書影BL怪談_カバー帯なし

雪と巳之吉(雪おんな)/王谷晶著『BL古典セレクション③怪談 奇談』より

 その朝も、巳之吉は茂作と共に山に入った。
 齢十八の巳之吉は武蔵国に住む木樵で、晦日と正月以外は毎日休まずひたすら木を伐り運ぶ暮らしをしている。奉公先の主人の茂作は厳しく無口な男だが木樵としては申し分のない腕前で、巳之吉も叔父貴と呼んで慕っていた。しかしこの数年で茂作はめっきり老け込んだ。一方巳之吉はどんどん背が伸び、一昨年の夏にとうとう茂作を追い越した。面差しにはまだ僅かにいとけなさが残っているが、厳しい山の仕事を続けた身体は樫のように頑丈で、肌は冬でも日に焼け血色がいい。鷹のように真っ直ぐな目は澱み無く、貧しい暮らしの中でも生き生きとしていた。奉公に出されたときは鎌も満足に持てずにいた痩せこけた小童は、今や逞しく美しい青年に成った。だが巳之吉自身は己の外見になどまるで関心がなく、水面に映して見ることすらしなかった。
 冬が近付いていた。木樵の仕事はいよいよ忙しくなる。雪が降れば薪を集めるのも木を伐るのも途端に捗が行かなくなる。その前にありったけの薪を集めて売らねばならない。
 日の出前に家を出て、二人は川べりの渡し守の小屋まで歩いた。里と山の間には大きな川があり、毎日そこを小船で往っては帰りする。黒々とした太い川は橋も掛けられぬほど流れが速く深さもあり、里と山を彼方と此方に切り分ける三途の川のようだと言う者もいた。なので巳之吉は毎朝川を渡る時には決して里を振り返らぬようにしていたし、山から戻る時にも決して山を振り返らぬようにしていた。
 道中、お互い言葉は無い。巳之吉は茂作以上に無口な男だった。たまに薪を買いに来る年増の女房たちに品の無いちょっかいを掛けられても、怒るでもなく躱すでもなく黙って俯いてしまう。てんで初心で純情で、ただただ顔を紅くするだけなのだった。
 ひどく寒い日だった。船から降りると、山肌を伝って冷たい風がびゅうと刃のように喉元を掠めていった。
「空がいかん」
 茂作が天を見上げてぼそりと言った。晴れているのにお天道様は紗を被ったように白くぼやけている。確かによくない空だった。こういう時は荒れやすい。
 ほどなくして、茂作の予感が当たった。日の翳らないうちから重たい灰色の雲が広がり、あっという間にみぞれ混じりの雨が降り出し、やがて吹雪になった。
 巳之吉はまだ薪を集めようとする茂作をせっつき、急いで川辺にある小屋まで戻った。しかし薄情なことに渡し守は向こう岸に帰ってしまった後だった。辺りで風をしのげそうなところはここしかない。二人はその狭く粗末な小屋に入り、蓑をしっかりと巻き付け身を寄せ合った。
 すぐ側の川の流れがごうごうと恐ろしげな音を立てている。火鉢のひとつも無い小屋の中は薪を燃やすこともできず灯りも無く、二人ともただ縮こまって骨身まで凍りそうな寒さをやりすごすしかなかった。そうしてじっとしているうちに、いつしかうとうとと眠りはじめていた。

 ふ、と目が覚めた。

 痛い。手足の節がみしみしと痛む。
 巳之吉はぞっとして目を見開いた。人が寒さで死ぬときは、身体の節がひどく痛むという話を聞いたことがあるからだ。
 辺りは真っ暗だった。戸が閉まっているのに何故か風が吹き荒れ、気を失いそうなほど寒い。叔父貴!と必死に茂作を呼んだが、声は風にかき消されてしまう。その時、ばたばたっとひときわ大きな音がして天井が吹き飛んだ。雪明りが小屋の中を照らし出す。
「ひっ」
 巳之吉の目に、あらぬものが映し出された。
 黒い、真っ黒い水のうねりが小屋の中をのたうち、その中に、はっとするほど白い顔が浮かび上がっている。
 一瞬、寒さも忘れてその顔に見入った。
 それは今まで見たことのない、あまりに美しい男の貌だった。小屋の中をのたうつ水のうねりに見えたものは、その男の長い長い黒髪だった。
