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マルチリンガルの国で思うこと。


外国語を学ぶということは、ただ単に、話せる言語が増える、それだけのことなのだろうか?

わたしは、そうは思わない。外国語を学ぶということは、その新たな言語を通して、自分の中の概念の引き出しを増やす、ということだと思う。そしてその概念の引き出しを増やすということは、見える世界がずっと広がるというか、世界の真の姿に少し近づく感じ、というか…。うーん、うまく説明できない。

例えば目の前に林檎が一つ置いてあって、それを何かしらの形で表現してくださいと言われたとする。写真という媒体手段だったら、シャッターを押せばありのままの姿が切り取れる。しかし言葉だったら、赤いとか、丸いとか、どんなに言葉を選んでも100パーセントありのままを伝えることはできないと思うのだ。でも外国語には、日本語にはない形容詞や色を表す単語が存在するかもしれなくて、日本語で75%表現できていた林檎が、他の言語だったら85%表現できるかもしれない。逆に日本語を使えば、外国語で80%しか表せないものが90%表せるようになるかもしれない。(感情表現に関しては、日本語は本当にどの言語もよりも豊かなのではないかと思う。例えば、「切ない」という気持ちをそのまま表す英単語は存在しない。)

使える言語が増えるということは、そうやって世界をなるべく正確に切り取る手段を手にいれるということ、そして、そのぶん世界の見え方が多様になるということだと思うのだ

中学生で初めて英語を本格的に学んだわたしは、その「世界の新しい見え方」にすっかり魅了されてしまった。そのままその愛を引きずって、フランス語というさらに難解な言語にも手を出して、その熱に浮かされてスイスまではるばる来てしまった次第である。

わたしが現在生活しているスイスは多言語国家であり、公用語はなんと四つ(ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語)ある。それに加えて英語は半公用語みたいなポジションで、大体の人がある程度は話せる。だからいまわたしの周りには、マルチリンガルがごろごろいる。ていうかマルチリンガルしかいない。バイリンガル、トリリンガルなんてザラで、5ヶ国語話せる友達も数人いれば、10ヶ国語(!)話せるツワモノにも出会ったことがある。そしてそれぞれマルチリンガル度合いが異なったりするので、関わっていてとても面白い。

そんなマルチリンガルな友達が、時々、伝えたい内容によって言語を使い分けていたり、ある単語をその概念に近づけて話すためにそこだけ外国語の単語を使って話していたり、感情を咄嗟に表現するのに異なる言語が出てきたりするのを見ると、あぁこの人はわたしよりずっと広い世界が、まったく違う風に見えているんだろうなぁと、憧れと羨望と嫉妬の混ざった気持ちを抱きながら、いつも唇を噛んでしまう。わたしも早く英語もフランス語もペラペラになりたい。(ほんとはもっと言語齧りたいけど、キャパオーバーなので諦めました。)

ここでわたしが、英語の表現に感極まったエピソードを一つ話そう。中学三年生のときに、家族で映画 "Les Miserables"を観に行った。そこでわたしは、途中でエポニーヌというキャラの歌う"On my own"という曲の歌詞によって、世界がひっくり返るような衝撃を受けることとなるのだ。

"On my own, pretending he's beside me"

これが、その"On my own"の冒頭である。この歌詞を聴いて、本当に驚いた。ただ教科書の上に並ぶ無機質な文字が、意味を持ってわたしの上に降ってきた瞬間だった。授業で教わったpretendは、pretend to do=「〜のふりをする」という意味でしかなくて、載っている例文といえば、He pretends to sleep. =彼は寝たふりをしている、と言ったような、単純な日常生活の描写ばかりだったからだ。しかしここで使われているpretendは、もっと痛々しい、彼が自分のそばにいないことも、自分の想いが報われることがないこともわかっているのに必死に誤魔化しているような、切実な響きを含んでいる。

もちろん、「彼がそばにいると思い込む」とか、近いニュアンスで翻訳をすることは可能だが、それでもやはり、"pretend"の持つ悲痛さには敵わないような気がしてしまう。翻訳というのは、100%同じものを表せるわけではないのだ。それがまた、私がなるべく原書で小説を読みたいと思う理由だったりする。作者の心の中にあったイメージをそのまま脳内で一番近い形で再生するには、その作者の母語で読むのが一番効果的だと思うのだ。

(余談だが、ちょうどこの時期担任だった英語のK先生に面談で、「英語のセンスがある」と言ってもらえて、その言葉は今でもわたしの心の支えとなっている。それ以来、多少英語でつまずいても「わたしにはセンスがあるらしいから大丈夫」と自分を信じて乗り越えることができた。K先生元気かなー、間違いなく元気だろうなー、会いたいなー。)

もうひとつ、今度は英語を通して、曖昧な感情がはっきり見えた話をしよう。

"anxious"という形容詞があるのだが、少しめんどくさいやつで、anxious about〜=〜を不安に思う、なのに、anxious for〜=〜を切望する、という意味になるのだ。ただ覚えればいいだけなのだけれど、高校生のわたしは、どうして前置詞だけでこんなに意味が変わってしまうのか、なんとなく腑に落ちないでいた。するとある日、先生が授業でこう言ったのだ。

「anxiousって、前置詞によってまったく意味が変わるみたいに思うでしょ?でもね、これは実はひとつの同じ気持ちを表す形容詞なのよ」

同じひとつの気持ち?さっぱりわからなかったわたしは、ただただ首を傾げていた。すると、先生が微笑みながらこう続けたのだ。

「anxious aboutもanxious forも、好きな人を前にした気持ちなのよ」

なるほど。なるほど!確かに好きな人の前では、相手の気持ちが見えない不安や、嫌われたらどうしようという不安でいっぱいになってしまうし、それと同時に自分のことを好きになってほしい、この人とずっと一緒にいたい、そういう切ない願いが胸を満たす。まさしくanxiousだ。ていうかそれをさらっと言えちゃう先生が超可愛い、素敵…。

これもまた、無機質な文字が意味を持ってわたしの上に降って来た瞬間だった。ちなみにこれ以来、anxiousは好きな形容詞ランキング暫定一位である、脳内お花畑なので(てへぺろ)。


最後に、わたしは、何ヶ国語も流暢に操ることはできないし、英語だけでもヒィヒィ言っているような日本人だけれども、それでも後天的に外国語を学んだからこそ、こういう些細な発見に感激して、外国語に魅了されて、こうして留学という選択をしたのだと思う。そう思うと、日本に生まれたのも悪くないかもな、と少しは思えてくるのだった。しかしそうは言っても今は留学中の身、周りにいるマルチリンガルな友人たちに追いつけ追い越せで、積極的に言語を話し、帰るまでにできるところまで伸ばしていきたいところだ。

(ちなみに最後にまた余談だが、わたしの英語力の個人的な目標は、子供が生まれたときにバイリンガル教育を施せるくらいまで、というものだ。笑 日本語以外にも世界を表す手段はたくさんあるんだよ、という感覚を、自然と身につけて行って欲しいと思うのである。)

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