捕吏に囲まれて逃亡、未来へ向けて/町田康
不遜で強欲な宮番は谷底の激流に呑み込まれ見えなくなった。誰にも見られていないことを確認したうえで、次郞長は静かにその場を離れて麓に降りていった。その次郞長に、
「あ、親分。おかえんなさい。うまくいきやしたかい」
と声を掛けたのは茶店で待たしてあった半五郎である。どうやら次郞長を待ってる間に食らい酔ったようで、いい具合にできあがっている。
酒を飲まない次郞長、酔った半五郎を一瞥すると、腰掛けもしないで立ったまま、一言、
「さ、行こう」
と言った。なのに半五郎は腰を上げない。
「戻って来るなり行こうはねぇでしょう、親分、まま、ここへお座んなさい」
と言って左手で腰掛けの隣のあたりを左手でパンパン叩く。右手は茶碗を持ったままで、つまりもっと飲みたいのである。だけど宮番を殺してしまっている次郞長は、半五郎の酒に付き合っている場合ではなく、一刻も早くこの場から立ち去りたい。そこで、
「座らねぇ。さ、行くぞ。姐やん、勘定をしてくんねぇ」
と促す。だけど酔っている半五郎は聞かない。
「寂しいこと言いっこなしですぜ、親分、じゃ、わかった。じゃ、じゃ、じゃ、もう一杯、一杯だけ飲ませておくんなさい」
と食い下がる。そこで次郞長は仕方なく、あらぬ方を見ながら、
「宮番を殺しちまったんだよ」
と小声で打ち明けた。だけど酔っ払って耳が遠くなっている半五郎はこれを聴き取れず、
「ええ、なんですって」
と聞き返す。そこで次郞長、仕方なく、さっきよりは大きめの声で、
「宮番がな、あんまりグズグズ言うものだからな、殴って谷底に叩き落として殺しちまったんだ。そんな訳で長居は無用だ。さ、行こう」
と言った。そうしたところ、さすがの半五郎も驚いて、驚いただけでなく、
「えええええええっ、なんですって? 宮番を谷底に投げ捨てたあ? そりゃあ、親分、人殺しじゃありませんかあっ」
と頓狂な声を張り上げた。これに次郞長、慌てて、
「バカっ。なんて声、出しやがる。茶店の姐さんが妙な顔してこっちを見てるじゃねぇか。さ、行こう」
と猶も半五郎を促す。にもかかわらず半五郎、座ったまま暫く考える風であったが、やがてポーンと膝を打つと、
「そうか、わかった」
と言った。
「なにがわかったんデー」
「親分はおいらがなかなか腰を上げねぇものだから、宮番を殺した、なんて嘘をついて、神輿を上げさせようとしてしてるんだろうか、その手は喰わねぇ」
「はあ、なに言ってんだ」
「親分が宮番を殺したのは嘘だ」
「本当だよ。だから早く行こうと言ってる」
「いや、嘘だ。嘘に決まっている。〽そら嘘や、そら嘘や」
と嘘を見破ったと思い込んで調子に乗った半五郎、最後は浄瑠璃の調子で言い募った。
これに至って次郞長の中に宮番と相対していたときに感じていた感覚と同じ感覚が募ってきて、謡う半五郎の横鬢を、ぐわん、と殴り、
「やかましいやい。いい加減にしねぇと殴るぞ」
ともう殴っているのに言い、そして、
「俺は宮番を谷底に投げ飛ばして殺したんだ。だから早く逃げねぇとまずい、とこう言ってるんだ。さっさとしねぇとてめぇもぶち殺すぞ」
と喝叫、銭を出し、驚いて目を丸くしている茶店の女に、
「姐やん、ここに置くぞ。釣りはいらねぇ」
と言って茶店を出た。
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