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#14 「はじまり」のナノイ村

リングにあがった人類学者、樫永真佐夫さんの連載です。「はじまり」と「つながり」をキーワードに、ベトナム〜ラオス回想紀行!(隔週の火曜日19時更新予定)

©Masao Kashinaga 

※今回はトゥアンザオを発ちディエンビエンフーまでの話
11月26日(火) 22:15〜 ディエンビエンフー
 朝6時に起床。軽くフォーを食べると車で出発した。通りすがりに出会ったモンのお宅を電撃訪問した。
 そのあと何時間も車で走って峠をいくつも越え、2002年に着工したダム建設の副産物としてできたダー河にかかる大きな橋を渡り、パック・ウオンの三叉路で昼食をとった。トゥアンザオに着いたのは4時。
 黒タイの村で1時間ばかり遊び、おこわと肉の燻製の弁当をもらってトゥアンザオをあとにした。ナーノイ村はゾム川ごしに国道から拝み、ディエンビエンフー着が6時。ホテルのレストランでの夕食に、おこわと肉の燻製ももちこんで食べた。食後はそぞろ歩いてスーパーに買い物。戻ったらもう10時。
 のどがあまりに痛く咳が出て夜眠れなかったが、今日S氏から抗生物質や痛み止めなどを頂戴し、それでしのぐことにした。

トゥアンザオからディエンビエンへの途中にある、
黒タイが占めたマー河水系のムオン・フアッの盆地(1997年、ディエンビエン省)

ひょうたんからなにが出る?

 むかしむかし、地上に人はいなかった。
 天帝は女神バウドゥクに人をつくらせ、巨大なひょうたんのなかに詰めて
 天から地上へと降ろした。
 3ヶ月後、天帝は地上のようすを見に臣下のクアン・コンをつかわした。
 クアン・コンが地上に降りてみると、巨大ひょうたんのなかでたくさんの
 人が銅鑼太鼓をたたき、歌って踊って盛りあがっているようす。烈火であ
 ぶった鉄の棒先でひょうたんの皮を焼いて穴をあけてやると、穴のへりの
 焦げススで頭も体も黒くして、30の種族のサーが楽器を奏で歌って踊りな
 がら続々とはいだした。
 だが、ひょうたんのなかは、なおもにぎやか。出てくるのをためらってい
 る人たちがまだまだいる。
 「われわれは数が多いんだから、もっと穴を大きくしてくれよ」という彼ら
 の注文に、「それもそうだな」と、クアン・コンは刀でひょうたんを割い
 て穴の口を大きく開いてやった。すると50の種族のタイが、これまた歌っ
 て踊って楽しそうに、今度は体にススなどつけず、白いまま歩いて出てき
 た。
 ひょうたんはハラのなかの子をうんでしまうと、そのまま石になった。こ
 のひょうたん石がある場所にできたのが、「ひょうたん村」を意味するタ 
 ウプン村だ。

 人類の「はじまり」を、ディエンビエンの黒タイはこのように伝えている。この話は、この地域にすむ民族どうしの関係も語っている。
 サーとは、自分たちが来る前からいた先住民族たちをよぶ黒タイ語で、モン・クメール語系、カダイ語系などのことばを話すたくさんの民族を含んでいる。ただし、サーは蔑称として使われることも多いから、サー(ラオスでは「カー」)がつく民族名はベトナムやラオスで公式には採用されていない。
 神話でサーが先にひょうたんから出てきたのは、タイにとってサーは先住民だからだ。黒タイの諺にも「サーは兄、タイが弟」とある。また、「30の種族のサー、50の種族のタイ」というのは、盆地を占めている黒タイの方が、山腹や谷の奥に住むサーより人口が多いからだ。
 サーとの外見上の違いもここには説明されている。
 仏領期まで存続した黒タイ首領を頂点とする統治制度のなかで、サーは低い身分としてあつかわれ労働に使役されていた。そのため黒タイはサーを見下し、その文化や容姿をバカにして笑うことがある。肌は白い方が美しいとされるので、サーは色が黒いというのも、そんな差別意識と無関係ではないだろう。

モン・クメール語系コムーの村落景観。近隣の白タイ同様の高床式住居に暮らしている
(2004年、ライチャウ省シンホー県)
この村のコムーの女性たちは、近隣の白タイと同じ衣装を着ている。コムー語は維持されている(2004年、ライチャウ省シンホー県)

