
川野芽生エッセイ連載「かわいいピンクの竜になる」 #2「お姫様は番わない」
小説、短歌、随想など、幅広い分野で活躍している作家の川野芽生さん。素敵なお洋服を愛し、「装うこと」について考えている川野さんによる、ファッションについての連載。
第2回は、美しいドレスを、そこに付与されたさまざまな意味から取り戻すお話。お楽しみください!
#2 お姫様は番わない
『美女と野獣』のオーディション
保育園のお遊戯会で、『美女と野獣』の劇をやることになった。
私はどうしてもベル役がやりたかった。ベル役に立候補した子は多かった。オーディションが開催されることになった。
ベルの台詞を一番大きな声で言えた子が選ばれるルールだ。台詞は「ガストンやめて!」。広い部屋の端から、もう一方の端に立つ先生たちに届くように声を張り上げる。
その頃の私は、他の子供たちより頭ひとつ分くらい小さくて痩せていて、班の集合写真を見返すと、自分で自分の存在を見落としそうになるほどだ。みんなの遊びの輪にも入らず、いつも一人で本を読むか本を作るかしていて、蚊の鳴くような声で話した。けれどその日、誰よりも大きな声を放って先生たちを驚愕させ、見事ベル役を勝ち取ったのは私だった。
ベル役をやりたかったのは、あの黄色いドレスを着たかったからだ。私は絶対にお姫様になりたかった。お姫様の、綺麗なドレスを着たかった。
当時知っていたディズニー映画――『白雪姫』や『シンデレラ』や『眠れる森の美女』――の中で、『美女と野獣』が一番好きだった。好きだったからベル役をやりたかったのか、ベル役をやることになったから『美女と野獣』特に好きになったのか、もう思い出せない。
でも久し振りに見返すと、自分の好きだったところが分かる。
一番は、ベルのキャラクター造形だ。無類の本好きで、周囲からは変わり者と見做されて浮いている。ベルが本を読みながら脇目も振らず歩いていると、周囲では「風変わりな子だよ、ベルは」という合唱が巻き起こるのである。私自身、本が大好きで、本以外のものに興味がなく、周りからは完全に浮いていて、友達は一人もいなかった。こんなに共感できるディズニープリンセスは他にいなかった。
しかもベルは、言い寄ってくるガストンを毅然と拒絶する。それがかっこいい。本にしか興味がないから、男など眼中にないのだ。オーディションで使われた台詞「ガストンやめて!」、これは作中最も実用性の高い台詞なのではないか? 幼児にこの台詞を大声で叫ばせたのは、不審者に遭った時のためだったのでは、とすら思えてくる。
野獣とのロマンス要素も当時は好きだったと思う。ロマンス自体には興味はなかったけれど、顔がいいだけの中身が空っぽな初対面の王子様が助けてくれて結ばれるのではなく、容姿に関係なく時間をかけて心を通わせあい、対等な関係を築き、どちらかといえば女性の方が相手を救ってハッピーエンドになるのはよかった。とにかく「美男美女が一目で恋に落ちる」話に辟易していたのだ。
でもそれよりも、人間じゃなくて、獣の方が好き、ということだったのかも。魔法のかかった古城で、野獣と一緒に暮らすのは素敵。最後に野獣が王子様になっちゃうのは全然素敵じゃない。
あと、プレゼントが大きな図書室というのが素晴らしい。こんなに嬉しいプレゼントが他にあるだろうか。私はずっと、梯子の取り付けられた背の高い書架に憧れ続けている。
今なら、野獣とのロマンス要素はいらないなと思う。最初の野獣の態度はあまりに横暴で、ここから対等な関係を築けるとは思えない。ここから愛し合うに至るのはストックホルム症候群としか思えなくて心配になる。相手の美醜を気にせず愛する役を担うのは女性の方だけで、女性は「美女」であることを求められるのも理不尽だ。
でもベルの黄色いドレスはかわいい。
私の一生に一度の大声は本当にその時だけで、劇の稽古ではオーディションの時が嘘のように小さな声しか出なかった。仕方なくベルの役は前半と後半で二人に分けられることになった。私が演じたのは前半だったので、結局ベルの黄色いドレスを着ることはできなかった。
私はずっとお姫様に憧れていたのだけど、王子様と結ばれたかったわけではない。王子様なんか眼中になかった。邪魔だという気持ちも湧かないくらい、存在を意識していなかったと思う。
王子と怪物のマッチポンプ
