シノンの夜(フランス恋物語⑨)
Jeanne d'Arc
「好きな歴史上の人物は?」と聞かれたら、迷いなくジャンヌ・ダルクと答えるぐらい、この伝説の少女が好きだ。
ジャンヌ・ダルクとは、15世紀の百年戦争の時代イングランド軍と戦い、フランスを救った聖女である。
フランスに来たら、ジャンヌ・ダルクのゆかりの地巡りをしたいと思っていた。
シノンは、ジャンヌ・ダルクとシャルル王太子が出会ったとされる、歴史的舞台の地だ。
ジャンヌ・ダルクは神のお告げに従い、フランスの王位継承者であるシャルル王太子がいるシノン城を訪ねる。この際、王太子は自分の顔を見たことがないジャンヌをからかうために偽者を謁見させた。しかし、ジャンヌは謁見した王太子が偽者であることをすぐさま見破り、こっそり従者たちに紛れて潜んでいた本物の王太子を探し当てるのである。
この奇跡で王太子はジャンヌのことを認め、一軍を率いさせることになる。
シノンなら、トゥールからTER(電車)に乗って1時間で行ける。
4月にパリに引っ越すので、トゥールに住んでいる今のうちに是非シノンに行っておきたいと思っていた。
日帰り旅行
語学学校のエクスカーションでロワールのお城巡りバスツアーに行ったことはあったが、まだトゥールから電車に乗って遠出をしたことがなかった。
シノンに一人で行くのはちょっと心細いし、どうせ出かけるなら誰かと行った方が楽しいに決まっている。
そこで、現在最も親しい仲のジュンイチくんに「一緒にシノンに行こう」と誘ったのだが、歴史に興味がない彼はあまり乗り気ではなさそうだった。
しかし、なぜか後になって、「今週末、シノンに行ってもいいよ。」と返事が来たのである。
そんなわけで、私たちはその週の土曜日、シノンに日帰り旅行に行くことになった。
シノン城
2月の晴れたある土曜日。
私たちがシノン駅に着いたのは午後だった。
駅からお城のある方向に少し歩くとジャンヌ・ダルクの像が見え、私は歓声を上げた。
中世の雰囲気が残る旧市街を歩き、高台の上にあるシノン城を目指した。
シノン城に着いてみると、そこはお城というよりも城塞とか廃墟といった雰囲気で、ジュンイチくんのように歴史に興味のない人には、少し物足りなく感じる場所かもしれなかった。
「ジャンヌ・ダルクとシャルル王太子謁見の場」で、私が興奮気味にその素晴らしさを語っても、興味はなさそうで、
「レイコは、ジャンヌ・ダルクよりお姫様の方が似合ってるよ。」
などと、見当違いなことを言ったりした。
ジュンイチくんをシノンに誘ったのは悪かったかも・・・と、私は反省した。
聖エティエンヌ教会
シノン城を観光した後、旧市街に戻って街散策をした。
ジュンイチくんが好きなのは、カトリックの教会らしい。
私たちが知り合った頃、トゥールの大聖堂や教会をよく見に行っていたが、最近はカフェに入り浸るようになり、全く行かなくなっていた。
旧市街を歩いていると、15世紀の建物だといわれる聖エティエンヌ教会があったので、私たちは入ってみることにした。
中には誰もいなくて、とても静かだ。
ステンドグラスに光が差し込み、教会全体が赤く色づいてとても綺麗だった。
その美しさに見とれていると、いきなりジュンイチくんが後ろから私を抱きしめ、こう言った。
「こんなところで、レイコと結婚式を挙げたいな。」
なんでこの人は、知り合って1ケ月ぐらいしか経っていない私にそんなことが言えるのだろう?
私は何も返す言葉がなかった。
悲痛な願い
街中を歩き回っていると次第に暗くなってきて、私たちは通りがかったビストロで軽く夕食を済ませることにした。
ここは地元の人で賑わう大衆食堂という感じで、人々がワインを飲みながらお喋りに興じている。
私たちは注文を済ませると、周りに日本人がいないのを確認して、臆面もなくストレートな会話を繰り広げた。
「ねぇ。今夜、シノンのホテルに泊まろうよ。」
イヤらしく聞こえないよう、努めて明るくジュンイチくんは言った。
・・・またか。
今までも彼の部屋に誘われることがあったが、私は拒否し続けていた。
「やだよ。私はそんなつもりないもん。ご飯終わったらトゥールに帰るよ。」
相変わらずの冷たい返事に、ジュンイチくんはしょんぼりしている。
「なんでダメなの?
俺たち付き合ってだいぶ経つよ。
今日シノンに来たのだって、『もしかしたら旅行なら一緒に泊まってくれるかも』って思ったからなのに・・・。」
私たちは会えば惰性でキスをしてしまう関係だが、それでも彼には恋愛感情を持ってない。
私は自分の気持ちに嘘はつきたくなかった。
「私たち別に付き合ってないし。私はイチャイチャするだけの今の関係がいいの。」
相変わらずひどい返事に、彼の表情はみるみる曇ってゆく。
「なんでそんなこと言うの? 俺のこと好きじゃないの?」
ジュンイチくんの悲痛な表情に、胸が張り裂けそうだ。
私はどうしたらいいんだろう?
