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田中三也さん戦争体験のお話会 9/1sun

随分と間があいてしまいましたが、9月1日の田中さんのお話会のこと。
この日は当時に詳しい方から色々と日常のことの質問があって、いままで何度もお話を聞いてはいたものの、あまり聞かなかったこともチョコチョコとあった回でした。

まず予科練の頃の話では、入隊のための試験は、最初の頃は試験終了後に一度受験生を帰郷させてから合格通知を出して入隊させていたものの、待遇は新兵よりずっと高いと宣伝されていたのに反して、入ってみれば一番下の四等兵待遇で制服も水平服(「ジョンベラ」という呼ばれ方も)だったため、一度帰すと戻ってこない受験生がわりといたので、とりあえず途中から制服を七つボタンの詰襟にしたり、甲4期くらいから帰らせないですぐに入営させる方式になったのだとか。ちなみに田中さんは4期の次の5期生。

予科練に入ってからの生活のことは、陸陸短短というくらいに陸戦と短艇(「カッター」とも。十数人乗りのボートで皆でオールで漕ぐ)の教育に力を入れていたらしいものの、田中さんは短艇のが大変だった記憶が強いとのこと。
短艇1つごとに1班の割り当てがあって、太くて重いオールで漕ぐと、手や尻の皮が剥けてくるのだけれど、剥けるだけなのは良いほうで、途中から剥ける皮がなくなってきて、ヨーチンを塗ると飛び上がるくらいに痛い。でもそれは班員全員が同じだから、皆でカバーしあいながらなんとかやった、と。
そして短艇とかの訓練でヘトヘトになったときに、精神講話(つまり軍人精神を叩き込むためのお話ですね)を聞かされて、どんどんそういう気持ちが刷り込まれていく部分があった、と。そんな予科練生活していると、予科練の履修が終わる頃には「がんばれよ!」と別れたのが、その次にある実際の飛行教育を終えた頃には「(死んだときは)靖国で会おう」て挨拶になっていくそうです。

海軍のしごきとして有名な、太い木の棒で尻を思いきり叩かれる「バッター」は、意外にも、予科練のときにはあまりなかったらしく、その次の飛行教育を受けたときには日常的に何度もやられたのだとか(とはいえこういうしごきの激しさも入った年次でかわるとか)。良くても悪くても叩かれるからで、朝から「今日は何発叩かれるかな…」と思うこともしばしばだったとか。
バッターで尻を叩かれると、真横に青黒い痕がしっかり残って、フンドシ1枚になると、フンドシの端からバッターの痕が見えるのが常だったと。

楽しみはなんといっても外出で、酒保(隊内にある売店)でも汁粉はあったけれど、外の汁粉屋で食べるのは格別だったそうです。

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また、予科練時代の班長は佐野という善行章(ぜんこうしょう)2〜3本の30幾つの人で、短艇での競争とかで他の班に負けて不機嫌になったときは、「班長は今日は食事を食べない!」と言って帰ってしまうこともあって。そういうときは隣の別の班の班長が「後で謝っておくから、食べていいぞ」とフォローしてくれることもあったとか。
ちなみに善行章は、兵隊に入って3年ごとに1つもらえるもので、最高5本までもらえるもので、この善行章が多いのを、形が似てるので「洗濯板」と言うこともあるそうです。

ほかにも、予科練での試験では、満点を取った人の名前が貼りだされて、その次の試験で満点が取れないと名前を消され、満点を取り続けると最後まで名前が残るという仕組みだったそうです。

さらには田中さん、予科練時代に騒動に巻き込まれたこともあったそうで。田中さんの所属している甲飛のとある生徒と、乙飛(乙種飛行予科練習生)のとある生徒が挨拶のことでケンカになって、それがお互いのクラス全体を巻き込んだ乱闘騒ぎに発達、そのとき寝ていた田中さんもたたき起こされて参加させられたそうな(「総員起こし」がかかったそうです・笑)。甲飛と乙飛とでは、試験を受ける年齢の違いや昇進の違いがあったたほか、優劣を表す甲乙という名前がついていたこともあって仲がよくなく、そういうのも大騒動になった一因だったそうで。どうしようもない乱闘になったものの、そこはすっかり軍隊生活が染みついていたようで、機転を利かせてならされた停戦ラッパでやっと終わったと。後日お互いの期長が呼び出されて、喧嘩両成敗ということで両方の期長が代表して罰をうけたということでした。とはいえその罰も、騒動の大きさからすると軽いものだったようです。

軍艦『利根』に乗艦してからの話では、8人部屋で、3段ベッドが2つと2段ベッドが1つで、2段ベッドは1段が物入になっていたようです。
食事に関しては、兵員用の食堂はあったものの、水上機の搭乗員は部屋で食べていたそうです。

実際に偵察に出るときの話では、カタパルトから出たあとは、少し海面と並行に這うように飛ぶようにするのが良くて、怖がって上にあげると海面に落ちるそうな。ちなみに、カタパルトから水上機で出ると危険手当として1回につき6円支給があって、ポンと出ると6円貰えるから「ポンロク」という言われ方もしていたそうです。…が、その簡単そうな名前に反して慣れるまでが大変だったそうで、火薬で急加速されるものだから、自分の体や身の回りの物を体全てを使って動かないよう押さえつけ、しっかり前を向いていないと危険だったと。慣れてくると、甲板で見送りに出ている人の顔を見る余裕もできるということでした。そしてその6円で、任務が終わって帰ってきた折に気晴らしに出かけるのだとも。

実際の戦闘で戦死者が出た場合の話も出ていて、海上での戦闘で戦死した場合は水葬で、弾や鎖などの重いものをくくって沈めたのだとか。陸上で戦死した場合(着陸した飛行機の中で死んでいた場合も含む)は火葬となって、そのあたりの葬儀の話は田中さんの本に詳しく載ってますね。

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気が付くとすっかり長くなりましたが、田中さんの海軍生活での日常的なことの一部でした。

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