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【特別公開中】4. 100枚の絵のはてに  ――高橋大輔

・太田市美術館・図書館「2020年のさざえ堂ー現代の螺旋と100枚の絵」公式図録(左右社より3月末刊行)から、担当学芸員の小金沢智による展示解説と総論を特別公開しています。
・本記事は、3階展示についての解説です。
・作品写真撮影:吉江淳

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本展の工ンディングは、高橋大輔のソロである。展示室3だけではなく、同じく3階にある図書館エリア・レファレンスルームも会場の一部としているため、合わせてご覧いただきたい。

 さて、高橋は、1階では三瀬夏之介、2階では持田敦子の各作品との共同で空問を作り出し、前者では具体的なモティーフあるいは事物のタイトルが付いた作品を展示し、後者では一貫して「無題」(+α) とタイトルに付いた作品を展示した。そして、最後の都屋となる3階では、それらを混交するように展示している。各階異なる意図に基づくこの展示構成は、曹源寺さざえ堂が、1階は秩父(34カ所)、2階は坂東(33カ所)、3階は西国 (33カ所)と異なるエリアの寺院の観音像を安置することにならうものであり、企画者から高橋への提案による(なお、各階の陳列順・位置についてはこの限りではない)。高橋の作品を1階、2階、3階と計100点段階的に展示するにあたり、このような意図のもと構成することで、絵画を見る体験を少しずつ更新することができるのではないかというのが企画者の狙いである。

 すなわち、鑑賞時の認識に際して、描かれているものが理解可能な具体的事物である(かもしれない) という段階から、描かれているものが具体的な事物としては理解が難しいものであるという段階へ進む。そしてそれらを最後のフロアで織り交ぜて展示する。しかし、いずれの場合もそれらの絵は、油絵具を主な素材としている。それが具体的なイメージを生み出す場合もあれば、抽象的なイメージを生み出す場合もある。そこに何を見いだすかは、作者の視点(それは「タイトル」にあらわれている)を通して鑑賞者に提案されるものの、強制されない。同じ作品であっても、作家、鑑賞者によって、受け取るものはさまざまであってよいと、高橋は考える。

 たとえば、《Night Highway》(2018-2019年)とタイトルにつけられていても、それは「夜の高速道路」を描こうという動機から制作されたものではないし、《無題 (J.C.G.M)》(2018-2019年)には、数人の画家の名前がこめられていたりする。

 高橋の作品は、ときとして本人すらそこに何が描かれているのか、判断がつかないまま筆が止められる場合があるという。けれどもそれらはすべて、高橋がかすかでも画面から印象、色、空間を感じ取ったさきに、絵画として「完成」の判断をされたものにほかならない。

 個々の作品鑑賞に加え、総合的に100点という数の作品の鑑賞が、鑑賞者に、絵画を見ることの幅の広さを提供し、絵画にかぎらず、「ものを見る」ことの可能性・豊かさを引き出すことに繋がらないだろうか。

 そもそも曹源寺さざえ堂が意図する「百観音巡礼」とは、江戸時代に庶民に広まったという観音霊場巡りをルーツにもち、全国各地にある寺院のうち代表的な100カ所を巡ることをいう。それを簡略化したのが、江戸時代後期に関東以北に建てられた通称・さざえ堂である。さざえ堂1カ所を訪れれば、百観音巡礼を果たすことができるという仕組みだ。

 この「巡礼」という要素に、「螺旋」についてそれは「たえず更新される人間精神の活力の表現である」と語った仏文学者の澁澤龍彦の言葉を重ね合わせてみるとき、さざえ堂という「巡礼」を意図する「螺旋」構造の寺院が、簡略化されながらも、訪れた人間にとっての「生まれ変わり」の場であるかのようなイメージが出現する。三瀬夏之介の作品はエネルギーの渦巻く絵画作品であると同時に鑑賞者の身体にも訴えかける大きなスケールをもち、蓮沼執太の作品は「見えないもの」「聴こえないもの」までも射程に含んだ映像と音によって視覚・聴覚のあり方に揺さぶりをかけ、持田敦子の作品は既存空間を異化することによって日常的な立ち居振る舞いに干渉する。「現代の螺旋」をテーマにする3名と、「100枚の絵」をテーマとする1名の作品が、総じて鑑賞者の知覚全般を掻き乱すとき、ここ太田市美術館・図書館を、その奇想によって「現代のさざえ堂」と例えてもいいかもしれない。


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