大学に入って、新しくできた男性の友人に、付き合ってほしいと言われた。なぜ友達ではいけないのかと聞くと、守ってあげたいからだと言われた。守るって、何から? 中世の騎士の時代じゃあるまいし。女性より男性の方が強いのは腕力だけだし、この文明社会において腕力で解決するようなことがそんなにあるだろうか。すると、他の男からだと言われた。付き合っている男性がいれば、他の男が言い寄ってこなくなるから、と言うのだった。私は恋愛に興味がない、誰とも付き合いたくない、誰からも言い寄られたくなんかないと私は言った。でもこのまま、恋人を作らずにいる限り、言い寄られ続けるよ、と彼は言った。それが嫌なら、今僕と付き合った方がいい。それってヤクザの理論じゃない? と私は思った。マッチポンプと言ってもいい。
彼は繰り返し私に言い寄ってきたし、セクシュアルハラスメントもしてきた。守ってくれなんて頼んでない、あなたが私を守ろうとしているその相手は、あなた自身だ。あなたが加害をして来なければ私はそれで平穏で、誰にも守られる必要なんてない。
お姫様を守る王子様と、お姫様を脅かす怪物は、同一だったのだと知った。怪物がいなければ王子様業も成り立たない。たくさんの怪物=王子様がお姫様を脅かして、お姫様はそのうちの最もましな一人を選んで自分の王子様にして、他の怪物から守ってもらう代わりに王子様の支配下に入るしかない。お姫様は結局監禁される。そこに怪物の塒という名前をつけるか、王子様のお城という名前をつけるかが違うだけ。そしてそれは、青髭の城だったりする。夫に殺された女性たちの死体が隠されたお城。
もともと王子様なんて興味がなかったけれど、「お姫様」をめぐるその構造に気付いた時、深いショックを受けたのだった。
怪物と王子様の共謀関係に巻き込まれて、そのようにしか成立しない「お姫様」が、汚されてしまった気がした。
私は、王子様も怪物もなしに、一人でお姫様になりたいのだ。
ウェディングドレスのない人生を生きる
保育園の頃、将来の夢を聞かれて「花嫁さん」と答えたことがある。と言っても、将来の夢は、作家、大学の先生、博物学者、本屋さん、お花屋さん――など色々あったから、「花嫁さん」は一度そう答えただけだったように思う。
幼い頃の私は、「花嫁さん」を、「綺麗なドレスを着る人」だと思っていたのだ。
一つ違いの姉に、花嫁さんっていうのはドレス着るだけの人じゃないんだよ、と言われて、えーじゃあいいや、と思った。
私は結婚をするつもりがない。恋愛にも、性的関係にも、興味がないどころか嫌悪を覚えるからだ。
子供の頃は、自分も大人になったら親と同じように結婚して家庭を持つのだと思っていた(正確に言うと、両親は「結婚」という形態を取っていないらしい、と知ったのはもっと後になってのこと)。しかし高校生くらいになって、どうやら結婚というのが自分の嫌悪する恋愛や性的関係の延長線上にあるらしい、と気付いたとき、じゃあいいや、結婚はしないで、と思った。
厳密に言えば、結婚が必ずしも恋愛や性的関係の延長線上にあるとは限らない。恋愛抜きの結婚というのは、そこそこ市民権を得てもいる。しかし性的関係抜きの結婚というのは今のところあまり理解が得られていないから、その関係に同意する人と出会うのは困難だろうし、条件ありきで相手を探す気にはならない。そのあたりのハードルを乗り越えたとしても、異性の一対一の組み合わせのみが法的に優遇される制度、様々な差別や搾取の温床である家父長制の枠組みに乗っかりたいかと言うと、全然。むしろ破壊したい。たまたま異性の友人と、人生のどこかで合流して、お金に困っていて、形式的に婚姻届を出すと税金が安くなる、となったときにその選択肢を絶対に取らないとも言えないけれど、それを「結婚する」と呼ぶかというと、まあ結婚の定義によるかなと思う。
そもそも、結婚が人生を共にする伴侶を得ることならば。私が人生を共にしたいのは、迷う余地なく、今までもずっと一緒に生きてきた姉なので、私の人生に結婚が入る余地はないのである。
そういったわけで結婚には何の興味もないが、結婚にまつわるものの中に未練のある部分もないわけではなくて、そのひとつが「ウェディングドレス」である。
ウェディングドレスは美しい。こんなに美しいものが結婚式のためだけに作られているなんて口惜しいことだ。自分の人生の関係者全員呼んでパーティして、綺麗なドレス姿をお披露目して祝ってもらえるなんて、結婚する人は羨ましい。