 墨を刷いたような切れ長の瞳が、ゆっくりと瞬く。男は細い指で茂作の顎を掴み唇を寄せ、きらきらと輝く白い息を吐きながら深く口付けた。茂作はされるがままになっている。
 白い顔が、すっと巳之吉の方を向いた。
 真っ白い着物の袖をはためかせながら男が近付いてきた。瞬きすることもできない。ぎらぎら光る酷薄な眼差しがもうすぐ側にある。
 美しい。
 心の臓が止まりそうなほどに。
 美しすぎて恐ろしい、という気持ちを、巳之吉は生まれて初めて知った。恐ろしくてたまらないのに、目を逸らすことができない。 
 凍った花びらのような青白い唇が巳之吉のそれに重なりそうになったとき、しかしふいに男は身体を離し、そして微笑んだ。
「ふん……やぁめたやめた……気が変わった。まだ若造だし、よく見りゃなかなかいい男だ……見逃してやってもいい。その代わり―今夜のこと、俺に会ったこと、ここで遭ったこと、一言でも誰かに漏らして御覧。すぐさまその場で取り殺してやる。誰にも言うんじゃないよ……自分のおっ母にだって言っちゃあならない。いいな……約束だよ……」
 指先が、ちょん、と唇を突付いたかと思うと、煙のような細かな雪を舞い上げながら、男は背を向け小屋を出ていってしまった。
 待て、という叫びは声にならなかった。軋む身体を必死に動かし男の背を追いかけようとした。しかし吹雪く山裾にすでに男の姿は見えない。
 はっとして、小屋の床に丸太のように転がっている茂作の元に駆け戻り、抱き起こそうと肩に手を掛けた。茂作はぴくりとも動かなかった。眉や髭にはびっしりと白い霜がつき、肌はどす黒く、頬に触れるとそれは石のようにかちかちに凍り付いていた。巳之吉は今度こそ悲鳴をあげ、そのまま気を失ってしまった。
 目が覚めたあと、自分が三日三晩眠り通しだったこと、渡し守が雪に埋もれていた二人を見つけてくれたこと、茂作はやはり死んでしまったことを聞かされた。遺された茂作の女房や子供に合わせる顔がなく、巳之吉は葬式でもただただ黙って俯いていた。
 奉公を解かれ、老いた母が一人暮らす家に戻ることになったが、身体が思うように動かず床に伏せる日が続いた。目を閉じると茂作の死に顔とあの美しい男の顔が瞼の裏にちらついて、ろくに眠ることもできない。母はひどく心配し熱心に看病をしてくれたが、それでも、あの夜のことを口に出すことはしなかった。約束だよ……という、あの吹雪の中でもはっきりと聞こえた冷たい冷たい声が、耳から離れなかったからだ。
 そうして冬を越し、春が来て、夏が近づくと、ようやく悪い夢も見なくなり巳之吉はすっかり元の調子に戻った。そして茂作の後を継ぐように、木樵の仕事を独りで始めた。
 その年の初雪が降った日。離れた村まで薪を売りに行った帰り道で、巳之吉は少し先に旅装束の男が歩いているのに気がついた。
 柳の木のようなすらりとした姿をした、背の高い若い男だった。総髪を背中できっちりと結い、上等ではないがよく手入れのされた着物を着ている。何より、溶けた雪でぬかるむ道を滑るように歩くその優雅な身のこなしが目を奪った。大荷物を背負ってがに股で歩く自分とも、里の女たちともまるで違う。こんなひとは今まで見たことがない。巳之吉はもうひとときも男から目が離せなくなってしまって、思い切って足を早めて近付いた。この初心な朴念仁がそんなことをしようとしたのは、これが初めてだった。
 と、その時男がふっと振り返ってこちらを見た。その顔を見て巳之吉は「あっ」
 と言って思わず立ち止まってしまった。男があまりにも、絵に描いたように美しかったからだ。日焼けどころかしみ一つない真っ白な輝く肌をしていて、唇だけが椿のように赤い。黒檀よりも黒々とした瞳と目が合った瞬間、自分の立っているなんてことない野中の一本道が突然、極楽浄土のようにきらびやかに輝きだした気がした。
