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人生は究極の思い込みで成り立っていた話

人生では様々な出来事が日々起こっている。

そしてその出来事は、ポジティブである可能性、ネガティブである可能性の両方がある。

しかし次に起こり得る出来事が、良いことか?それとも悪いことか?なんて予想不可能であり、もちろん選択することもできない。

仕事で失敗するようことがあれば落ち込むし、反対にプライベートが上手くいけば舞い上がる。

日々の出来事に一喜一憂しながら、毎日を生きることになる。

しかしネガティブな出来事しか起こらなかったらどう感じるだろうか?

仕事が辛くても休日になれば趣味に没頭したり、恋人と会ったりと気分を上昇させるチャンスがある。

もしもそのチャンスが無かったら?

連勤の仕事を乗り越えても、休日も仕事が待っている。もはや休日ではない。

水曜の夜に「後2日仕事したら、週末だ!」なんて自分を奮い立たせなくなるのだ。

心身を回復させ、上昇させるチャンスが巡ってこないことほど恐ろしいことはない。

「明けない夜はない」は大嘘疑惑

「明けない夜はない」なんて言い回しがある。

その言葉は大嘘だと思うような体験をしたことがある。

20代半ばで、自立心も自我もなかった私は「痛い目」を見たのだ。

結婚生活で洗脳騒動を巻き起こし、弁護士に依頼しても解決せず離婚調停にまで発展した。

戸籍上ようやく離婚が成立して落ち着いたのもつかの間、祖父母のがんが発覚し自宅で介護生活が始まった。祖母の最期を自宅で看取った後すぐ親族間の相続争いに巻き込まれた。

この期間おおよそ2年半だった。

当時の私は自分が結婚に失敗したから、洗脳され調停まですることになり、それにより親族に迷惑をかけたから、その影響で祖父母がガンになり祖母を亡くし遺産相続争いが勃発した。

というように全ての出来事を繋げて考えていた。

これら全ての出来事は、一連のネガティブな出来事として一括りにし、「私の夜は一生明けることがないのだ。」と思い込んだ。明けない夜がないなんて誰が言ったのか恨めしくなった程に。

しかし、結局のところ全ては思い込みだった。

全ての出来事は一連の繋がりのある出来事では決してなかった。

生から死までの私の人生を上から見たとき、全ての出来事に関連性がないことは明白だと思う。

全てはただの人生においての"出来事"だ。ポジティブに解釈するのもネガティブに捉えるのも自分の心次第なのだ。

もしそれでも繋がりのある負の連鎖だと主張しなければならないとしたら、ネガティブに生きていたらネガティブな物が寄ってきたということだと思う。

下を向いて歩いていたら電柱に頭をぶつけるのと同じだ。そうなると不思議と人間はカルマだの、祟りだのと思い込む。

電柱に頭をぶつける前に下を向いて歩いていたが故に、小銭を拾っていたことなど都合よく忘れ去るのだ。

明ける明けないは別として"夜"という言葉自体の存在が怪しくなってこないだろうか。

そもそも誰が"夜"だと決めたのか。

夜だとネガティブにならなければならないのか。恋人と過ごす甘い夜のようにポジティブな夜だっていくらでも存在するのに。

全ては想い込み

人生で起こった出来事に対し、それが良いものなのか悪いものなのかは自分自身で決めることができるように思う。

例えば、踏切が10分以上開かないとする。
・あなたが行先を急いでいる時は、焦り、イライラするでしょう。
・反対に時間に余裕がある時は、何も感じないかラジオや音楽を楽しむ余裕さえ生まれるかもしれない。
・そして、そんなあなたを横目に熱心に電車の写真を撮る人も現れるかもしれない。

たった1つの出来事でも、どう感じるかは気分や状況に大きく左右される。

そして人によってもその出来事の捉え方は大きく異なる。

どんな出来事も、どう捉えるかどうかは自由。

踏切で10分以上立ち往生したからって、必ずしもイライラしなければならないわけではない。喜んだって、楽しんだって、なんだって良いのだ。

後からでも、ポジティブな出来事に変えられる

この考えを私自身の体験に当てはめた時、私は随分と楽になった。

一連の出来事の元凶と考えていた離婚自体をネガティブなものと捉えていた私は、そもそも何故ネガティブな物として捉えていたのだろう。

離婚後は回復までに時間は要したものの、以前より確実に笑顔や自由が増えた。そして息子にも以前より多くの笑顔を向けられている。

それのどこがネガティブなものだったのだろう。

さらには離婚調停を経験したことで、公平な条件で離婚を成立させることが可能になった。将来的な養育費の未払いの可能性が減り、息子の学費の心配も消えた。

さらにさらには、離婚後一時的に実家に出戻ったことで祖父母の介護を手伝うことが物理的に可能になり、大好きな祖母の最期を看取ることができたのだ。

もし結婚生活を続けていたら介護どころか祖母の最期には間に合わなかったであろう。

相続争いに関しても、祖母の死を悲しんでいた母と祖父が、まさかの人物からの争いを起こされて、泣きっ面に蜂のような状態だっところを私がメンタルフォローに入れたり、手続きや情報収集を手伝うことができた。

愛する家族の窮地に少しだけ力を貸すことができた。

そして一連の出来事の結末は、介護の感謝として祖父から多すぎるお小遣いを受け取り、その資金をもとに息子と2人で心機一転好きな街に引っ越すことができた。

あまりにもポジティブな出来事の連鎖ではないだろうか。

離婚をしたことで愛する家族の窮地に駆け付けることができ、最終的には自分にとって理想的な住環境を手に入れた。

一連の出来事から1年経った今、ようやくすべてをポジティブなものと意味づけることができた。

後からでも、過去をいくらでもポジティブな出来事の連鎖に塗り替えられる。

良いも悪いもない人生

どんな出来事も自分の意味付け次第では、良い出来事にも悪い出来事にもすることができる。

ポジティブにもネガティブにも、どちらに意味付けしても問題ないし間違いはない。

しかしポジティブに意味付けした後は、その後の行動もきっとポジティブになるに違いない。

一連の出来事を負の連鎖として捉えていた私は、"自分が動くことさえ"に恐怖を覚え、未来に向けて意欲的に行動をすることができなかった。

しかしポジティブな出来事だと認識し直したことで、今は未来に向けて意欲的に行動できている。

ポジティブな出来事は、人の心をポジティブにし、その人の行動までもがポジティブなものになる。

「明けない夜」は確かに存在していた

「明けない夜」は確かにあった。当時の自分の中に確かに存在していた。

何故ならそう思い込んでいたからだ。

しかし結局は全部が想い込みで、どう思い込むかでどうにでもなる。

全部私自身が実際に体感したからこそ、心からそう思える。

どうにもならない事なんて人生には存在しない。思い通りにならないからって、失敗したからって、命が奪われるわけではない。

そもそも、それは本当に失敗なのだろうか。

「明けない夜」に住み続けるのかどうかは自分で決めることができる。

そもそもそこに、本当に「夜」があったのならば。

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