私は成人式にも大学の卒業式にも出なかった。成人式の振り袖や卒業式の袴にお金を出す家ではなかったし、普段着で行く気にはなれなかったから。男性は成人式にも卒業式にもスーツで出る人が多いけれど、女性は盛装で出るのが慣わしのようになっていて、おめかしをせずには行きづらい(その空気は、おめかしをしたい男性にも、おめかしをしたくない女性にも息苦しいものだと思う)。振り袖を着てみたいと親には言わず、成人式の半年も前からFacebookに流れてくる前撮り写真から目を逸らし続けていた私に、親は当日「今日成人式行くの?」と声をかけてきて、その世間ずれしていなさは微笑ましいくらいだった。
それなのに、成人式の前後は周囲から「振り袖の写真見せてよ」とよく言われる。振り袖着てないです、と言うと、「えー絶対似合うのにもったいない!」と残念がられた。絶対似合うのなんて私が一番わかってるんですよ、と苦い気持ちになった。
式服とか礼服とかいったものも子供の頃から好きだった。特別な日の、かちっとしたおしゃれはかっこいい。保育園の卒園式および小学校の入学式の時すでに、この式典に参列している子供たちの中で、自分だけが式服を着ていないことに気づいていた。私だけが普段着で参加していた。着る機会が他にないそんな服を買ってもらえることはないとわかっていたから、ねだることもなかった。同じくそういう服に憧れがあった姉と二人でこっそり、「式服とか礼服みたいなの、いいな……」と言い合うくらいだった。
伝統行事と呼ばれる因習的なものを全部無視する家なので、七五三もやらなかったし、装いとは関係ないけど雛人形もない。両親のそういうところは好ましいのだけれど、綺麗な衣服を身に着ける特別な機会というのがまったくなかった。
こうしてあらゆる式典をスルーしてきて、結婚式もむろん無縁である。
京王百貨店新宿店の催事場で、年に一回くらいだろうか、「貸衣裳処分市」という催しが行われる。レンタル用としては古くなった、でもまだまだ着られるウェディングドレスやカラードレス、タキシードなどを格安で買えるセールである。ウェディングドレスが、安いものなら三千円くらいから、高くても三万円くらいで売られている。
友人たちと何度か行ったことがある。ウェディングドレスが着たかったのである。ある時は、試着したいと言ったら店員さんに「式のご予定は?」と聞かれ、まごまごしていると「あ、冷やかしか」という雰囲気になった。実際、周りには具体的に式の相談をしながらドレスを選んでいる人もいて、店員さんがドレスの着付けを手伝っている。結婚を考えている人じゃないと着ちゃいけない感じなのかなと、思った。
冷やかしのつもりはなかった。本当に気に入ったものが予算内で見つかったら買いたかった。でも狭い部屋の中でも街中でも着られないようなボリュームのあるウェディングドレスを、パーティの予定もなく買うのはあまり現実的ではなかったから、冷やかしも同じことだったのかもしれないし、店員さんから見たら迷惑だったのかもしれない。それでも一度、スパンコールのいっぱいついた真紅のドレスを買う直前まで行った。着たらあまりにもしっくり来たので、「もうこれが普段着でいいんじゃないか?」という気持ちになったのである。その日は手持ちがなかったので後日再訪したらもう売れていた。
店員さんに放っておいてもらって、女の子三人でウェディングドレスを着て、背中のボタンを留めたり紐を結んだりするのを互いに手伝い、似合う、素敵、とはしゃぐのは、婚姻制度に中指を突き立てる行為のようで最高に楽しかった。ハイネックとレースの長袖が貴族的な白いドレス、花の刺繍が可憐なAラインドレス、段フリルが豪華なボルドーのドレス、濃いグレーに花模様のシックなドレス、どれも私たちによく似合っていた。
私の人生に現れたパーティ:アイスブルーのドレス
そんな私に、ドレスを着てパーティに出る機会が訪れた。二〇一八年、「歌壇賞」という短歌の新人賞を受賞したのだった。その授賞式が行われるのである。
私はその賞金で、授賞式用にとびきり華やかなドレスを買うことに決めた。最高に美しくて、最高に自分に似合うおめかしをするのだ。自分の力で勝ち取ったお金で買った、自分に最高に似合うドレスを、自分のために用意された場で着る。
友人たちに付き合ってもらって、色んなお店で色んなドレスを試着した。最終的に、音楽活動をしていた友人に教えてもらった、演奏会用のドレスが安く買えるお店で、引きずるような丈のアイスブルーのドレスを買った。氷のようにつめたく冴えた青の中に、星のようなきらめきが見える。それを着た私は、氷の女王か雪の妖精のようだった。
今まで参加した授賞式で、こんな派手な装いをしている人を見たことはなかった。皆が見ている中で、こんな目立つ格好をする勇気が私にあるだろうか? と何度か自分に問い直したけれど、妥協したら絶対に後悔するとわかっていた。
