疑いという「呪い」からの救済/『オオカミちゃんには騙されない』視聴メモ1

(以下では『オオカミくんには騙されない』全シーズンの大きなネタバレをしているので、できればすべて視聴後に読むことをお勧めします)

 『オオカミくんには騙されない』シリーズにおいて、絶対に恋しない「オオカミくん」という存在は、初めは単にトラップ/脅威であり、西瓜に振る塩のように切実さを加速させリアリティの水位を上げるためのスパイスであったことは確かだ。今でも対外的には、女子たちが(そして視聴者が)騙されないように常に疑いを持ち「オオカミくん」を見つけ出す番組、と宣伝されているだろう。シーズン3『真冬のオオカミくんには騙されない』からは、視聴者がいちばん怪しいと思う男子に投票し、最多得票の人物が脱落するという「オオカミくん投票」が加わり、より「疑いのゲーム」としての側面が濃くなったようにみえる。
 しかし、この投票/脱落制度が加わって以降のシリーズのラストの描写は、また違う観点を提示しているように思える。結論から言うと、「疑い」を「疑いがあること」と「疑ってしまうこと」の二つに切り分け、さらにシーズンが進むごとに、そのそれぞれを呪いを解くような救済の仕方で扱うことで、そもそものコンセプトを解体しようとしているのではないか、と思う。

 シーズンごとに見ていこう。シーズン3『真冬のオオカミくんには騙されない』では、投票で男子が脱落し、それまで最も近い距離にいた女子は、他の男子からもアプローチを掛けられながらも、最終回では「誰も選ばない」という選択をする。その際にスタッフは、誰も選ばなかった女子は脱落者が「オオカミくん」であるかどうか知る権利がある、と彼女に伝える。けれど彼女はそれをも断り、脱落者が「オオカミくん」かは最後まで明かされない。
 シーズン4『太陽とオオカミくんには騙されない』で脱落した男子は、ルールにより指名した女子と最後の1時間「シンデレラタイム」と呼ばれるデートを許される。貸切のショッピングモールで、彼は赤いバルーンを買い彼女に手渡す。「オオカミくん」シリーズでは、ラストの女子からの告白イベントの際、自分がオオカミでない/告白に応えられる場合、持っているバルーンを相手に手渡せる(オオカミの場合手放してしまう)から、脱落の前に/オオカミと見なされる前に、その儀式を模するように。最終回、彼女は別の男子を選ぶか、それとも脱落者が「オオカミくん」であるかどうか知れる手紙を選ぶかの選択で、無人の側で枝に括りつけられたバルーンと添えられた手紙を選ぶ。そして2つ目のバルーンを手にしながら、彼の無実を知り涙する。
 シーズン5『白雪とオオカミくんには騙されない』では新たに「落ちないで投票」がルールに加わる。視聴者が落ちてほしくない男子に投票し、「オオカミくん投票」の数を超えれば、ラストの直前に脱落者は復活する。メンバー全員の、そしてたくさんの視聴者の願いのなか復活した男子は、ずっと彼を思ってくれていた女子と最後のデートをする。翌日の告白で彼女が向かった先には、けれど彼の姿はなく、枝に括りつけられたバルーンと手紙だけがある。――前日のデートの終わりで、男子が彼女に、自分が実はオオカミだったと告げてしまうシーンがその後に流れる。重大なルール違反により彼は「失格」となり、告白の場にいることができない。女子は自ら、バルーンを空に手放す。

