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わたし史 ②



【この回はFediverse Advent Calendar 2022の3日目の記事になります】


昔々、生まれて初めて飛行機に乗り向かった先は香港であった。
私の子供時代、未成年は親と共にパスポート写真に収まっていた。誘拐などを懸念する場合、現代の「5歳まで新生児1人の写真でオケ👌」のパスポートより遥かに安全性は高かったと思う。

当時のパスポート写真(ママンとリトルbroと私)


さて、上の家族写真から年月を経て、私は1人でカラーで撮った写真付きのパスポートを持ち日本を離れた。

ロンヤス外交に政治は浮かれ1ドル200円で始まった年がわたしが渡米する夏までの半年の間に150円台になった年のことだ。そんな世の中の動きなど一切視野に入らなかった私は友人達の期待を背負い両親に見送られ領事館に直訴して勝ち取った学生予定者ビザと共に飛行機に乗った。

元々乗り物酔いが激しく三半規管がアレな私が香港に行った時の「ゲロ袋4時間連続装備」の記憶は家人の記憶に生々しく刻み込まれ、アジア内近隣移動の地獄の4時間の3倍もある飛行時間、ありえない広さの海越えを私が一体ゲロ袋何枚で達成できるのかとても内心心配していたことだろうと思う。言霊ビリーバーのママンにおいては酔い止め要る?と聞くことすら憚られ、私は座席前のポケットに入ってるゲロ袋1枚以外は装備ゼロの無防備さで機上の人となった。

が、しかし。

ま、乗り物酔いなんて8割はメンタル要因ですと言いたい。
ゲロ吐く余裕なんて保護者あってのものだと私は思い知ることとなった。
とにかく私は学生ビザ発行に必要な最低限の英語力も持ち合わせてないのだ。

前に来る単語の語尾と次に来る単語の最初をくっつけるとそれっぽく聞こえるということは知っていた私。

キャナィハバミルク?
どう見ても海外の人には14、5歳にしか見えない18歳の私に怪訝な一瞥をくれつつミルクの代わりにビール持ってくるCA。
キャナィハバフォーク?
フォーク落としたので代わりをもらおうとしたらCokeを持ってくるCA。

通じないどころかフォーク無いんで飯さえ食えない、、、。
ゲロ吐くどころかゲロの素となる食糧補給もままならない、、、。

結局、気が付いた時には私は一度もゲロ袋の封を破る事もなく太平洋の向こう側のロサンゼルス空港に無事に着陸した。
そして生まれて初めて最も遠いところまでゲロも吐かずにたった1人でやってきた私にはゲロ以上の試練が待っていた。

そう。
アメリカの玄関口、悪名高き移民局である。

既に私は機内での食糧補給に失敗し残りHPも少なかった。
窓口まで進み無愛想で無表情なオフィサーに残りのHP全て賭けてハローと挨拶してみた。

オフィサーは私のパスポートを開きスタンプのページを見て、そして固まった。

あれ、、、、、?

オフィサーは何やら私にベラベラ話しかけながら私と私のデカめの手荷物を交互に見てはまたパスポートを凝視する。

あれれ、、、、?

神戸総領事館お墨付きのパスポートを片手に颯爽と移民局を駆け抜け初の記念すべき米国入国を果たす予定だった私は一気に不安になった。
(わたし史①参照 https://note.com/sayuri_miami/n/nb230810258ba )
日本出発までなんの不安も無かった私は初めてここで不安になった。
そして、そんな不安に押し潰されてすっかりフリーズしてしまった私は奥から出てきた別のオフィサーに連れられて別室送りとなってしまった。

オフィサー男性1人、女性1人、そして私。
まー、学生ビザを出してもらえなかった程度の英語力なので、オフィサーズも早々にお手上げとなりしばらくすると通訳も参戦。

私: 何でこんなことするんですか?
(半泣き)
通訳: 観光ビザなのになんでそんなものを持っているのか知りたいそうです。
私: 何を?それに学生予定者ビザって聞きましたけど。
通訳: それです、そのタイプライター。あと、そんなビザは私は聞いたことがないです。