「どうしたい、兄さん。具合でも悪いのかい」
 男も立ち止まって、不思議そうに細い首を傾げた。その喋る声までさらさらと澄み切ってきれいなのだ。もうどうすればいいか全く分からず、巳之吉は黙ったまま痙攣するように首を横に振った。だがそんな無様なさまを見ても男は訝るどころか妙に愉しそうに微笑んで、すたすたとすぐ側までやってきたかと思うと巳之吉の目をじいっと覗き込んでこう言った。
「俺は、雪之丞ってんだ」
「雪之丞……」
「大仰な名だろ。よければ雪と呼んでくれ。あんたは?」
「み、巳之吉」
「ふうん。巳之吉さんか」
 男はそこで急にくるりと踵を返し、またすたすたと歩き出してしまった。巳之吉は慌ててあとを追いかける。
「あ、あんたは、この辺の人なのか」
「そっちはどうなんだい。人のこと聞くときは手前の話をまずするもんだぜ」
「お、おれは、この先の村の……村に……住んでる。おっ母と一緒に」
「へえ」
「木樵をしている。この辺の山には全部入った。ど、どんな木でも伐れる。独り立ちしてる」
 自分が何を話しているかもよく分かっていなかったが、とにかく雪之丞―雪と名乗るこの男との話を止めたくなくて、巳之吉は普段動かしていない口を必死に動かした。
「あんたは、何をしてる人なんだ。今まであんたを、この辺で見たことがない」
「俺は見ての通り旅の途中だよ。二親がおっ死んじまってね。継ぐ仕事も無いから、親戚の居る江戸まで行って何か口利きしてもらおうと思ってんだ」「江戸……」
 武蔵国から江戸は遠くはないが、巳之吉は一度も足を踏み入れたことがなかった。なるほどこの美しい男には、こんな泥だらけの田舎より江戸の暮らしのほうがさぞしっくり似合うだろう。しかしそう思った瞬間、突然、胸が焼け火箸を突っ込んだように熱く痛んで巳之吉は再び足を止めてしまった。
「なんだい。またかい。どうしたってんだ」
 雪が振り返る。巳之吉は初めて感じる胸の痛みに大きな背中を丸め、それから絞り出すように言った。
「お、おれの家に寄ってくれ!」
「はあ? あんたの家に? 藪から棒に何の話だ」
「それは、その、長旅で、つ、疲れただろう! だから、休んでいけ! おれの家で!」
「そんなでっかい声で喋んなくても聞こえるよ。おかしなひとだね……」
 雪は呆れ顔で笑うと、ちょっと考え込むような仕草をしたあと、顎を婀娜っぽくしゃくってみせた。
「なら、さっさと案内しとくれよ。正直、歩き通しでうんざりしてたんだ」

 巳之吉の家に着くと、母がちょうど夕餉の支度をしていたところだった。雪は挨拶もそこそこに手伝いを申し出ると、まるで何年もそうしていたかのようにこまごまと働き、あっという間に食事の支度を整えた。
 囲炉裏を囲んで三人で汁物を啜る。ただそれだけなのに、巳之吉は何故かそわそわと気分が落ち着かず、飯の味もまったく感じることができなかった。
 後片付けを終え、母が奥の間で床につくと、巳之吉と雪は二人で囲炉裏ばたでしばらく黙って座っていた。雪はこの寒いのに足を崩して素肌を冷たい床に着け、ぼんやりと熾る火を見つめている。そんな姿もこの上なく美しく、巳之吉の胸はまたわけもなく痛むのだった。
「あの……雪さん」
「雪でいいよ」
「あんたは、その、いるのか。江戸に」
「何がだい」
「誰か、約束したひとが」
 雪はじっと巳之吉の顔を見据えた。
「いないよ。俺は独り者だ。あんたは?」
「おれも、いない。誰も」
「そうかい」
 雪の目はまた囲炉裏に向けられた。けれどその唇は、微かに微笑んでいるのだった。

 翌朝、戸を開けると外は一面真っ白の雪景色になっていた。こんな大雪が降るのはこの時期には珍しいことだった。
「今日は、江戸に発つのか」