 人類の「はじまり」の話にもどろう。
 ひょうたんから駒はもちろん、ひょうたんから人だってありえない。だが、この話はディエンビエンの黒タイのあいだだけでなく、ラオスで人口最多の民族ラオのあいだでもかなり有名な話だ。ラオは次のように伝えている。

 ひょうたんのなかから人の話し声や笑い声が聞こえるので、カミさまが鉄
 の穴開けを熱してひょうたんに差し込み穴をあけると、三日三晩で男女が
 あふれ出てきた。最初に出てきたグループがカー(黒タイ語のサーと同
 じ)、次にラオ、最後に高地民たちだった。熱い穴を通ってきたカーは肌
 が黒いが、熱が冷めてから出てきたグループは色が白い。

 黒タイの話とそっくりではないか! 
 だが黒タイの話に高地民は登場しない。モンなど高地民の入植は主に19世紀以降だから、高地民が登場しない話の方が古い伝承形態だろう。

鳥のエサにする小米を保管するひょうたんカゴ。天井のハリから吊しているのは
ネズミから守るため
(2004年、ギアロ)
ひょうたん柄杓。水ガメから洗面器などに水をうつすのに使ったものか
(1999年、ディエンビエン省)

たらい岩

 タウプン村からゾム川上流3キロほどのところにヨシの原っぱがあり、そ
 こに茂るヨシを、まるで人がサトウキビの茎をしがむみたいにネズミがバ
 リバリしがむ。そのため黒タイはネズミサトウキビ(オイヌー)とよぶ。
 ひとびとはそのヨシの原を刈って田んぼにし、村をつくった。それが「小
 さな田の村」を意味するナノイ村だ。ナノイ・オイヌー村ともよぶ。

 ゾム川越しにナノイ村をながめるのが、トゥアンザオを発ったわたしたちの次の目的だった。タウプン村も国道を少し行った先にある。
 トゥアンザオを出発して30分も走ると、わたしたちの車は国営農場の町ムオンアーンに至り、まもなくカーブの少ない峠の坂道をのぼる。てっぺんをこえ、下っていくとゾム川に出会う。まもなくナノイ村だ。
 わたしはS氏と土手の草のうえに立ち、ナノイ村を望んだ。おそらく1997年9月5日にカム・チョン先生と立ったのもそのあたりだろう。
 古いフィールドノートを繰ってみると、「ナノイ村は人類誕生の地。天帝が人に授けた米が誕生したたらい岩が今も川縁にある」と、あたかも先生が語ったかのように書いてあった。だが先に紹介したとおり、人の「はじまり」はタウプン村だ。しかもナノイ村近くのたらい岩はひょうたん岩とは別だ。そのことは先生の著書『ムオン・テーンの伝説』の記述からもわかるので、わたしが先生の話をちゃんと理解していなかったのだろう。
 その本で、たらい岩の伝説は次のように紹介されている。

 ナノイ村に龍ヒメ(ナーン・ルオン)という美貌で力持ちのむすめがいた。ゾ
 ウくらいの大きな岩を動かしてゾム川の流れを整え、その岩を村から800
 メートルほどはなれたゾム川右岸に運んで置いた。
 彼女はその岩に穴をうがち、たらいの形にして、毎日その中で水浴びをし
 た。その岩をたらい岩(ヒン・チョン・ナーン)とよぶ。

 ここに米の「はじまり」の話はない。だが、たらい岩は別の重要な「はじまり」の由緒と関わっている。話の続きにこうある。

 ある日、働き者の龍ヒメがゾム川で魚やエビをすくって捕っていると、突
 然の激しい嵐に見舞われた。雨風ともにすさまじく、彼女はたらい岩に身
 を潜めた。
 嵐が過ぎ去ってしまったあとに訪れた宵の静けさに龍ヒメはうれいを感
 じ、たらい岩でしばし物思いにふけった。
 そこにツバメの精の息子、燕ヒコ(タオ・エン)があらわれた。燕ヒコは彼
 女と話すうち、彼女こそ自分の結婚相手となる定めとなっている、龍の精
 の娘だと知った。
 こうして二人は夫婦になった。龍ヒメは身ごもり、3年と3月と3日のの
 ちボゾムをうんだ。

