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"情報" とは何か、って考えたことありますか?

正直なところ、わたしはありませんでした。

授業では絶対に取りあげられているけど、じぶんのことばで考えて飲みこんで、吐き出せる状態したことがない。
だから考えてみようとおもったんです。


なぜ今日、こんなテーマになったかというと。

水野学さんの「アウトプットのスイッチ」という本を読んで、生物学者の福岡伸一さんとの対談がものすごく印象に残ったから。



まずは、印象的だった内容を抜粋してまとめてみる。

 "情報" は動的なもの。

あるものが急に消えるから、反応できる "情報" になる
もしくは急に現れるから情報になる。


ずっと同じにおいを嗅いでいるとにおいを感じなくなるのはそういうことで、同じ強度で同じシグナルを受けていると、それは "情報" として機能しなくなっている。

インターネットに載っているものは "情報" ではなく、あくまでアーカイブ。

(参考:水野学著「アウトプットのスイッチ」 生物学者・福岡伸一氏との対談)

刺激として知覚するには距離が近くなければいけない?

上の内容を見て考えたことはこう。


「定義はわかった。でも、あるものが急に消える、もしくは、急に現れたものを "情報" として知覚するには、距離も関係するのでは?」


・近くの信号で停まっていた車が走り出したり
・カラスが急に目の前に降りてきたら

明確な刺激として受け取ることができる。


でも同じ動きで、500m以上離れていたら?近くの刺激にかき消されてしまったり、そもそも姿が見えなかったり、刺激としては受け取ることができない。


さらにいうと心理的な距離も。

物理的に近い存在の人はかなり少ないはずなのに、志村けんさんの死は世間に大きな影響を与えている。多くの人が "志村さんと心理的な距離" が近かったらだといえる。



じぶんに向けられた "情報" は、だれかの "情報" とは異なる


要するに、じぶんにとって実質的な "情報" は、物理的・もしくは心理的な距離が近いところで起こる、動的な刺激 と考えていいのかな?

そうなると、これまで "情報" としてとらえて、やや振り回されてきた 情報(仮)が、いくらか削ぎ取れるような気がする。ただただ、アーカイブの山を突きつけられて、その処理に疲れていたのかもしれない。


手が届く範囲しか知らず、広い世界のことを何も知らない、というのはまた別の話で。

物理的に距離の遠いできごとは、じぶんが近づくための工夫をしてから刺激を受ければ、きっと "情報" として取り込めるんだな、と考えている。


----じぶんのなかの、"情報"定義、おしまい----


ちなみに、生物学的観点からの刺激・情報処理については生物1の学習内容だったようです。いちおう生物1は履修しているんだけどな。 

こういうとき、学生時代の授業資料やノートの大部分を処分したことをものすごく後悔します。いまの学生さん、特に大学生は、ぜひ捨てないでおいてね。

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