 巳之吉は強張った顔で、戸口から外を眺めている雪に言った。雪は肩をすくめると「これじゃどうしようもねえ。すまないけど、もう一日世話になれるかい」と返した。巳之吉はほっとして大きく何度も頷き、それから自分の半纏を引っ張り出してきて遠慮する雪に無理くり着せた。
 次の日も道は真っ白に埋もれたままだった。巳之吉はまた「今日は、江戸に発つのか」と問い、雪が首を横に振ると黙って大きく頷いた。次の日も、次の日も、同じやり取りを繰り返した。四、五日して天気が続き街道が歩ける程度の塩梅になっても、雪は「もう一日世話になれるかい」と言い、巳之吉は頷いた。同じことがしばらく続いた。
「今日は、江戸に発つのか」
 その日も巳之吉は朝一番にそう訊いた。居候の身だから働かせてくれと表で薪を割っていた雪は、とうとう手斧を放り投げ首に巻いていた手ぬぐいをぴしゃっと地面に打ち捨てて、真っ白な頬をわずかに紅くして巳之吉に詰め寄ってきた。
「なんなんだいあんたは毎日毎日! そんなに俺に出てってほしいならそう言やあいいじゃねえか!」
 突然怒鳴られ、巳之吉はびっくりして石のように固まってしまった。目と眉を吊り上げ今まで見たことのない怒りの表情をした雪は胸ぐらを掴まんばかりに迫ってくると、小さい拳でどんと巳之吉の胸を突いた。
「ち、違う。おれは、おれはただ、いつまでここに……居るつもりなのか気になっただけだ」
「だからそりゃどういう意味だよ」
「あんたが、いつここを出ていくのか、今日は居るのか、それが知りたいだけだ」
「へえ。つまりさっさと出ていってほしいってことか」
「違う! 違う、違う。どうしてそう思う。そんなこと、考えてもいない」
 巳之吉は哀れにも真っ青になったり真っ赤になったりしながら、おろおろと大きな手を振り回した。
「……じゃ、俺にどうしてほしいんだい。巳之吉さんよ」
 上目遣いにじいっと、黒い瞳が巳之吉の目を捉えた。
「それは……それは、言えん」
「なんでだよ」
「おれの、勝手な話だから……」
「言ってみりゃいいじゃねえか」
 巳之吉は首を傾げた。雪は舌打ちをし、今度は急に困りきった顔になって縋るように襟を掴んだ。
「だから、言ってみろよ。あんたが俺にどうしてほしいのかをさ!」
 しん、と空気が張り詰め、自分の心の臓の音まで聞こえそうな気さえした。巳之吉は喉を鳴らして唾を飲み込むと、ありったけの勇気を振り絞り雪の瞳を見つめ、口を開いた。
「行くな」
 掠れた声で、囁くように絞り出す。
「江戸には行くな。ここに居ろ。この家に。ずっと、おれの家に」
 雪は瞬きすると、急に気弱に目線を逸らし、ため息混じりに低く言った。「……素性も知れん行きずりの流れ者だぜ。悪党だったらどうする。油断したとこを狙って寝首をかいて、一切合切蓄えを奪って逃げちまうつもりかも」
「お前はそんなことはしない」
「どうして分かる」
「知らん。ただ、分かる。雪は雪だ。お前は悪党じゃない。いや、悪党でもいい。おれは、雪に居てほしい。ここに居ろ」
 ここに居ろ、ともう一度繰り返す。強く、はっきりと。
 すると、雪はふいに巳之吉から離れ薪小屋の中に入り、黙ってするすると着物の帯を解き始めた。
「お、おい、何してる。凍えるぞ」
「そりゃ大変だ。じゃあ……あっためてもらわねえと」
 小屋の戸口に寄り掛かり、雪は自分の肩から着物を滑り落とした。真っ白い両腕を広げ、招くように巳之吉に差し出す。
 それを見た瞬間、巳之吉はもう頭も身体も煮え立ったようになって、猪のように突き進むと裸の雪をしゃにむに掻き抱いた。
「ちょっ……ちょっと、巳之吉さん。苦しいよ……」
 耳元で切なげに訴えられても腕の力が緩められず、ひたすら強く、冷え切っている雪の身体を抱きしめる。雪はしばらくされるがままになっていたが、やがて震えるように熱い息を吐くと、己の一物を巳之吉のそれに押し付けるように腰を使った。
「!」
 びくり、と兎か鹿の子のように巳之吉の身体が跳ねた。
「……もしかして、初めてなのかい」
