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やりたいことがわかっているって大切

52歳で脳出血で倒れて3か月の入院生活を送った。一番の気づきは健康の大切さなんかじゃなくて、何でもおいしく食べられることって大切ということだった。入院生活の数少ない楽しみなんだから、食事のたびに不満が噴き出していては、毎日が惨めになるばかり。

次の問題は退屈。いくら毎日リハビリ訓練があると言っても、病気自体は落ちついているので、身体が麻痺しているつらさはあっても、暇な時間が圧倒的に多い。パソコンを持ち込みたいと交渉したのだが、不可。DVDプレーヤーも不可。高齢者が主な病棟だから若い50代の患者の要求に困惑したらしいのはわかった。携帯電話なら良いというので、ガラケーをスマホにした。そして、洋書を読むのでと言う理由でキンドルを無理矢理持ち込み、この1代目はバッテリーがいかれてしまい、病室から2代目を注文購入したのだった。

退院してからいろいろあって、医療分野と関わることが多くなって「QOL」という言葉を知った。

クオリティーオブライフ。人生の生活の質。

治る病気が増えてきて、逆に医療のお世話になる病気は治らないものが多くなってきている。そうして、治る、元のようにすっかり元気になることじゃなくて、患者のQOLをあげるのを目標にするのが現実的でしょうということになってきている。私の入院生活でいえば、スマホを使える、キンドルが使えることでQOLが高くなったわけだ。

ガンのような厄介な病気でも、痛みがない状態で予想よりも長く生きていられたらと言うあたりが目標になっている。

すっかり直して病気の不安のない人生を送りたいと願ってしまう人にとっては不満な考え方だろうと思う。だが、好き嫌いがなければ、1日3回の病院食を楽しみに生きていくことが出来るように、「私はこれがやりたいので、これができるようになりたい」と具体的に告げることができる人にとってはありがたい考え方 じゃないだろうか。

病気になるとどうしても気が弱る。「してほしいことは?」と聞かれれば、まず周囲に優しく看護して欲しい、お医者さんに病気を治して欲しいとまわりへの要求が心に沸いてくる。 もっと主体的に自分の意思を持ってと言われると、「病気に勝つぞ」「健康を取り戻すぞ」とまずそういうところへ目が向く。だけど、今朝の新聞に載っていたここへ行ってみたい、この本を読みたい、退院してうちの犬と散歩したい、あの店のハンバーグが食べたい。そういうやりたいことがたくさんあれば、幾つかは叶えることが出来るだろうし、本人も周囲もずっと幸せになれそうな気がする。

日常的には、具体的な「これをやったら自分は幸せになれる」というものはなくても生きていけるし、「平凡が幸せ」とか「家族が元気でいれば幸せ」と、ほわんとした抽象的な考えを持っていれば良いということになりがちだろう。具体的な願いは子どもっぽいようにも感じられるし、欲として生々しすぎるようにも思えてしまう。

だけど、どう叶えて良いかわからないような抽象的な願いは現実では役に立ちにくい。こうしたら私のQOLは上がるということは常々考えていた方が、自分も周囲も幸せに生きられるのは間違いなさそうだ。


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