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味覚

わたしは料理が不得手だが、毎日コンビニ弁当だと体調を崩すような年齢にもなってきたので、「簡単レシピ」という名の偉人の皆様のお知恵をお借りしながらなんとか自炊をしている。先日はやっとこさの思いで生姜焼きを作った。
本当に、ごはんが作れる人は無敵だな、と思う。

最近は、少しでも食べたいなと思ったものは作ってみることにしていて、気になるレシピはスクリーンショットを撮っておく。
Twitterが一番手軽にメニューを見つけることができると感じている。
わたしは料理があまりうまくはできないので、できる人の感覚はわかりかねるのだが、少なくともわたしはまずメニューが浮かばない。(寿司が食べたいとかステーキが食べたいとかは別の話として…。)
となるとレシピも調べようがない。

スーパーに行っても、食材をみてこれ作ろうかな、なんて思い浮かぶことはまずないので、
これたべたい、これなら作れそう、というきっかけをくれるTwitterは本当にありがたいのだ。
そのうえ作ってみた人が感想を呟いていたりなんかもするので、便利な時代になったものだと思う。
ひと昔まえだったらわたしはのたれ死んでいたかもしれない。

Twitter上はポジティブな感想で埋め尽くされていたりもするので、「ウワーーー!メチャクチャ美味しいんだろうなあ!」と期待に胸を躍らせていざ作ってみる。

と、んー、そんなでもなかったな。となるときがある。

それは単純に自分の味覚に合わなかっただけであって、レシピの問題ではない。

料理がおいしいときは、あ、この人のおいしいとわたしのおいしいは一緒なんだ〜!と安心するし、
んー、と思うときは、この人はこういう味が好きなのか、なるほどなあ〜となる。それ以上でもそれ以下でもない。

たまに、料理のあり方を力説する人がいるが、
毎日のご飯はおいしく食べられれば100億点だろ〜と個人的には思っている。

力が入るのはいいのだけれど、力が入りすぎるあまり自分の持っていない価値観について強い言葉で否定する人もいる。
毎日のことだから、どんな話をするにしても強い言葉で論じすぎるのはいささか無関係でも心にくるので避けたい。
それでもTwitterってすごいもので強い言葉で論じれば論じるほど支持されるんですよね。批判もあるだろうけど。

生活のことを、自分で悪いと自覚するのと、
まったく知らない他人に「悪い」とヤジを飛ばされるなどではまったく話が違うのだ。

わたしの好きなモー娘。の歌詞を借りれば、「シェアしまくり時代」において、
だれでも自分の意見が世界中に伝えられるようになった結果、自分に自信を持てる人が増えた、というか増えすぎた。

自分はこう思う、という意見は大切だけれど、その論を強めるために他人を下げたり否定したりする必要はないはずだし、
他人の感情をソースにしたらいよいよ「自分はこう思う」という話ではなくなってくる。

わたしはあなたの考えやあなたの価値観は知りたいけれど、それが他人からの借り物や他人への否定で成り立っている意見ならそんなに知りたくないよ〜という気持ちになる。

シェアしまくり時代の渦中にいることを忘れずに、自分の味覚を大事にしていきたい。

といいながら今日もTwitterでみつけたパスタを作ってみようと思います。楽しみ。

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