 龍とツバメの結婚というテーマは、天と地が相和し、水によって育まれる水稲耕作民タイ族の豊かな繁栄の「はじまり」を意味しているのかもしれない。龍もツバメも、亡くなった人のたましいが還るカミの世界としての「天」と、生きとし生けるものの世界としての「地」を媒介する両義性をもつ。かつ黒タイのあいだで龍は水のシンボル、ツバメは地のシンボルだからだ。
 おもしろいことに、龍は男根の、ツバメは女陰の隠喩でもある。だとすると、半神半人の龍ヒメと燕ヒコは二人とも両性具有の全能者だ。だとすれば、息子ボゾムはカミの子だ。

ゾム川の向こうにみえるナノイ村
(1999年、ディエンビエン省)

メコン水系のゾム川

 ボゾムは長じてゾム川を下ってディエンビエンの盆地の南にあるサムムン
 地域をまず支配した。その後、ゾム川をさらに下ってウー川に合流し、そ
 の流域のまつろわぬものたちをことごとく平らげて下り、ついにメコンに
 達しルアンパバンを占めた。

 ボゾムとはゾム川の源の意味だが、ラオス語だとボロムやブロムとして発音される。これに尊称クンを冠するとクンボロム、またはクンブロム。ラオス人なら誰でも知っている伝説上のラオスの祖だ。ただしラオスにおける神話では、ルアンパバンを占めたのはクンブロムではなく、その長男クンローとなっている。
 16世紀に編纂がはじまった「クンブロム年代記」によると、天と地のあいだを神や精霊が滞りなく行き来しあっていた混沌の大昔、クンブロムは天界のインドラ神によって、有徳の支配者として地上に遣わされた。彼の降臨した場所がナノイ・オイヌー村だった。そこに龍ヒメと燕ヒコの話はないだろう。
 逆にクンブロムの話はベトナムではほとんど知られていない。当のナノイ村でさえボゾム(クンブロム)の話はとりたてて有名ではない。そのことについて、22年前のカム・チョン先生は首をかしげていた。
 同じくナノイ村を望んだS氏も首をかしげた。
「ラオス建国の祖がラオス生まれじゃなくて、ベトナム生まれだとは! ラオスの側はそれでかまわないんですか」 
 たしかにヘンだ。
 ラオスのルーツがベトナムにあるなんて、政治的に大丈夫なのか。それに、もうひとつ面倒くさいことがある。ナノイ村の住人はラオではなく黒タイなのだ。
 そもそもラオスはベトナムと同じく、かつてフランスの植民地だったから、ベトナムとラオスの国境線はフランスが決めたものだ。だが、両国とも共産主義国として独立した後は、外交的に良好な関係を保っている。のみならずディエンビエンフーはベトナムにとってもラオスにとっても、フランスからの独立を決定づけた栄光の戦勝地だ。両国にとってそんな栄光の土地だからこそ、そこを故地とする神話があってもかまわないのだろう。でなければ、神話の方をかえる必要がある!
 また始祖が黒タイであることも、仏教徒ではないがラオと同じタイ系だし、しかもラオ文字と同じ系統の文字文化も独自に発展させた文化水準の高い民族ということで、許容範囲内にされたのだろう。
 とりあえずS氏にはこんな説明で勘弁してもらった。

二つの「はじまり」の地

 ひょうたん岩からたらい岩へ、たらい岩からラオスの「はじまり」まで話が進んだところでひょっこり、ひょうたん岩の話に戻ろう。
 なんと、ひょうたん岩はもうない!
 1990年代に、道路を仕切る石を少し取りだすために、ハッパをかけられてしまったのだ。カム・チョン先生は「オロカ者めが!」とばかり、本の中でも憤り呆れている。その本も2007年刊行で、それからすでに十二支も一周しているのだから、ナノイ村のたらい岩だって今もあるかどうか、ヤバそうだ。
 村の古老たちが神話との「つながり」をまだ保っていた1950年代を偲び、たたずむ先生のかたわらでナノイ村を眺めたあの日、先をいそぐ必要もあり、またゾム川にかかる橋もなかったから村に行くのを断念した。橋ができた今、容易にいける。しかし、生きた伝承が失われた村のありさまにS氏とともに失望するのはかなしく、村に足を運ぶのをやめた。
 覚えておられるだろうか。黒タイの故地はギアロだと、わたしはすでに語った。だが、ここで紹介したように、このナノイ村やタウプン村があるゾム川源流域に、世界と人と米の「はじまり」を語る神話は多い。ここは、いわば神話の里なのだ。
 カム・チョン先生がかつてわたしに語ったことだが、この地域はギアロとはまた別系統の黒タイの「はじまり」の地なのかもしれない。とくにラオス側の黒タイなどは、ディエンビエンをギアロより重要視しているのだ。

