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「産後1ヶ月」が下書き保存されたまま11ヶ月が過ぎた。

「産後1ヶ月」
仮タイトルで書いたまま下書きにしていた記事だ。
見直すと、当時はまだそれもかわいいもんだったよなぁと思う。
この後さらに暗黒期に突入し、今年の春頃までハードモードな年子育児と逃げ場のない家庭環境、家族関係に疲れ果て、何度も絶望して「家族でいること」を諦めそうになったのだけど、なんとか乗り越えての今がある。
まだまだ大変だけど、いくつかの助けを得てまだ生きている。

当時の生々しさも含めて、忘備録として置いておこうかね。


気づけば産後1ヶ月を過ぎていた。
ちょっと休憩したときにでもnoteを書こうと思っていたら、年子育児にそんな生やさしい時間はなかった皆無。休憩なんて時間はとれないし、とれたら体を休めたいし横になったらすぐ意識を失うし、夜中ミルクをやりながらコックリして哺乳瓶を落とすこともしばしば。

ただ、この1ヶ月、新生児のお世話が大変だと思ったことはなかった。
とにかくかわいいしかない。
3時間ごとに泣く以外は基本的に寝ているし、泣く声も弱々しく、抱っこしても空気のように軽い。いわゆる「魔の三週目」も気づかぬまま通り過ぎた。

楽に思えたのは、二人目という余裕に加えて1歳3ヶ月になる娘の大変さの反動なのかもしれない。娘は大変だった。いや現在進行形で大変だ。

1歳を過ぎて自我の芽生えが顕著な娘は、とにかく癇癪が凄まじい。
言葉で気持ちをうまく伝えられないストレスを泣くという行為で表現するしかないのだけど、ほんのささいなことでスイッチが入り、30分でも1時間でも泣き叫ぶ。一度火がつくとなかなか治まらず、おもちゃやお気に入りの動画、抱っこで気を逸らすのだが、基本的には嵐が過ぎ去るのをじっと耐えて待つしかない。特に食事中にスイッチが入るとスプーンやお皿を投げ捨て、机を叩き、わざと食べものを吐き出したりして戦場そのもの。
土日は娘と接する時間も長いので癇癪の頻度も高く、心身をゴリゴリ削られる。とはいえ「イヤイヤ期」の言葉通り、癇癪は発達段階によく見られることで娘の場合も気質や個性の範囲内。110dbの大絶叫や金切り声を耳元で浴びても「まぁそんなもんか、いつか終わるし」と受け流せた、私は。
一方、夫は制御不能の娘に「育児の9割が苦痛」と顔を歪めるほどセルフコントロールを失い、娘や私に剥き出しの怒りや苛立ちをぶつけ荒ぶっていた。どんなに嫌でも逃げ出すことのできない日常と、制御できない負の感情、夫自身も蓋をしていた過去に向き合わされる辛い日々だったと思う。

問題は、娘の癇癪に拒否反応を示す夫に代わり、そんな娘の癇癪につきあい、産褥期もまともに休めないことだった。娘が癇癪を起こせば夫に耳栓をしてもらい、夫から離して私が相手をする。新生児の面倒をみながら10kgを越える娘を抱っこして公園を歩き回った日はさすがに疲れたが、歩き始めた娘を閉じ込めず、広い場所で自由に歩かせてやりたかった。

そんな無理がたたって悪露が急増。
生理用ナプキンでは足りない量の鮮血の出血が続く。生理痛のような鈍痛と、出血量が気がかりなので病院に問い合わせよう。

産後は体を休めるように口酸っぱく言われても、手のかかる上の子の世話があり、気軽に親族の助けを得られない環境であれば、休めないよね世のお母さんは。娘をレスパイト入院ならぬショートステイに預けることも考えたけど、病気でもない両親が揃っているのに乳児院に預けることに心理的抵抗感もあって実行できなかった。

でも何も対処しなかったわけじゃない。
二人目妊娠中から家庭崩壊の危機に面していたので、少しでもサポートを増やそうと体制構築をしていた。娘の対応については保育園に相談して土曜保育や24時間対応のベビーシッターと契約。家事については自治体の支援事業のヘルパーさんに週1できてもらい、日々の食事はミールキットの活用。毎日ぎゅうぎゅう追い込まれる心身のケアは自治体の保健師や臨床心理士、ペアレントメンターと、あらゆる第三者にSOSを出して、家庭に不足している余裕を、人手を、セーフティネットを揃えてきた。

出産の痛みに耐え、産後も痔と戦い、さらにこんな延長線。
40代の苦難、人生。でもまだ生きている。


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