 巳之吉は黒く見えるくらいに真っ赤になった。するとその恥ずかしさが伝染ったように雪も頬を染め、照れくさそうに微笑みながら厚い胸に額を擦り付けた。
「いいよ……したいこと、なんでもしてみな。あんたの初めて、全部貰うよ。乱暴したってかまわ……んんっ」
 雪の言葉の最後は、喰らいつくように押し当てられた唇に堰き止められた。
 それから、言われた通り、巳之吉はしたいことを雪にした。乱暴だけはしなかった。

 夢か極楽のような暮らしが始まった。毎日毎日、薪小屋や母が寝たあとの囲炉裏端、春の野原や夏の川べりや秋の落ち葉の中で二人は睦み合った。抱いても抱いてもひとつも飽きるところがなく、いつ触れても初めてそうしたような気にさせる雪の身体に、巳之吉は夢中になった。雪もまた巳之吉を求め、初心だった木樵にさまざまな遣り口を手ほどきし、時に声を漏らさぬよう手拭いや己の袖を噛み締めて歓喜に震え、全身で悦びを伝えた。

 また季節が一巡りし、冬。いつも通り独りで山に入り仕事を終えて村に戻る途中、巳之吉は道端の古びた祠から奇妙な声がするのを聞きつけた。おそるおそる近付いてみると、そこには粗末な着物に包まれた、まだ産まれて間もないような赤子が弱々しい泣き声をあげていたのだった。
 仕事に行ったはずなのに赤子を連れて帰ってきた巳之吉に、雪は大いに驚いた。急いで湯を沸かし身体を温め重湯を飲ませ、綿入りの半纏に包み直して、冷えぬよう囲炉裏の火を強く熾した。
 あぐらをかいた膝の上に赤子を乗せ、巳之吉はほやほやと眠っているその顔をずうっと見つめていた。今までは家に帰れば巳之吉の目は雪から離れることはなかった。雪は鼻白んで舌打ちし、機嫌悪げに巳之吉の肩を小突いた。
「どうすんだよその赤ん坊。あんた、嫁もいないのに親父にでもなるつもりかい」
「そうだ。おれだけじゃあない。雪、お前もだ」
「俺も?」
 雪がぽかんと口を開けた。
「この赤ん坊はおれと雪の子だ。そのつもりで拾ってきた。おれは嫁なんぞいらん。お前がいればいい。おれがお前の亭主で、おれの亭主はお前だ。それで倅のこいつを育てる。……いやか」
 雪の切れ長の瞳が、今まで無いくらいにまんまるく見開かれた。巳之吉は急に不安になり、いやなのか、ともう一度言う。雪は急いで頭を左右に振って、俯いて、それから小さく鼻を啜った。
「いやなもんか。……いやなもんか」
 そう繰り返すと、巳之吉に身体を寄せ、こわごわと赤ん坊に触れた。
「巳之吉さん。俺、赤ん坊なんて初めて触るよ……いいおっ父うになれるかな」
「なれる。お前は正直だし働きもんだ」
「……抱いていいかい、俺も」
 巳之吉は頷いて、赤ん坊をそっと雪の腕に渡した。雪はぎゅっと唇を引き結んで、息をするのも忘れたように、微かに潤んだ目でじっと赤ん坊の顔を見つめた。
「ちっちゃくて軽いや……」
 巳之吉は雪の肩を抱き、共に赤ん坊の紅い頬をつついたり、まだ薄い頭の毛を撫でたりした。そうしているうちに、まるで本当に雪の胎から産まれた子のような気持ちになって、柄にもなく目頭が熱くなるのだった。
 この赤ん坊は天からの授かりものだ。生きていてよかった。雪も赤ん坊も自分の生涯の宝だ。一生大事にするーー。そう、巳之吉は強く強く心に誓った。

 赤ん坊は銀太と名付けられ、すくすく大きくなった。雪の世話っぷりは乳母にも負けぬ細やかさで、巳之吉の母も驚くほどだった。実際雪はよく働いた。家の事ならなんでも器用にこなしたし、細身に似合わぬ力で巳之吉の木樵仕事を手伝うこともあった。母はすっかり雪を気に入って、もうひとりの倅として巳之吉と別け隔てないくらいの情をかけた。
 その母もいよいよ老いて床に着くようになり、世話も家のことも一切を雪が受け持つようになったが、それでも一筋ほどのやつれも見せず、不思議なことにますます輝くように美しさを増していった。それから何年かのち、母は寝たきりのまましっかりと雪の手を握り、感謝の言葉を口にしてからみまかった。