最後の殿様の息子

フランス植民地時代までここにムオン・ムアッの中心地があり、
黒タイの首領や役職者たちの館が建ち並んでいた
(2011年、ソンラー省マイソン県)

 ナノイ村からゾム川沿いに国道をディエンビエンフーへと向かう車中で、S氏が尋ねた。
「ベトナムは中国みたいに、人類学の調査は許可をとるのがたいへんって話じゃないですか。よくこんな国境近くの少数民族の村に入り込めましたね」
「たまたまですよ。90年代半ばはベトナムの市場開放政策がうまくいって市場に物があふれ、国民が突然の豊かさに躁状態。政治も社会もタガがゆるみ、イケイケの開放ムードでした。ひとつは、うまくそんな時期にあたったんです。2000年をすぎるとみんな我に返りはじめ、反動で締めつけが強まりましたけど…。それともうひとつは、カム・チョン先生のおかげです」
「カム・チョン先生に力があったってことですか」
「いや、ないですよ、先生に力なんて。ベトナムでは国も、省も、県も、トップは共産党の書記です。当時、これまたたまたまですが、県の共産党書記が先生の亡くなった妹の旦那さんでした。黒タイの親族関係では、妻方の父系親族の発言権が強くて、夫は妻の兄に逆らえない。義弟に対してだけは、先生も力があったのでした」
 こんな話から、カム・チョン先生の話をした。実際にS氏に話したのは一部だが、旅のあいだ折に触れて先生の名前をひきあいに出したので、このへんで先生のことをまとめて書いておこう。
 今思えば、先生とのおつきあいはたった10年だったが、思い出はたくさんあって、いざ話すとなると、なにから話すか困ってしまう。とりあえず先生の生い立ちからはじめよう。
 先生は20世紀初頭に西北部で権勢を誇っていた土侯国の一つ、ムオン・ムアッ(現ソンラー省マイソン県)の首領カム・オアイの孫だ。世が世なら先生は「殿ーっ!」と家来たちにかしずかれていたかもしれない。だが、そんなやんごとない生まれゆえの苦労も多かった。
 カム・オアイは1933年に退位し、長男カム・ズンがあとをついだ。すると、ムオン・ムアッの弱体化を図るためにフランス植民地当局は、フランス人現地官僚サン・プルーフ暗殺未遂、という濡れ衣を着せてカム・ズンを捕らえ、「この世の地獄」ホアロー収容所(「#4」参照)にブチ込んだ。ハノイで訪ねてギロチンを見た、あの収容所だ。
 まもなくカム・オアイも逝去した。そんな騒動のさなかの1934年、カム・ズンの二歳年下の弟カム・ビンの長男として先生は生まれた。
 その後、インドシナを手中に収めていた日本が1945年8月に無条件降伏すると、ホー・チ・ミンがハノイで独立宣言をした。そのおかげで12年もの獄中生活からカム・ズンはやっと解放され、故郷に戻ってきた。もちろん彼はハノイの「学校」で仲良くなったお友達に感化され、正真正銘の反仏の赤い革命戦士となっていた。翌1946年にインドシナ戦争が始まると、ベトナム独立同盟(通称ベトミン)に与し、黒タイの人々を率いてフランスとたたかった。
 カム・チョン先生の幼少年期はそんな時代だった。1941年に遡ると、大人の足でも徒歩で2日かかる80キロ西のトゥアンチャウに7歳から寄宿し、フランスがつくった小学校に通った。だが日本の進軍もあって現地情勢が悪化したから3年生になったらほぼ休み。先生はマイソンに戻った。
 学校に行けないかわり、実家で実父から黒タイ文書の素読と教養をたたきこまれた。伯父カム・ズンが釈放されて戻ってきたのはそんなころだ。すでに50歳だった伯父のあととりとして、先生はその養子になった。
 だが、こうして家族らと過ごせたのもほんの束の間だった。まもなくインドシナ戦争開始。安全のため11歳で親元を離れ、はるか紅河デルタのフートー省でベトミンに匿われた。その後ホー・チ・ミンがつくった「芸術児童団」に抜擢されて、ベトナムの学校教育を受けながら歌舞劇を習い、各地でゲリラ活動を展開するベトミン軍を慰安訪問した。
 先生の少年時代の記録として残る数少ない写真が、ハノイにある集合住宅の最上階5階の小さなご自宅の壁にかかっていた。国が乱れ、家族とはなればなれの寂しさを慰めあう子ら16人が、英雄ホー・チ・ミンを囲んでいる白黒の記念写真だ。
 みんな笑っている。先生も口を開けてわらっている。昨日泣いた子の大きな笑顔。わたしも知っている先生の笑顔だった。