髪には花を飾りたい。美容院の情報サイトで、ヘアアレンジの作例を大量に眺め、生花を使ったものをブックマークしていく。一番気に入ったところでヘアアレンジを頼んだ。ドレスの色に合わせて、青や水色を基調とした花を、髪にふんだんに飾る。メイクも寒色を基調にしてもらった。
当日は、主役なのだから当然とはいえ、注目を一身に浴びて緊張した。
いいことばかりではない。年配の女性に「綺麗ね~、娘を嫁にやるみたいな気持ちだわ」と言われたし、初対面の男性に「がんばれよ」と言いながらオフショルダーのドレスから出た肩を叩かれたときは、咄嗟に目を見開いて相手の名札を凝視することしかできなかった。
授賞式には姉と両親も招待した。両親もたいへん楽しんでいたようだけれど、姉がすごく喜んでいたのが特に嬉しかった。姉は、当日までは「受賞はめでたいけど、人が多いところに出ていくのはなあ……」という感じだったのだけど、ドレスを着た私を見て、慎重に言葉を選びながら、「『娘の晴れ姿を見る』というのが親冥利に尽きる幸せみたいに言われてて、そういうもんかなあ~と思ってたけど、今日この場に来るまで、妹の晴れ姿を見るのがこんなに嬉しいとは思わなかった、それはもちろん、望まなければ全然やらなくていいことなんだけど、君が自分の力で勝ち取った場で、自分の意思で選んだ、自分で着たかった、自分にとてもよく似合うドレスを着てとても美しいのが見られて、本当に嬉しいし、誇りに思う」ということを言ってくれた。そして私の友人たちに妹がどれだけ可愛いかを力説したり、私のドレス選びに付き合ってくれた友人に「素晴らしいドレスを選んでくれてありがとう」とお礼を言ったりしていて、私はそんな姉が可愛いなあと思った。
まあ、結婚しない人生を肯定するのにいちいち受賞する必要があったら難儀で仕方ないのだけど。
私の人生に現れたパーティ:ローズピンクのドレス
数年して、再び授賞式の機会がやって来た。歌壇賞を受賞した連作と同じ題名で、二〇二〇年にはじめての歌集を上梓して、翌年その歌集が「現代歌人協会賞」という賞を受賞したのである。
今回もドレスを着たい。前回のドレスは冴えたアイスブルーだった。装幀家さんに全面的にお任せした歌集の表紙も、その時のドレスを見てきたかのような凛とした淡青だった。今回はせっかくだから印象をがらりと変えたい、と思った。赤とか黒とか、強い感じがいいだろうか。ピンクもいい。ピンクは一番好きな色だけれど、ピンクを着ると「女性」という役割に従順に乗っかる人間だと思われがちだ。そういうイメージを避けたいから、本の装幀などにも使いづらい印象がある。でも歌集を出して、自分の作品をまとまった形で読んでもらえるようになったから、もうあまり誤解を恐れなくてもいいかもしれない、と思う。ふんわりと優しいピンクよりは、アクセントのある強いピンクがいいだろう。
今度こそウェディングドレスを着てみようか、と私は思う。歌壇賞の時も、ヴィンテージのウェディングドレスを候補に入れていた。微妙にサイズが合わなくてやめたけれど、結婚式ではない場面で、ただただ美しい衣服としてウェディングドレスを纏うのは、美しい衣服に被せられた意味づけを解体するという点でも、意義のあることに思える。
けれどドレスレンタルのお店のサイトを巡ってみるも、当然ながら結婚式で着ることを前提として貸出方法や日程が設定されているし、結婚するつもりのない人がお店に行ったら向こうも多分困惑するだろう。「幸せなお二人のために」といった文言を見ているだけでうんざりしてしまう。「自分が主役になる、最初で最後の機会」なんて書いてあった日には、「自分の人生の主役はいつだって自分だ!」と心の中で叫んでウィンドウを閉じてしまう。
京王百貨店新宿店の貸衣裳処分市が今年も開催されるという情報を目にしたのはそんな折だった。これだ。ついに貸衣裳処分市で大手を振ってドレスを買う機会が舞い込んできたのである。
友人に付き合ってもらって、京王百貨店へ。布であふれんばかりになった広い会場の中で目に飛び込んできたのは、濃淡とりまぜたピンクのランダムなフリルが幾重にも重なって足元まで雪崩れ落ちる、薔薇の花弁そのもののようなドレスだった。ピンクはまさしく薔薇色の濃淡のヴァリアントといったところで、夢のような色合いでありながら、濃い部分はかなりくっきりした色なので、全体の印象が「強い」ところも気に入った。主張の強い、我の強いピンク。大人しいとか従順とか思われない、輪郭のくっきりしたピンク。誰かに気に入られるためではなく、ただただピンクが好きで選んだんだなと一目でわかるような色だ。同時に、そのヴァリアントの中には儚げなピンク、可憐なピンク、キュートなピンクもいて、それを強いピンクが守っているのだった。
