重視しており(例えば,カラスは黒いという命題を肯定するためには黒いカラスをカウントし続ける必要があるが,否定する場合には白いカラスを1羽発見だけで良い),このときシステムは否定の道で健全性を強化できる。すなわち非常に効率が良い。つまり,個々人に身銭を切るという行動原理が実装されれば,その人達を構成員とするシステムにおいては,自然と健全な状態(言い換えればフェアな状態)が保たれることとなる。もし,非対称性により利益のみを享受する人間がいれば,システムの新陳代謝が滞り,システム自体が腐る。

なお,このような話は,ある集合の論理としては成立するが,一個人としてはなかなか受け入れ難い話である。その点はタレブも認識しており,身銭を切り,魂を捧げる人には適度な保護主義が必要という見解も述べている。

最後に,このようなシステムにおいては,合理性の定義が更新されることを述べる。

合理的なものとは、集団(長く生き延びなければならない実体)の生存を可能にするものである。

通常,合理的な選択とは,理にかなった一貫性のある選択肢を,例えば貨幣価値等で計量することで,システム全体での価値を最大化する選択を行うといったことが思い浮かぶ。しかし本書では,システムが吹っ飛ぶようなテールリスクを考えるタレブらしく,生死のいずれかで考えているという点が面白い。ベルカーブが成立するような世界で計算される価値の期待値のようなものは考えていないのだ。

最後に

タレブの主張するような社会は確かに厳しいかもしれない。しかし,他人のズルを見て見ぬ振りをして,お互い様となあなあにやり過ごすような社会に比べれば気持ちがよく,一人ひとりが自分の責任で(もちろん適切なセーフティーネットは用意した状態で)集団の生存のために主体的に生きる。小さな1票をありがたがるのでなく,一人ひとりが集団全体を救うようなナイトとしての犠牲を望む。こんな社会を夢想してみるのも良いかもしれない。

※本文章の引用は,いずれも「ナシーム・ニコラス・タレブ 身銭を切れ ダイヤモンド社」による。

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