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くだものをたべよう(2024年夏)

一人暮らしであることを言い訳に、スーパーでくだものを手に取るという行為に何となく気後れしてしまう。 就職して、自分で稼いだお金で生活しているのに、そのお金を消費する時、中途半端にしり込みしてしまうきらいがあるなと感じる。購入に迷ったら、なんとなく安価な方を選ぶ。同じ値段なら、より量が多い方。そんな慣習のせいで、果物がわたしの買い物カゴに入る機会は、どうにも少なくなりがちである。
こいつぁいかんな、と思った。せっかく四季と食を存分に楽しめる国に住んでいるのだ。季節の果実にくらい、惜しみなくお金を使える大人になりたい。
ということで第一歩、2024年夏の記録。



桃とチーズ

5セットで買うと1つ50円弱になるチーズを、その10倍強する金銭を払って購入した桃と共に食らう、なんと幸せなことかや。

写真に撮ってみると、より現実味が薄れてくる。これ食ったんか?私は。

やっすいプロセスチーズの何のひねりもない塩味と、桃の自然な甘みのコラボレーション。うま~。知ってた~。

桃を食べたしばらく後、「水切りヨーグルト+紅茶を桃に添えてもうまい」という情報も私の耳(TwitterのTL)に届いた。続報については来年のお楽しみにとっておこうかな、と思う。一年先を生きる楽しみってこうやって作るんだなあ。


カットスイカ

透明パック入りのカットスイカを買った。
スイカを見ると、思い出すことがひとつ。

ある夫妻の食卓。その日のデザートはスイカ。妻は、夫用のスイカをカットし、種を取り除いて夫に差し出す。ぼんやりと記憶にある情景だが、出所が思い出せない。今のところ「あたし〇ち」の可能性が四割。

とにかく、「『誰かのためにスイカの種を取り除く』という行為は、この上ない愛情表現である」という考えが、私にはあった。時流に即さない考えかもな、とも思う。それでも、幼い私は夫妻の情景を美しいものだと認識して、大人になった私はまだ、その美しさを否定したくない。いつか私の考えが変わるまでは、これで良しとしていたい。

せっかくなので、私は私のために、スイカの種を取り除いてみることにした。愛情表現は、必ずしも夫婦間だけのものではない。今日は存分に自分を甘やかしてあげよう。
私は意気揚々と黄色のピックを使って、すべてのスイカの種を丁寧によけて、ガラスの器に移し替えた。


愛情表現の極限であると思っていたもの

あれっなんか、グロくない……?

種ありの状態に比べ、絶妙に食欲がそそられない。種の黒は、スイカを美味しそうに見せるために大変有用な差し色であったんだな、と痛感した。あと、表面がぼろぼろでかわいそう。かわいいフルーツをこんな状態にする奴はちょっと人の心がないと思う。利便性を追求しすぎた愚かな人類の末路というのはこういう景色なんだろうか。私が愛の塊だと思っていたもの、ディストピア飯だった……ってコト……?

(もしかしたら、「種を除く」という工程が、私に種無しスイカのグロテスクさをより強く印象付けたのかもしれない。ご経験がある方はわかると思うが、種無しスイカの"取り除かれたほう"というのはだいぶ、汁とか破片とか出て、惨い)

行き過ぎた愛情って、やっぱりよくないものなのかもしれない。なんにせよ、スイカはとても甘くておいしかった。そして滅茶苦茶食べやすかった。結果オーライである。


「まだ十二分に暑いから」とちんたら書いていたら、9月も半ばになってしまった。まだ残暑ということで、夏の話題も滑り込みセーフでありましょう。

それでは秋を過ごす私も、楽しく果物を食べていますように!

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