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お酒の飲めないわたしが伝えたいこと

突然ですが、わたしは下戸です。本当にお酒が飲めません。

どれくらい飲めないかというと、ほろよいをジンジャーエールで薄めた飲み物紙コップ一杯分を飲んで、吐いてしまったことがあるくらいです。たまに調子の良い日は弱めのビール一杯くらいなら飲めるけれど、すぐに意識は朦朧として頭が痛くなってきて、最悪の場合吐いてしまいます。吐かないで済む場合、お水をお酒の倍くらい飲んで何度もトイレに行って、なんとか意識を保っている有様です。

そしてそんな飲めないわたしがいつもいつも思うのは、「飲めない」ということは圧倒的に社会的弱者でマイノリティなのだな、ということです。しかも、かなり身近なのに、一番存在を見過ごされやすいタイプのマイノリティ。


そんな下戸の一人であるわたしが、「飲める」マジョリティの皆さんに伝えたいことを書いていくので、長いですが最後まで読んでいただけると嬉しいです。

衝撃的な下戸の割合

そもそも、下戸っていったい世界に何%くらいいるのでしょうか?

たまたま見つけたこのサイトによると、お酒の飲めない人の割合は、日本人の6〜7%で、しかもこれは黄色人種にしか存在しない特徴。全ての黄色人種においてだいたいそれくらいの割合で下戸が存在していると仮定して、黄色人種は全世界の25% を占めると言われていることを踏まえて計算すると、

0.25×0.06=0.015

全人口のたったの1.5%しか、「飲めない」人は存在していないわけです。なんかもう笑っちゃうくらい少ない割合。一般的にマイナーと見なされる、左利きやAB型の人の割合なんかより、遥かに少ない数字です。わたし自身もこの計算結果にびっくりしています。


「飲めない」人が思うこと

これは多分「飲めない」人ならわかってくれると思うのですが、まず「飲み会」という存在が恐怖でしかありません。だって飲めないんだもの。

一人一杯ずつ頼むお店ならまだ自由に頼めるから良いものの(「ジンジャーエールひとつ」と言ったときの「えー?笑」みたいな周囲の反応は若干嫌ですが、まだ我慢できる部類)、一番嫌なのが、テーブルにピッチャーでお酒が回って来る場合。

この場合、まず第一に圧倒的に断りづらいのです。

だって、わたしが「飲めないからちょっと…」と断ると、一人ずつお酒が注がれていく流れを完全に遮ってしまう上に(たまに「え〜ちょっとは飲みなよ〜」みたいな注ぐ人との押し問答が始まることもあって、これはこれでめんどくさい)(そもそも断る前に気づいたら注がれていることすらある)、ノンアルのピッチャーが離れたテーブルにしかなかったり、あるいはそもそも運ばれてきてなかったりする。
そうなるとテーブルの中で一人だけ空のグラスを片手に、ノンアルの飲み物の登場を待つことになります。みんなは準備できているのに、わたし一人のせいで待たせてしまっている状態。この時の気持ちは本当にたまったもんじゃありません。

(たまにこの空気に耐えられず、「やっぱ良いよお酒で!」と言って、お酒と共に氷をドバドバ入れてグラスの7割くらいを氷で埋め尽くします。溶けたら薄まってくれるので)

とにかく「なんで飲まないの?」と思われるのが、言われるのがしんどいのです。たとえそれが笑って冗談っぽく言われたものだったとしても、「あ、やっぱりわからないんだ」と相手との間に急に壁を感じて、気持ちが冷めてしまいます。そして、相手が自分の気持ちをわからない、と認識した上で事情を説明するのは、ものすごくエネルギーを使います。

私たち下戸にとっては、アルコールはたった数滴でも命を脅かす存在。それを「飲め」と言われるというのは、極端な言い方ではありますが、「死ね」と言われているのと同義なのです。

まぁ、「死ね」と言われているというのは大げさな言い方だけれど、少なくとも相手が自分のことを思いやっていないのは伝わってくる。だから、お酒を勧められると嫌な気分になってしまうのです。

積極的に飲みたがっている下戸は別に飲んでいいと思います。わたしも酔っ払いたい日はありますし、そういう日は勝手に一口飲んでベロベロになって水を飲んで寝ます。問題は、「飲みたくない」という意思を、「飲めない人がいる」という事実を、「人間はみんな酒を飲みたいに決まってる」という勝手な決めつけによって否定する、その態度にあるのではないのでしょうか。


