心身の乖離

人には、各々の性格や雰囲気など多元本位的に計り、それぞれに見合ったものがあることは自明であろう。


短足の者にバギーパンツは見合わない
デブにピチピチファッションは見合わない
ハナタレ小僧がめちゃくちゃスラスラ問題を解いていると違和感を感じまくる...
キレ症の人間が毎日花を愛でている…


おっと、ただの悪口を言っているみたいだ。


要するに、違和感を感じない身なり、振る舞いが各々に存在するということを言いたい。


他人に関しては自分の価値観や偏見に則して、その人に見合っている見合わないを評価できるが、

自分の持つ身体的特徴や性格に対しても違和感を覚えることがあるのは私だけであろうか。


つまり、「“こんな自分”であるのに、“こんな事ができる”あるいは“こんな事ができない”点で見合っていないな」といったことである。


実際に例を挙げると、
「そんな可愛い顔してんのに、怒っちゃって」とか
「意外に酒飲みなんやな」とか
「そんな感じでお腹出てるんや」とか...…笑


自分では自分のことがわかっているから、自分に相応な行動をとったり、身なり、考えを持ったりしてるつもり。

でも上記のような感じで指摘されると、「へぇ、そう見られてるなら、俺はこうあらねばならないな…」となる。


これは恐らく、私が自分の希望ひとつで生きているのではなく、他人のイメージに沿った生き方をしているからだと気づく。

他人の評価に応えねばならないというある種の異常な価値観を育くんでしまったのである。


こうして改めて文字で綴ってみると、いかに変な生き方をしてきたか自分でも反吐がでる。自分らしく生きれていないのだ。(いや、長年こういう生き方をしてきてしまったから、むしろこっちの方が自分らしいのか?)


他者からの評価に応えるべくして成りあがった私の表層的な身なり振舞いを100%削いでいくと、

グータラで、惰性的に享楽に興じていればそれでいい本来の私が剥き出しになる。



本当はファッションなんて最低限で良いと思っているし、ある程度目立つ、目を魅く、お洒落なものを身に着けないと自分のセンスという部分で評価は下がるかもしれないし、「それ可愛いね」とかのコミュニケーションが生まれなくなり、自分のを伝える機会を損失するのを恐れるがために気をつけているだけだ。即ち“自分”とファッションに興味を持つことは見合っていない。


自分が食べたい者を好きなだけ食べてその結果太ったって本望であるなら良いはずなのに、自分の身体管理もできない人間なんてって思われるのが嫌でひたすら体型維持に筋トレやダイエットに勤しむだけだ。即ち“自分”と身体のスタイルが見合っていない。


なんなら、「なんでも出来なければならない、すごいと思われる自分であらねば他人のイメージに反する」といって作り上げた気持ち悪い妄想に沿って何事も頑張っているだけである。(冷静になって考えてみると「すごいと思われる自分」とはなんて自意識過剰なんだろう)“自分”と能力が見合っていない。


そもそもこの地味で気持ち悪い性根を持つ内面に、どうしてこんな爽やかそうな外見を私に持たせたのかも自分にとってはとても違和感である(自分で言うな)即ち“自分”と自分の外見が見合っていない。



自我(内面)とは離れたところで、いろんな能力や身体的特徴、行動グセ(外面)が身についてしまったのである。


中身(内面)と容器(外面)が合っていない使い古されたお菓子の缶のように。




人間、社会性を帯びた生き物であり、誰かしらと協調せざるを得なく、うまいことをしないと自分が楽に生けないという世界だ。


人からのイメージや期待に添えないといつ見放されるかわからない、そういった不安が異色の価値観を生み出し、イメージ(ただの自分の妄想に過ぎない)に沿う“何者か”になりきり、そうすることが社会・他者とつながる一縷の望みと思い込んでしまうようになったのだろう。


それ故いつも“何者かわからない誰かを演じて生きている”のである。



しかし、もし仮に私と同じような考え方で生きてきた人は是非とも思い直していただきたい。


本当の自分で生きられないことの方がどれだけ窮屈か

自分から離れた状態でずっと生きてるとそら潰れますぞ。




さて、こんな心情で明日から職場復帰できるのであろうか(泣)


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