 『オオカミくん』シリーズは想定では、「オオカミくん」を見つけ出し、彼に惑わされず「真実の恋」を手に入れるゲームだったはずだ。コメンテーターも視聴者も、誰々が怪しい言動だからオオカミっぽい、誰々はまさかオオカミだとは信じられなかった、と外野で意見を投げる。けれどその「真実」は最後になるまで分からないし、投票も正しい選択だったかもわからない。結果として男子各々およびそのさまざまな言動に対する「疑い」と「疑っているということ」だけが積み重なる。
 だとしたら、たまたまこのシリーズが「オオカミくん」という強制的なルールを含むだけで、「疑い」と「疑われ」の積み重なりとしては他の恋リアとも、さらにはさまざまな恋愛フィクションや「リアル」とも大きな差はないのではないか。決して全てを開示できない「他者」はみな「疑い」の宝庫だし、だからわたしたちはいつも「疑うこと」を拭うことができない。単純なゲームだったはずの設計はこうして切り分けてみると、そもそもわたしたちのコミュニケーションが孕む解のない問題/呪いの反映でしかない。
 それでは、『オオカミくん』シリーズはほんとうは何を描写していたのか? 『真冬の~』において女子は、疑いのある/疑っている男子の存在自体を、不知でくるむような解決を選択する。『太陽と~』で疑いの彼岸へ追放される前にバルーンを受け取った女子は、けれどそれに満足せず再度その川を飛び越え、もう一つのバルーンを奪取することで「疑われ」の悲しみを晴らす。『白雪と~』では追放された男子が願いによって帰還し、そしてその願いに誠実であるかのように「疑い」の真実を暴露し、また追放されてしまう。疑いであることの疚しさ、疑ってしまうことの罪悪感に対して、「オオカミくん」は非常にメタフィクショナルな描写を提示することで、まるで呪いを祓うような装置として機能している。そしてそもそも「疑いのゲーム」としてあったコンセプトをこのように解体することが、より切実さに応え、リアリティ/真実への希求を深く満たす。おそらくはそこにこそ、このシリーズが持つ他との差異がある。

(そういう意味では、『オオカミくん』シリーズの特にこの女子たちは、恋愛リアリティショーを銘打つこのジャンルの中で、一歩フィクションに、もっと言えばおとぎ話の世界に踏み込んでいる奇妙さを持っているかもしれない。彼女たちは必ず告白回では最後のメンバーとして登場し、それまでに告白を済ませる共にこの「リアリティ」を生きた女子と、少しだけ道を分かち、切り離されている。
 『白雪と~』で追放された男子「さなり」については、ラストで登場せず枝に括られたバルーンと手紙が映し出された時に、視聴者がTwitterで「『さなり』が『えだり』になっちゃった」と呟いていたのが印象的だった。まさに魔女に呪いをかけられて姿を変えられたと同じ演出だ。『太陽と~』にしても、視聴者の疑いによって男子は枝に姿を変えられ、『白雪と~』では再投票で呪いが解かれるも、今度は世界のルールを自ら破ったことで再度枝に変えられる。女子たちは「オオカミくん」という、システムと視聴者の魔力が機能する箱庭世界から男子を救うために、一歩フィクションへと足を踏み入れてしまっているように見える。もちろん「オオカミくん」やその他のさまざまなギミックや小物が童話から着想を得ていることは言うまでもない。)

 7/14より、新シーズンとして『オオカミちゃんには騙されない』がスタートした。タイトルで気づくかもしれないけれど、今回は初めての「男女逆転」、「女の子のうち一人以上がオオカミちゃん」というシステムだ。第1回を見ると、「オオカミちゃん投票」は今まで通りなされるが、「落ちないで投票」は今のところ告知されていない。
 私とかは例外で、今でも『オオカミくん』シリーズの視聴者のほとんどは女性であるとは思われる。だとしたらこれは単純な「男女逆転」ではないのではないか。同じ「オオカミ」でも、外的なトラップ/脅威であり、疑いの対象である、つまりは「(相手に)疑いがあること」「(相手に)疑ってしまうこと」を描いていたこれまでと違い、『オオカミちゃん~』は「(自分が)疑いであること(嘘を秘匿すること)」そして「(自分が)疑われてしまうこと」を描きうる。もちろんそれはさまざまな恋愛フィクションや「リアル」が孕むもう一方の問題/呪いだ。新シーズンにおいて「オオカミくん」というシステムが、さらにその手を広げることを、すでに私は期待している。

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