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機械化された人間とは

インフルエンザに倒れた妻と息子。そしてあらゆる風邪をもちもちボディで受け付けない娘がぐっすり眠る夜。父はモンハン仲間があまりにいなくて凹み、Netflixでアニメを観続けている。

その中で脳をサイボーグに移植した大富豪が出てくる。彼はいずれ私の意思も感情も記憶も脳が司る全ての役割を機械化し、不老不死を目指すという。そこに疑問を感じる登場人物が「それではあなたではなく、もはやあなたそっくりの機械ではないか?」と問いかける。うん、俺もそう思った。

すると大富豪は下手くそな笑みでこう聞く。

「あなたはオンラインに接続していますよね?仕事は何で見つけました?今日の天気を見て傘を持ってきましたね。食事はオンラインで評価の高い店を選ぶ。友達との対話はオンラインに接続された機械でしょう。ここまでくるルートももしかしたらナビを利用したかもしれません。SNSで共感が集まると嬉しいでしょう。何も反応がなければ寂しいでしょう。では、もしオンラインに接続されていなかったら?あなたに何ができますか?」

畳み掛けるように言葉を重ねる大富豪。そのアニメの言葉をじっくり考える。そして、ぼそりと「何もできない」と画面につぶやく。登場人物もタラっと汗を垂らして同じセリフを吐き出す。

つまり、身体的に機械化することと、ライフラインのほぼ全てを機械(オンライン)に依存する形で生きてる私たちもまた機械化を否定できない別の意味で機械化された存在ではないか?という投げかけなんです。少しSF設定のアニメなんだけども、そこを逆手に現代を揶揄する表現を差し込んでくる。

サイボーグと変わらない。
全ての与えられる道具を破棄して、生身の個体として成せることは何か。本来、その視点で人々は生きていたはずだ。火縄銃が生まれて戦の在り方が変わり、蒸気機関で産業の在り方が変わり、インターネットで社会の在り方が変わりつつある。

しかし、これら全て『道具の使い方』の話であって、使う人間そのものを問うていく必要があるのだと気付かされる。人の歴史は過ちの歴史なんていう。無我なまま道具を使ってはいけない。使い方を誤ると大きな不都合が起きる。銃の使い方を知らずに銃を撃つと肩が外れるらしい。その威力を知らない無知故の怪我である。

道具が与える影響とそれがもたらすものを知った上で「必要か不必要か」の判断を自分の意思で行う必要がある。なんだか考えさせられるアニメだった。というか考えるくらいしか、この深夜のひとりぼっちの時間を過ごす術がないからだけど。寝るか。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。