現地たたき上げの民族学者

 1951年、今度は芸術児童団から小学校教員の養成学校へと抜擢され、進学した。学校は中国の南寧にあった。戦況が激しかったから学校ごと疎開していたのだ。
 西北部の戦火はまだやんでいなかったが、1953年、フランス支配から解放されたばかりのギアロに教員として送り込まれた。

シア川の取水堰は今はコンクリートに固められている。
カム・チョン先生が水泳の課外授業をしたのはこのあたりだ
(2005年、ギアロ)

 ギアロのシア川にある大きな取水堰を先生と訪ねたとき、先生はこんな思い出を語った。
 黒タイ、ムオン、モンなど少数民族ばかりの生徒たちを連れてきたある日のことだ。高地に住むモンの生徒は泳ぎを知らない。先生は泳ぎを覚えさせるため深い淵にモンの子を放り込んだ。そのことで後日、学校から強く叱責されたのだそうだ。先生なりの指導法だったというが、今の日本なら紛れもなく教師による暴力、虐待だ。
 さて、ビエンさんの話はすでに書いた。だが、先生とビエンさんのはじめての出会いはギアロではない。先生がギアロにいた期間は短く、また、そのころビエンさんはソンラーにいたのだ。
 インドシナ戦争が終結して独立した翌1955年、ソンラーを中心に設置された民族自治区の文化局幹部となった。自治区内では民族語教育もはじまり、先生がソンラーで黒タイ文字を教えたはじめたころ、その生徒にビエンさんがいたのだ。生徒とはいってもビエンさんの方が年上だ。当時はそんなことも多かった。
 西北部に民族自治区は、ベトナム戦争が終わり、内戦も終わって南北ベトナムが統一した1975年まであった。先生によると、その20年間がご自身の「黄金期」だった。
 ハノイに遊学させてもらった3年間にマルクス=レーニン主義を頭にたたきこみ、残りは西北部にずっといた。その間、先生は黒タイのあらゆる古文書を理解するために、米軍の空爆の合間を縫って道という道を歩き尽くし、山河をわたって各地の古老に教えを請うて研究に励んだ。先生は一度も銃を手にしなかった。
 たくさんの民族を抱えているベトナムが、戦争を勝ち抜くためには少数民族を味方につけることが必須条件だ。だから民族政策は国家の最重要の政策の一つだった。そのため「黄金期」には、たくさんの民族学者が中央から調査にやってきた。
 当時、少数民族の多くはベトナム語が話せない。だが黒タイ語ならどの民族の村にも解する人がたいだいいた。だからときに先生が民族調査を代行し、エラい学者先生たちのゴーストライターにもなった。いっぽうで自身でも民族学の本を書いた。それが評価され、1976年ハノイの民族学院として着任した。
 先生のご長男が、わたしにこんなことを打ち明けて笑った。
「子どもの頃、オヤジがなにをしているのかわからなかった。ほとんど家を留守にしていたしね。それが40歳くらいから、いきなり猛然と本を書きはじめた。それでやっと、オヤジはこんなことしてたんだってわかったよ」。
 由緒ある家柄の子弟とはいえ、キン族がバカにする少数民族の出身だ。しかも、小学校を卒業したのかどうか、また最終学歴は中央山地師範学校という、一時期だけハノイにあった教員養成学校卒という中卒レベルだ。
 そんな「怪しげ」な学歴の人が、勉強家でめちゃくちゃ記憶力がよく、西北部のことはモーレツに詳しい。とくに黒タイの文化や文学についてはまさに生き字引。しかも筆は速いし、文章は明快で、そして書きまくるのだった。中央の「いい」大学を出て、ソ連に留学などして修士や博士になったようなエリートの同僚たちは、さぞかし驚いたことだろう。
 その後、民族学院から分かれてベトナム民族学博物館が新設されると、先生は博物館に移った。