タイプライター、、、、、。

本当は私はタイプライターなんて重いものを持って飛行機に乗りたくなかった。「勉強しに行くんだからこのオレサマの使っていた貴重なタイプライターをオマエに授けよう」という父の(余計な)一方的な(傲慢な)押し付けで仕方なく年代もののタイプライターを抱えてきたのだった。学生予定者ビザというのは観光ビザと同じカテゴリーだったので、本来観光で一時的に入国するだけのはずの人間が何故こんな旧式タイプライターを抱えているのか、と目に留まったらしい。

チッと心の中で舌打ちするも時すでに遅く。
不審物と言ってもよい旧式タイプライターを抱えた私は異国の人には明白に不審者であった。
本当に厄介な物を父は私に持たせたものだ。日本の大学入試に落ちた私に復讐してるのではマイ父?と思ったくらいだ。
手荷物で機内に持ち込んだ荷物は全てテーブルの上に出され、そしてコッソリ服の下に巻いていた現金もテーブルの上に一枚ずつ並べられ、もうこの辺で「いやホントにヤバい国に来たわ、、、」と覚悟を決めました。
しかしさすがアメリカ、そんな私の覚悟の遥か斜め上をいくのであった。
男性オフィサーが何やら工具箱のような物を持ってきたかと思ったら、ホントにドライバーやらアイスピックみたいなものを持ち出してなんと旧式タイプライターを分解しだした。

ホント、、、ヤバいわこの国、、、。

そしてさらに斜め上をいくアメリカ。
女性オフィサーがもう1人入ってきたと思ったら、私を隣のさらなる別室に連れて行き女性オフィサー2人がかりで身体検査された。
はい。ほぼ全部脱がされましたです。

いや〜、怖すぎるわこの国、、、。

ま、お腹に巻いてた現金以外は叩いてもドラッグも輸入禁止生物も出てくるはずもなく。
半泣きの段階はもう数時間前に軽く超えていたので放心状態で逆に良かったのではと今になって思う。腹も究極に減ってたし。多分。
感情みたいなものはあまり覚えていない。人は恐怖に直面するとシャットダウンするというから記憶が無いという事はきっととても怖かったのだろう。

服を着て元の部屋に戻るとタイプライターはそれはそれは無惨な姿となっていた。
持っていくだけ面倒だろと思ったのが申し訳なくなるくらいバラバラになっていた。
オフィサーって精密機械に関してはズブの素人なわけで。なのにあれだけ堂々と全く元に戻す気が無い大前提で他人の所有物を破壊しても良いのだろうか。
良いのだろうね、不審者の持ち物に関しては。

あとのことはほとんど記憶にない。水くらいはくれたんだろう。
結局拘束時間は5時間近くになった。
無罪放免となった私は晴れて別室を後にした。
バラバラになったタイプライター詰めた袋を持たされて。

いや〜、要らないから捨ててと通訳介して伝えたら断られました。

あっちの方に行って機内に預けた荷物を取りに行けと指さされた方向にふらふらと歩きつつ、この呪われたタイプライターはここで捨てようと思った。
そしてゴミ箱を見つけ袋ごと捨てようとした。
が、部品が多すぎてゴミ箱に入らなねぇ、、。
しょうがないので袋の口を開けて、ここのゴミ箱にジャラジャラと、あっちのゴミ箱にバラバラと、分散して何やら金属の部品を捨てて歩いている見た目14、5歳にしか見えないアジア系女子はもう不審者以外のなにものにも見えず、再び空港のセキュリティに不審者として職質を受け、通訳が呼ばれ、荷物を受け取り迎えロビーに出れたのは到着後6時間を過ぎていた。

そして、私はやっと気がついた。
私がその日からお世話になるはずのホストファミリーの老夫婦は、、、?

居た。

老夫婦は6時間待っていてくれた。
乗った飛行機の乗員名簿に私の名前がある事と、その飛行機が到着した事だけ告げられて。

本当に済まない。
そしてありがとう。


その後まさかこれほど長くなるとは思ってもみなかった私のアメリカ生活のこれが記念すべき第1日目であった。





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