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失われた30年

 日本の失われた30年というが、何が失われたのだろう。

 2019年10月20日に行われたラグビーW杯の決勝トーナメント、準々決勝、日本対南アフリカを見ていて思った。

 ラグビー日本代表の選手が初戦と同じくらい、ガチガチに緊張していた。

 試合は、南アフリカのミスがたくさんあったのにも関わらず、なかなか得点できず、3−26という大差で敗れた。グループリーグ予選の快進撃からすると、まさかという結果だった。

 2018年のサッカーW杯で、決勝トーナメントで日本が2点リードしながら後半同点にされて、ロスタイムで逆転された記憶と重ね合わせてしまった。

 グループリーグと決勝トーナメントは、戦い方が全然違う。

 日本代表は、サッカーもラグビーも決勝トーナメントの戦い方を知らない。つまり、選手たちに未経験の戦いを勝ち抜く心の準備ができていなかった。

 決勝トーナメントは、何度か経験しないと、勝てない。

 伝統のあるスポーツの世界大会で、勢いだけで決勝まで勝ち上がるという展開は、とりわけ男子のスポーツでは、あまり見かけない。

 何度かの決勝トーナメントでの戦いの、経験がないと勝ちあがれない。

 決勝トーナメントでは、チームの伝統と歴史が、物を言う。

 厳しい現実を目の当たりにしてしまった気がした。


 明治維新以降、日本は欧米に追いつき追い越せで、近代化に邁進した。富国強兵、殖産興業と国民総動員で、国富を蓄えてきた。日清日露戦争を戦い、列強の仲間入りを果たした。

 要するにグループリーグを勝ち抜いて、決勝トーナメントに出るくらいの実力になった。その後、大日本帝国は、第二次世界大戦で、コテンパンに負けて、決勝トーナメントの厳しさを知る。

 戦後、民主国家日本は、経済という分野で、アメリカに追いつけ追い越せで、アメリカ様の指導を仰ぎつつも、冷戦体制を戦い抜いてきた。

 あれはまあ、世界大会が二つに分かれていた時代だから、決勝トーナメントの出場国が、半分だったようなものである。

 ロシアもドイツも中国も韓国も、別の世界大会をやってるようなものなので、対戦しなくて良かったので、戦後日本は、毎回決勝トーナメントに出ていたような感じだ。

 そして冷戦が終わった。

 全世界のチームでの、ガチンコ勝負になった。

 冷戦が終わった90年代以降の日本は、決勝トーナメントになんとか出場しているが、全然勝てなくなってきた。グループリーグ突破も、ようやくだという感じだ。

 サッカーやラグビーのW杯に例えれば、そんな感じだ。 

 それが、失われた30年のはじまりである.

 失われた30年を生きてきて、私が主観的に感じることは。日本人が、薄っぺらくなったことである。

 政治家の薄っぺらさというのは70年代からはじまったような気がするが、本格的に薄っぺらくなったのは、小選挙区比例代表制の定着した2000年代からだ。

 政治家の薄っぺらさが、とりわけ目につく。

 国民が選んだ政治家が、本を読まない。気の利いた古典の名言を引用して、演説するとか、そういう素養がない。死ねとかクズとか、そういう言葉遣いを平気でするようになった。国民を端から見下したような、尊大な振る舞いや失言をして、謝るどころか、開き直るようになった。

 要するに、目先の選挙のことしか考えていない。それにつれて各界、目先のことだけ考えるリーダーが増えた。

 日本の政治家に、グループリーグを勝ち抜けるリーダーシップを期待できない。官僚も同じだ。リーダーシップが割に合わないから、忖度と自己保身に身をやつしている。

 世界の変化に対応できるような、長期的な戦略も相手の裏をかくような戦術もない。自分たちの立場を守るだけで、組織をコントロールできていない。統治しているようなふりをしているが、妥協に次ぐ妥協で、組織を維持しているだけで、ガバナンスの実態はスカスカである。ガバガバといったほうが、リリックか。

 災害対応に、ガバナンスのガバガバさが、透けて見える。政治家は、災害を他人事のように思っているようにしか見えない。災害において、統治の実態が露呈すると、私は思う。

 東日本大震災以降、自然災害が起こるたびに、いよいよ、国家は災害から国民を守る気がないのではないか、と私個人は、思うようになった。

 他人事という感覚は、サッカーやラグビーの指導者が、選手の怪我やミスによる敗北を、他人事だと思っているのに近い。プレイヤーに全て責任転嫁して、自己正当化している首脳陣の無責任さを感じる。