「飲めない」に対する反応

更に嫌なのが、「飲めない」という事実を、すっと当たり前のように受け入れてくれる人、なかなかいないんです。いや、いるのだけれど、あっけらかんと「別に飲まないで良くない?」って言ってもらったことも確かにたくさんあって、そんな言葉と態度に救われてきたのだけれど、嫌な反応ばかりが記憶に残ってしまうのが現実というもの。

そしてその「嫌な反応」はだいたい三つに分類されます。

まずひとつ目は、「飲めないなんてかわいそう」とか「人生損してるよ!」といった反応。
……いや、どうしてあなたは全人類がお酒を飲んだら幸せになれると思っているの?どうして「お酒が飲めない」ってだけで勝手に不幸だと決めつけられなくちゃいけないの?と、このセリフを聞くたびに、頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされてしまいます。幸せの基準は人それぞれなのに、勝手に自分の物差しを押し付けないで欲しいですね。まったく。
私はお酒が飲めないことを不便だとは感じているけれど、不幸だと感じたことはありません。

でもこの「お酒が飲めないのはかわいそう」という発言は、おそらく「女で40歳で独身なんてかわいそう」みたいな、「女の幸せ」問題などと同じシステムのもとに生まれていて、これはお酒だけではなくて全てに通底する社会全体の意識の問題なのだと思います。再三言いますが、幸せの基準は本当に人それぞれです。

二つ目は、これは割と男の子に多いのですが、「お前ほんと飲めないよなwww(まぁ俺は飲めるけど)」みたいないじりをしてくる反応。「お酒が飲めない」という事実に気がつくや否や、急に私を下に見て、優位に立とうとしてくるような反応です。

このいじりが嫌というよりは、「チャンスを見つけた瞬間すかさず自分が上だと認識する」感じの態度に、ものすごく不快感を覚えます。相手がお酒を飲んでいる分、本性が透けて見える感じがしてしまうというか、きっとこの人は本当はいつでも私のことを下に見ているのだろうなぁ、と気がついて、虚しくなってしまいます。なんだか論点がずれてしまった。

三つ目は、これは女子に言われがちな台詞なのですが、「可愛くって良いじゃん」というもの。悪意がないのはわかっているのですが、良いわけあるかーーー!!変わってやろうか!!と叫びたくなってしまいます。

「お酒に弱い女子が可愛い」なんてのは幻想
です。本当にお酒に弱い女子は、たった一杯でほろ酔いを超えた酩酊状態になってしまいますし、なんかもう頭痛いし気持ち悪いし眠いしで「酔っちゃったー♡」「もう飲めなーい♡」なんて言って殿方に甘えたり、できません。可愛く酔える女は確実にお酒に弱くない女です。本当に。まーた論点がずれてしまった。


要は、「反応をされる」ということを通して「あぁお酒が飲めないのは圧倒的にマイノリティなのだ」と再確認してしまう、それが本当につらいのです。

「お酒飲めないんだ〜」って言っても、「そうなんだ、ノンアルメニューこれだよ〜」ってソフドリの一覧を渡されて、でも渡した張本人はワインの一覧を目を輝かせて見ている、みたいな、そういう反応が一番楽なのです。「飲めない」ということに対して、過剰に反応をしないで欲しいのです。多様性を認めるって、そういう「あらゆる存在を当たり前に受け入れる」ということなんじゃないでしょうか。


ヨーロッパにおける「飲めない」の認識

せっかく留学中なので、ヨーロッパにおける「飲めない」の認識の差についても少しお話しようと思います。

まず、予想できていたことではありますが、こちらの社会では「飲めない」という概念が通用しません。彼らにとっての「飲めない」は、多分ワイン3杯くらいで酔ってしまうことを指すのだと思います。

一回、どうしても友達の誘いを断りきれず、バーに行ったことがありました。でもそこのマスターはものすごく親切な方で、「僕の奥さんは中国人でね、アジア人が飲めないのは知ってるよ。だからすごく弱いのを作ってあげるね」と微笑んでくれて、そのときの私にはなんだか彼の笑顔が神様のように思えたのでした。

そして出てきたのは、ピンク色でお菓子の乗ったものすごく可愛らしいカクテル。るんるんとした気持ちで一口飲んだ瞬間、鼻の奥から脳にかけてガツンと、アルコール独特の刺激に殴られるような感覚に襲われました。