ベトナム民族学博物館本館。ハノイでベトナム人にも外国人にも人気がある
(2006年)

 わたしが先生と出会ったのは、博物館が公式にオープンする直前の時期だった。1997年に田邊繁治先生とカム・チョン先生の案内で西北部をうろついたのが最初の縁で、そのままわたしは先生の子分になった。現地たたき上げのアウトサイダーなんてかっこいい!
 わたしはろくにことばもできないはじめから「黒タイの村に住み込みたい」と言い続けた。いっぽうで先生も、ベトナムの民族学に関してこんな不満を口にしていた。
 タイ族の民族学を指導してほしい、といってくる学生や研究者は何人もいた。しかし、現地調査といってもベトナム語が堪能なタイ族の人にベトナム語でちょこっと話をきく程度で、自らタイ語を話し、村に住んで生活や文化の実態を内側から探り、文字を学んで古文書まで読もうなんてベトナム人は一人もいなかったと。
 そんなわけで、わたしは先生にずいぶんよくしてもらった。子分としてはちょっと生意気だったが…。
 S氏のご指摘のとおり、ベトナムで現地調査の許可を取るのは障害が多かったから、ハノイで待機している時間がいつも長い。だから、ハノイでは毎日のようにお宅を訪ね、先生から黒タイの文書の素読を習った。朝から晩まで三食昼寝付きで先生のお宅に入り浸りの日もあった。先生がたおれて病院に運ばれた前の日も、そのまた前の日も、わたしは先生といっしょにいた。
 先生は入院して2ヶ月あまり後、そのまま病院で亡くなった。訃報は日本で受け取った。
 没後に聞いたのだが、ご家族が病院での先生の介護と看護のために雇っていた地方出身のご夫婦がいた。2人は、病床に伏していた先生から「今、マサオが下にもう来ているはずだ。迎えに行ってやれ」と何度も頼まれたそうだ。それを思い出すたびに心が痛む。
 最後にひとつ、おまけの話。
 よく夢に出てくる人っているものだが、先生はどういうわけか、昔よくわたしの夢にあらわれた。亡くなったあともよくあらわれた。
 何日も続けてあらわれたあるとき、「なんだってそんなにしょっちゅうぼくの夢に出てくるんですか?」と、夢の中できこうと誓った。不思議なことにそれ以来一度もあらわれない。そのまま10年は経つ。スネたのかもしれない。
 次に先生に夢の中で会ったら、今度は「先生、ずいぶん見なかったじゃないですか。どうしてたんですか」ときくことに決めている。

黒タイの村をバックにたたずむカム・チョン先生。
田んぼを見つめる先生の心にどんな思いが去来していたのか
(1997年、ディエンビエン省)

参考文献
綾部恒雄、石井米雄編  1996 『もっと知りたいラオス』東京:弘文堂
グエン・ティ・ホン・マイ 2018「カム・チョン−『西北ベトナムのターイ』の功績による2002年国家表彰受賞者」(樫永真佐夫訳)ベトナム社会文化研究会編『ベトナムの社会と文化』8:266-280
Cầm Trọng 2007 Huyền thoại Mường Then, Hà Nội: Nxb Văn hoá Dân tộc

樫永真佐夫(かしなが・まさお)/文化人類学者
兵庫県出身。1995年よりベトナムで現地調査を始め、黒タイという少数民族の村落生活に密着した視点から、『黒タイ歌謡<ソン・チュー・ソン・サオ>−村のくらしと恋』(雄山閣)、『黒タイ年代記<タイ・プー・サック>』(雄山閣)、『ベトナム黒タイの祖先祭祀−家霊簿と系譜認識をめぐる民族誌』(風響社)、『東南アジア年代記の世界−黒タイの「クアム・トー・ムオン」』(風響社)などの著した。また近年、自らのボクサーとしての経験を下敷きに、拳で殴る暴力をめぐる人類史的視点から殴り合うことについて論じた『殴り合いの文化史』(左右社、2019年)も話題になった。

▼著書『殴り合いの文化史』も是非。リングにあがった人類学者が描き出す暴力が孕むすべてのもの。


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