彼に体を許すのは、そんなに難しいことじゃない。
でも、きっとその後も、私はジュンイチくんを好きになることはないだろう。
かと言って、この言葉をそのままこの男の子に伝えるのは残酷すぎる。
「私はフランス人の彼氏を探しにフランスに来たの。だからジュンイチくんじゃダメなの。」
こう言うのが精一杯だった。
ジュンイチくんはムッとして、それ以上は何も言わなかった。
神様の悪戯
ビストロでの食事を終えて、私たちはトゥールに戻るためにシノン駅へと向かった。
シノン駅に着くと難しい表情をした駅員に、「今日はもう電車は出ない。明日来るように。」と言われた。
私たちのフランス語力では、なぜ電車が止まったのかという理由はわからなかったが、「明日にならないと電車は動かない」ということだけは理解できた。
シノンからトゥールへの距離は約50km。
トゥール行きのバスがあるかどうかわからないし、タクシーだと結構な金額になるだろう。
ジュンイチくんはしばらく考えた後、ぽつりとつぶやいた。
「ホテル行こっか。」
「・・・そうだね。」
他に選択肢はなかった。
私たちは手を繋いで、旧市街に引き返した。
シノンは観光地だけあって、沿道にぽつぽつとホテルが建ち、泊まる場所を探すのに時間はかからない。
その中から、可愛らしい外観のこじんまりとしたホテルを選んだ。
ホテルに入ると、ジュンイチくんはレセプションへ行き、慣れた口ぶりで宿泊の手続きを始めた。
その様子を見ながら、彼は今どんな気持ちで部屋の予約をしているのだろうかと考えた。
指定された部屋のドアを開けてみると、シックな内装で、ダブルベッドと小さなテーブルセットが置かれている。
荷物を置き椅子に腰かけると、ホームステイ先のマダムに電話をし、「今夜はシノンのホテルに泊まる。」と手短かに言って切った。
「先にシャワー行ってくるね。」と、ジュンイチくんの声が聞こえる。
私は薄暗い天井を見上げて、これから起こることを想像した。
覚悟
シャワーを浴びながら、ジュンイチくんと出会った日から今日までのことを色々思い出していた。
久しぶりに聞く日本語で、私を安心させてくれたこと。
放課後のカフェで、一緒に宿題をしたこと。
すごく寒かった日、夜空の下で初めてのキスをしたこと。
キスと抱擁を繰り返しながらも体は許さず、ずっと我慢をさせてきたこと。
今日の出来事は、自分の気まぐれでジュンイチくんを苦しめ続けた私への罰だろう。
ジュンイチくんは、今までたくさんの安らぎと愛を私に与えてくれた。
私もそろそろ、与える時が来たのだろうか・・・。
覚悟を決めて、バスルームを出た。
乖離
その夜、私たちは最後の一線を越えた。
ジュンイチくんは抑えていたものをすべて吐き出すように、激しく優しく私を抱いた。
私は何も考えず、ただ自分の身に起こる快楽に没頭することにした。
終わった後、ジュンイチくんは切ない表情で私を見つめ、
「レイコ、愛しているよ。」
とつぶやいた。
私は気持ちを悟られないよう、微笑むのがやっとだった。
体を重ねた後でも、二人の心の距離が埋まることはなかった・・・。
堕落
シノンの一夜以来、学校が終わるとジュンイチくんの住むアパルトマンに行き、激しく体を求め合うのが日課となった。
私が拒み続けていたのは、こうなることが解っていたからなのだが、一度越えてしまったらもう後戻りはできない。
私たちはただひたすら、新しく覚えた快楽を追い求めた。
すべてを与えられたジュンイチくんは、今まで以上に「愛している」と言い、私にも同じ言葉を要求した。
私は頑なに言わなかったので、彼の期待を裏切り、さらに傷つける結果となってしまった。
ジュンイチくんは私を恋人と思っているようだが、私にはその自覚がない。
私たちはいつの間にか、崇高な同胞関係から、体で繋がる悲しい関係にまで堕ちてしまったのである。
情事の後、家まで送ろうとするジュンイチくんを振り切って、私は一人で帰るようになっていた。
二人の気持ちの温度差に耐えられなくて、早く一人になりたかったのだ。
いつも自己嫌悪でいっぱいで、この関係をやめなければと何度も考えた。
しかし、学校に行けば同じクラスに彼はいる。
二人でランチに行ったり、放課後一緒に行動するのが当たり前すぎて、今さらやめるのも不自然に思われた。
クラスメイトは全員外国人で、私たちの微妙な男女関係に興味はないし、相談できる友人は誰もいない。
「4月になればパリに行くし、それまでだろう」と、変な割り切り方をして、今は目の前の快楽を選ぶことにした。
そんな関係を続けていくうちに、私たちは愛し合っているのか傷つけ合っているのか、よくわからない状態になっていた・・・。
暗い闇の中に一筋の希望の光が差すのは、もう少し後のことである。
Kindle本『フランス恋物語』次回作出版のため、あなたのサポートが必要です。 『フランス恋物語』は全5巻出版予定です。 滞りなく全巻出せるよう、さゆりをサポートしてください。 あなたのお気持ちをよろしくお願いします。