 母の死を巳之吉は当然嘆いたが、しかし雪と銀太が側に居る暮らしはその悲しみをよくよく癒やしてくれた。着物などは雪がそっくりそのまま引き継ぎ、仕立て直して自分や銀太のよそいきにした。
 銀太が寝たあとの夜、巳之吉は囲炉裏端でぼんやりと、行灯の灯りで針仕事をしている雪の横顔を見つめていた。真剣に手元を見ているその顔は巳之吉に向ける笑顔や蕩けた顔とは違い、どこか冷たいような不思議な印象がある。そして巳之吉は、ふと頭で思ったことを何の気はなく声に出した。

「ーー似てるな」
雪の手が止まった。
「何か言ったかい」
「ああ、いや、お前が、あるひとに似て見えて」
「へえ……初めて聞く話だね。どこの誰だい、そのあるひとってのは」
 雪は手を止めたまま、じっと動かずそう言った。巳之吉はあの十八の冬に起きた恐ろしい出来事、渡し守の小屋で茂作と自分の目の前に現れた男のことを語った。
「寒さで幻でも見たんだろうな。でも、幻でもあんなにきれいな男は、お前とあの夜の男以外に見たことがない。思い出すとよく似ている……今まで気付かなかったのが不思議なくらいだ」
 すると突然、雪はすっくと立ち上がると、手にしていた縫いかけの着物を囲炉裏に叩き込んだ。ばっと灰と火の粉が巻き上がり、辺りがもうもうと白く烟る。
「おい雪、何をーー」
「なんでだよーーなんでだよ、巳之吉さん。あんた約束したじゃねえか。俺と約束したじゃねえか!」
 雪は両の手のひらで顔を覆うと、甲高い悲鳴をあげた。と、突然行灯の明かりが消え、部屋の戸が外に吹き込んだ。冷たい風と雪がなだれ込んで、刃のように巳之吉の肌を刺す。
 悲鳴のように聞こえたのは、荒れ狂う風の音だった。あの、渡し守の小屋で聞いたのと同じ。
「雪……お前……」
 雪はすうっと立ち上がると、いつも必ず結っていた髪を巳之吉の前で初めて解いた。風に煽られ、それは怒り狂う蜘蛛の脚のように広がり、今にも襲いかからんばかりに蠢き出す。
「よくも約束を違えたな―決して誰にも言わぬと誓った話を口に出したな!」
 地響きのような恐ろしい声色だった。風の音に負けぬ音聲だった。
「あんたを殺らなきゃならねえ。今すぐ殺らなきゃならねえ。でも……でも無理だ。あんたは俺を人の子の親にしちまった。俺を! 俺を人の親に! なんてことを! 巳之吉さん……恨むぜ。あんたを恨むよ。でも銀太からあんたを奪うことはできない。俺にはできねえ。あいつは俺の子だ。俺たちの子だ! ああ……くそっ、馬鹿だ。馬鹿な男だよ。やっぱりあのとき、最初に会ったあんときにさっさと殺しておきゃあ……!」
 風が鳴いた。雪の目から、きらきらと白い光が溢れて砕けて散らばっていく。巳之吉はわけも分からず身体を震わせながら、荒れ狂う風の中、雪に手を伸ばす。しかし雪は一度ぎゅっと目を瞑ると、突然凍り付いたような恐ろしい貌―あの夜と同じ貌になり、冷え冷えとした眼差しで巳之吉を見下ろした。
「ーーさよならだよ、巳之吉さん」
「雪!」
 巳之吉は縋るように雪の足首を掴んだ。だがそれは霜を掴んだようにあっけなく小さく砕け、風に流れて消えていってしまう。
「銀太の面倒を見るんだ。あの子になんかあったら、今度こそあんたを殺す。俺にはちゃあんと分かるんだ……離れてたって……あんたのことなら……」
 さらさらと、粉雪が風に運ばれるように、雪の身体が次第に崩れていく。「駄目だ、駄目だ。行くな雪。行くな! 雪!」
 巳之吉の手は空を掴んだ。後にはもう、風の一筋も残っていなかった。
 何もかもが終わり、何もかもが遅く、何もかもが消え去った。
 それきり雪は、二度と姿を現さなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?