「あ、これ弱くない。やっぱり基準が違うんだ、一杯飲むのは無理だ」と気がついた私は、一口で飲むのをやめていたものの、現地の友人たちには「なんで飲まないの?飲みなよ」と、当たり前のように飲酒を促されてしまって、そこで飲めないことを説明できるほどの言語力もまだ無かったので、そのまま数口飲み進めてしまいました。

そしたらもう今までにないくらい頭が痛くなってしまって、身体も震えだしてしまって。これはまずい、と思った私はお酒代の16フラン(約2000円!)を置いて、無理やり家に帰って、水を一時間くらい飲み続けて、ようやく落ち着きました。
その時のわたしには、あのマスターの笑顔が神様ではなく閻魔様のように思えてきてしまったのでした。彼の基準では本当に「弱い」カクテルだったのだと、わかってはいるのですが…。

それ以来、カクテルだけは絶対に頼まないようにしていますし、アジア人には本当に「飲めない」人がいるという事実を少しでも現地の子に理解してもらうのを、留学が終わるまでの目標にしています。


「飲めない」側が悪いのか?

「下戸は飲み会を遠慮しろ」なんて記事も存在しています。
そりゃあね、行かないで済むなら下戸だって行きたくないですよ、飲み会なんて。だってお金が勿体無いだけだもの。飲み会に参加する3000円があったら、映画二本観た方がよっぽど有意義だもの。

それでも行かなかったら行かなかったで「みんなが参加する飲み会に来ないKYなやつ」ってレッテルを貼られてしまうのが現実なんです。だから行くしかないんです。

でも参加したら参加したで、先に述べたみたいな断りづらさを感じて、飲み会を純粋に楽しむことができなくてつらいのです。断ることになんの抵抗もないような性格の人なら、別に飲めなくても飲み会を楽しめると思うけれど、それでもやっぱり私みたいに、断るのが苦手で飲み会を苦しく思っている下戸は、世の中に一定数存在しているとのが事実。

そしてそんな「断れない下戸」のために、世の中には数多くの「下戸の飲み会対策サイト」が存在しています(下戸は飲んで訓練すれば治る!なんてデタラメを謳っているサイトも一定数存在するのが悲しいところ。治りませんからね)。

それらのサイトを覗くと、「車で来たと嘘をつく」とか「一気コールが来そうだったら電話がかかってきたふりをする」とか「ウーロンハイを頼んだらウーロン茶を出してもらうよう店員さんに根回しをしておく」とか、「飲めない」側がなんとか「飲める」側を欺くための方法がたくさん羅列されています。

でもそこでわたしは疑問に思うのです。お酒が飲めないのは、生まれつき耳が聞こえないとか、手足が不自由だとか、それらの先天的な障害と同じくらいどうにもならない生まれつきの性質で仕方がないことなのに、どうして飲めない側が合わせなければならないのでしょうか。

たとえば、生まれつき足の不自由な人に向かって、「ここエレベーターないから頑張って階段使って登って来てね!」と、言えますか?

言えないですよね。そんな人たちの生きづらさが少しでも軽減されるように、ほとんどの公共施設にはエレベーターが設置されているし、もしなかった場合はその施設のスタッフもしくは通りがかりの人々が移動を手伝うことでしょう。それなのに、「お酒が飲めない」人たちは、「飲めないのが悪い」と見なされて、助けてもらえない。

私たちが生きているのは、誰もが少しでも生きやすい世の中を目指す21世紀です。飲みニケーションなんてものは、古びた遺跡でしかありません。これからは、「飲めない」ことも「個性」として当たり前に尊重される、そんな社会を作っていくべきではないのでしょうか。


「飲む」という言葉の代わりに

最近、「飲み会」って言葉とか、「飲もうよ」って誘いとか、違う言葉で表現しませんか?と思うのです。

例えば、「飲み会しようよ」じゃなくて「今日みんなで集まろうよ」みたいに、「お酒を飲むこと」を目的とするのではなく、「人と交流する」ことを目的とした風に言ってみるとか。それだけで私のような飲めない人は、堂々とソフトドリンクを飲んで参加できるように思えてきて、ものすごく気が楽になります。そう言った小さな変化から始めていけばいいのではないでしょうか。

「誰が何を飲んでも自由」そういう空気を誰もが当たり前に持つような社会が、近いうちに実現したら良いなぁと願っています。

多様性と、マイノリティの権利が叫ばれがちな今日この頃ですが、「下戸」にだって権利が欲しい。身近な社会的マイノリティの存在を、忘れないで欲しいなと思う今日この頃です。


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