結婚披露宴用のカラードレスなので、ボリュームも丈もしっかりあって、お値段は九千円。これでも貸衣裳処分市では高い方である。
美しいドレスを着て、受賞スピーチでは「美しさ」についての話をした。
歌集を編み始めてから、あるいはそれより前、歌壇賞をいただいた頃から、自分の歌は美しすぎるのではないかと思い始めました。
真善美という言葉があります。私は真と善を求めているつもりでしたが、自分の価値観の根本には美意識があるのだと気付きました。
でも、美とは何でしょう。私は、美を最上の価値として無邪気に掲げることはできません。
歴史上、数々の芸術が女性を美のアイコンとして用いてきました。そうした芸術は、女性を人格あるものとして認めませんでした。そのことは、女性への抑圧であり搾取でした。
何かを、美しいと思うことは、つねに対象への搾取なのだと思います。
それを、若い女性として私はずっと感じてきました。
対象が人間でなければ搾取にならないわけではありません。動物に対しても、植物に対しても、風景に対しても、その美しさを愛でることは誰からも許されていないと思うのです。人間はその美しさを愛でることで対象に権力を振るい、支配してきたからです。
女性が人間ではないものとされ、暴力を振るわれてきたのと同じように、人間は人間以外のものに暴力を振るってきました。
言葉の美しさを愛することだけが、その罪から自由であるとは言えないだろう、と次第に私は思うようになりました。
また、私の歌が多くの人から見て疑問の余地なしに美しいとしたら、それは私の歌が既存の美の価値観に則っているということです。そして、既存の美の価値観とは、他の多くの既存の価値観と同様、差別的なものです。それは美しいものと美しくないものとを区別し、美しいとされたものを搾取し、美しくないとされたものを貶め、両者の間を分断しているからです。
歌を続け、次第に上達し、自分の望むような美しい歌を作れるようになってきて、私はそれがほんとうに美しくていいのか、と思うようになりました。
そんな迷いの中で、だからこそ、今まで作った歌をひとつにまとめ、歌集という形にしたいと思いました。
これから自分がどこに進むのか、どこに進んだらいいのか、わからなくなったからこそ、次に進むために今までのものを完成させたかったのです。
それでも、私の拠り所はこれからも美なのかもしれません。
美しさを愛すること、美しいものを作ること、それをやめなくてはならないと言うつもりはありません。ただ、美を求めることの罪深さを、葛藤を、見つめ続けなくては次に行けないと思うだけです。
これから自分がどこへ向かうのかわかりませんが、これからも見守っていただければ幸いです。
この話をするためにも、私は自分にとっての思いっ切り美しい格好をして出ていかなくてはならなかったのだ。美しさを愛してしまうことと、美しい存在と見なされることの苦しさに、今しばらくは引き裂かれたままであるために。
*
それまでの私は、お姫様になりたい自分、男の子になりたいとは思わない自分に少しだけ引け目を覚えることがあった。それはどこか軽薄で愚かなことのように思えたのだ。
けれど、私は生まれつきのお姫様ではない。血統や家柄の力でお姫様になったのではない。自分で自分をお姫様にするのだ。お姫様になりたいなどという、人に言ったら馬鹿にされそうな願いをちゃんと守り続けて、自分の意思で選んだお洋服を、自分で稼いだお金で買って、着るのに勇気が要るこのお洋服を身に纏って、堂々と頭を上げて歩いていくのだ。それは、とても気高いことだと思えた。
私はもう自分を恥じないし、隠さない。誇って生きていける。
川野芽生
小説家・歌人・文学研究者。第29回歌壇賞受賞。第一歌集『Lilith』(書肆侃侃房、2020年)にて第65回現代歌人協会賞受賞。小説集に『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社、2022年)、『月面文字翻刻一例』(書肆侃侃房、2022年)がある。2022年、ロリィタをテーマにした短歌のZINE『Otona Alice Book vol. 1地上のアリス』を刊行。Twitter@megumikawano_ HP
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