 そんなチームに所属していたら選手はやる気にならない。首脳陣批判に終始するだけだ。今の日本も、国民の自己責任が問われる、やりきれない場面が多くなっている。

 明治時代は、そうは言ってもお抱え外国人教師をたくさん招いたり、めぼしい人材を留学させたりして、リーダーや近代的組織の育成に、地道に取り組んでいた。

 また、戦後の経営者も、アメリカ経由で海外の技術を学び、研究・応用して、国際市場で競争できるような工業製品づくりを心がけてきた。

 しかし、失われた30年においては、国会も、官僚組織も民間企業も現状維持の弥縫策でやりくりしているだけだ。

 ただ過去の栄光にしがみついて、過去の遺産を食いつぶすだけである。ガバナンスできるだけの実力は、ギリギリあるかないかの惨状だ。

 学ばないというのは、恐ろしいことだ。各界のリーダーの振る舞いを見ていれば、危機感すら、本当はないのではないかと思う。

 とりわけ、日本の政治家に、危機感はまったく感じられない。

 問題解決能力以前に、問題を設定する能力もない。茹でガエルと同じ危機感のなさである。鈍感力という話ではなく、感覚麻痺である。

 政治家をはじめ、リーダー層の歴史意識やリテラシーが、著しく下がった。本を読む人が少なくなった。言葉遣いが、汚くなった。礼儀作法を軽視するようになった。

 真剣に統治しようと思えば、過去に学ぶし、言葉を選ぶし、礼儀作法に気をつけて誤解されないように努めると思う。そういう意識がない。意識ないのは、わざとではなくて、わからないのだと思う。

 旧欧米列強は、伝統や習慣の惰性や、植民地を経営していた時代の遺産かもしれないが、統治の基本的技術がそれなりに維持されている。まだ基礎体力がある。アメリカは衰退し始め、イギリスも衰退して久しいが、国際政治の舞台においては、狡猾だし、しぶとい。

 国際ニュースを見ていれば、日本のニュースではボロクソに揶揄されるトランプさえも相当な策士ではないかと思う。交渉の場でブラフをかますテクニックは、WWEしこみかどうか知らないが、一流だ。

 ブレグジットで顰蹙を買っているボリス・ジョンソンも、単なる変人に見えなくもないが、それでもどこか、伝統的に交渉に長けた狡猾なイギリス人だ、という感じがする。

 一方、日本の外交は何やってるか、全然わからない。北方領土も、北朝鮮の拉致問題も、どうなってるんだかわからない。とりあえず、国内向けに、国際的な存在感を宣伝しているだけの内弁慶だ。

 さらには、大日本帝国時代の外交の遺産も、なにもないような外交になっている。

 外交以前に、日本は、もはや自分たちで自分の国を統治できなくなっている気がする。

 リーダーがいない。マスメディアで作られた、芸能人気取りの偽物リーダーはたくさんいるが、本物のリーダーはほとんどいない。本当にいたとしたら、サッカー選手のように海外に行ってしまうのではないか。

 今の日本は、元に戻った伏見工業ラグビー部みたいなものだ。カツアゲ万引き、なんでもありの不良集団の悪ふざけが描かれる、『スクールウォーズ』のオープニングみたいである。

 指導者には、体罰だけが取り柄の山下真司みたいなのしかいない。

 このまま日本が、接戦の末、グループリーグ敗退みたいなしょうもない状況を、ずるずる続ければ、失われた30年どころか、日本という国家そのものが国際社会の中で沈んでいくと思う。

 今の日本は過去の歴史の遺産でようやく食いつないでいるだけだ。

 庶民レベルで底上げという話ではない。そんなことは、後回しだ。

 リーダーがリーダーらしくなるように、もう一度、何十年もかけて、人間を育成して、すぐに結果が出なくても、根気よく地道に学び直す時期に来ていると思う。

 明治の人たちが、横文字の本を辞書を引きながら、コツコツ勉強したようにである。

 少なくとも、日本の政治家は、もうちょっと歴史の勉強はしたほうがいいと思う。自国の歴史も世界の歴史も。思いつきで、政治をやっているみたいに感じる。

 ファミコンやってるみたいに政治をやっていて、無責任に見えて、怖い。

 この30年で失われたのは、過去の遺産である。

 もうそろそろ、全部食い尽くす段階に来ている。 

 国民を抑圧するためのアメとムチの政治的技術だけは、まだ最後の遺産として後生大事に抱え込んでいるが、こんなもの、負の遺産である。

 いまさら棚卸されても困る。

(おわり) 
 

お志有難うございます。