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『Misty ~ジャズ研 恋物語~ 9』

 学祭前は、いつにも増して気ぜわしい。部長の仕事は学祭運営側や学生課との折衝もそうだし、借りたい資材のピックアップもある。ある程度覚悟して先代の部長であるベースの吾郎さんから引き受けた部長職だが、なかなかどうして思い通りには上手くいかないもんだ。
 「お疲れさまです。桜子さん、飲みますか?」
 部室のローテーブルを前にして、ひとりうなだれていたあたしのところに、部室のドアが開く。オリーブドラブの薄手のコートを羽織った優斗が土産つきでやって来た。優斗はあたしにホットの緑茶を渡してくれた。
 「ありがと」と言うと、遠慮なくボトルの栓を開ける。
 「部長の仕事ってそんなに大変なんですか?」
 優斗がテーブルの上に散らかした書類を見て、心配そうに瞳を見つめてくる。
 「学生課とかへの届け出の書類が多いんだ。参っちゃうよ」あたしは力なく笑った。
 「俺、手伝いましょうか?」と優斗。あたしは意外な展開に驚いた。
 「…いいのか?」
 「はい、書類相手の仕事は苦じゃないです。これでも一応文学部なので」優斗がテーブルに座りなおすと、散らばった書類をまとめはじめて、パラパラとめくっていく。こいつ、こんなに頼れる奴だったっけ?
 「ねえ桜子さん、なんか音楽かけましょう。その方が効率いいかも」と優斗。テーブルから少し離れたコンポをいじると、すぐに曲が流れ始める。『Misty』だった。
 「好きなんですよね、この曲」と優斗。
 優斗はペンを取り出すと、かたっぱしから書類を書き始めた。大丈夫か?
 ミスティの穏やかなメロディーラインとは対照的に、優斗のペンはサラサラと走る。あたしはもらったお茶とセブンスターで一服しながら、その様子を見ていた。
 「レンタル資材関係は去年と同じぐらいでいいですか?」
 「お、おう」
 「C年だった時に舞台設営してましたから、ある程度覚えてます。テーブルと暗幕は少し多めに申請しときますね」書類から目を離さず、優斗が言う。あたしはその様子をふむふむと見ていた。
 たぶん、こいつこんな感じで仕事も出来るんだろうな。バイトしているとは聞いてないけど、大したものだ。書類が苦手なあたしなんかより、よっぽど実務に長けている。コンポから流れるミスティを聴きながら、あたしはカーペットに力なく横になった。漂うタバコの煙の向こうに、てきぱきと書類を片付けていく優斗の真面目な横顔をぼんやりと眺めながら、改めて優斗が彼氏なんだと思った。
 「はい、桜子さん。こっちが学生課で、こっちが学祭の運営に提出するぶんです」
 「お、すまねえな。ガチで助かるわ」
 カーペットに寝そべった身体を起こして、吸い終えたタバコを灰皿に押し当てる。優斗はペンをしまうと、いつものタバコを取り出して火を付けた。
 「どうしてそこまでしてくれるんだ?」あたしの問いに、優斗が煙を吐きながら笑う。
 「そりゃあこれでも彼氏ですから。桜子さん困ってるの、放っておけないでしょ?」さも当然のように言う。どうしてこう、優斗はいつも真っ直ぐなんだろう。頭の中で、ミスティの歌詞が思い起こされた。またひとつ、あたしの彼への恋にスイッチが入ったらしい。
 「優斗はミスティの歌詞って知ってるか?」「いや、知らないですけど」
 「今度調べてみな。今のあたしの気持ちによく似てる」あたしはニヤリとして優斗を見た。
 彼は不思議そうな顔をしたまま、興味あるのかないのか分からない横顔でタバコをふかした。

 そのとき、部室のドアが開いた。玲奈をはじめ、数名の部員がぞろぞろ楽器片手に入ってきた。
 「あ、先輩。デートのお邪魔でしたか?」と玲奈がいたずらっぽく笑う。この子はもう。一緒に入ってきた佐竹も大谷も倉持も、生温かい目でこちらを見て微笑んでいた。こいつらは今回の菊田組のメンバーだったな。
 夏合宿から2か月。知らない間に、あたしと優斗の関係は部内で公然の仲として知れ渡ってしまったらしい。まぁいずれバレることとは覚悟をしているから、いいのだが。吾郎さんには「お似合いお似合い」と笑われ、遠山には「いいと思うぜ、篠崎。いいオトコだし」といじられたのは優斗には黙っておこうと心に決めている。
 「そういう艶っぽいんじゃないよ。篠崎に学祭用の提出書類作ってもらってたんだ」あたしはヒラヒラと手を振ると、「な?」と優斗に笑いかける。
 「デートだったらどれだけ良かったか。でも今日は部長の手伝い」またそういう余計なことを…優斗のアホ。バカ。
 優斗をはじめみんなの生温かい視線に耐えきれなくなって、あたしはぷいと横を向いた。
 「さてと、片付いたことだしゲームでもすっか。マリオカート、掛かってくるやつはいるか?」あたしの言葉に、「じゃあ俺行きます」とベースの佐竹。早速靴を脱いで部室のカーペットの上に入り込んできた。
 ふふん、ぐうの音も出ないくらい、ギッタギタの返り討ちにしてやるわ。
 あたしはテレビとスーファミの電源を入れた。佐竹が2コントローラーに手を伸ばす。いざ勝負!

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