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絶対的禁止によって愛が現れる

「どんなあなたでも愛しているよ!」
と、子どもに言ってあげたい。

いや、子どもに限らず、人に対しても、その人のあり様をそのまま受け入れたい。

条件付きの愛ではなく、ありのままのあなたを。
いつもそう思う。

博愛主義的な…愛を持てたら、と。


けれど

ありのままとは?一体なんだろうと思う。

その人の意思を尊重して受け入れたい。
どんな選択も、その人の選択として尊重したいと
本当に思う。


しかし
堕ちていくのも
破滅するのも
自死すらも
尊重すべきなのか?

わからなくなる時がある。


誰か…哲学者も言っていたけれど
それは、人間の選択の一つなのかもしれないし。


バカなことはやめて欲しい
自分を傷つけないで欲しい
生きて欲しい
と、求めることは

余計なお世話かもしれないし
だのエゴかもしれない。
相手を慮ればこその逡巡があり。
人間の尊厳にズカズカと踏み込むことへの躊躇い。

難しいです。


近藤卓さんの臨床心理学の本には、
"理由のない絶対的禁止があってこそ、愛が立ち上がってくる"
というようなことが書いてあり。

つまり全てを許すことは、無関心と似て、その中に愛は無く。

理由を必要としない禁止。
例えば「人を殺すことは絶対に許さない。」といった絶対的禁止を持つことで、初めてその他の許し(尊重)が意味を持ち、愛に変わるのだ。と。


理由はないけれど、あなたを愛している。
という無条件の肯定が人間(特に子ども)には必要で。

今流行りの「子どもであっても、子どもが納得するように何でもちゃんと説明する。」子育ては…その子が生きることにも説明を必要としてしまう。
裏返せば、生きることには理由が必要で、生きることには条件が必要。と受け取られかねない危うさを包含する。

世界には説明が付かないことがあって良いのだ。ということ。
(あなたが生きていることもその一つ)

だから子育てには、
「理由なんか言えないけれど、お父さんとお母さんは”これ”は絶対に許さない!」という一線が重要だと、近藤さんは説いている。

その一線を越えた時は、しっかりと叱るべきだ、とも。

そうした絶対的禁止があるからこそ
「理由なんか言えないけれど、お父さんとお母さんは何があっても君を愛している!」
という言葉が説得力を持つのだと…。
そうした愛によって、子どもは健康な自尊感情を育んでいくことができるのだそう。



あなたが死んだら悲しい。
理由なんて説明できなくても、ただ私は悲しい。
死んではいけない。
という絶対的な禁止があるからこそ愛が現れるのだとするなら…

やはり愛はエゴであって
エゴがあってこそ愛なのかもしれない。

 

そう思うようになってから、絶対的な一線(エゴ)を持つことに罪悪感をあまり感じなくなった。
私はあなたに幸せになって欲しい。
私はあなたに生きていて欲しい。
私はあなたに死なないで欲しい。
と、私のエゴをぶつけることこそが愛なのかもしれない。

もちろん程度問題ですけどね。

子どもについても、ほんの少しのエゴを向けることは完全な悪ではないんだと思う。

あなたに幸せになって欲しいよ。
ほんのちょっぴり、期待もしてる。
あなたを信じるよ。
という愛(エゴ)。


夫婦の間に「何を絶対的禁止」とするのか、コンセンサスを取っておくことが大切なんだと思います。
そこがズレると子どもは混乱しますし。
子をコントロールしようとする禁止はただの抑圧ですし。



説明できないけれど、私もみんなも、今日を生きていることがとても素晴らしいことに思えます。



小波


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