見出し画像

「さよなら」が下手になって


幼い頃から、「黙って去られる」ということに、なんとなく慣れて達観した子供だった。人同士の関係なんて永遠に続くわけがないし、きっといま目の前にいる相手もいつか何も言わずにわたしの前からいなくなってしまうのだろう、そういった寂寥感はいつでもわたしの頭の片隅に根付いていて、だから中学校の古文の授業で「諸行無常」という概念を教わったとき、なんだか安堵したのを覚えている。わたしのこの漠然とした孤独を掬い取ってくれる言葉にようやく出会えた、と。


***

高校生のときに、F先生という現代文の先生と出会った。年齢は三十代半ばで、独身の女性だった。「イケメンはスイーツなんですよ」とか、「恋はインフルエンザなの」とか、そういった迷言を授業中にずっと連発していて、その奇天烈さを「やばい」と恐れる生徒も中にはいたけれど、わたしはそんなところをすごく好きになって、たくさん話しかけてすぐに仲良くなった。

しかしF先生はただ面白いだけの先生ではなかった。その豊かな斜め上をいく発言の背景には、圧倒的な読書量と、文学に対する真摯な愛情と、「書くこと」に対する本物の熱意が横たわっていた。授業中の解説の隙間から漏れるその真の情熱を察知したわたしは、彼女に見てもらって読書感想文のコンクールに出してみることにした。彼女の添削はいつでも的確で、論理的なのに同時にすごく情緒的にわたしの文章を紡ぎ直してくれて、わたしは自分の文章世界がどんどん色づいていくのをあっけに取られて見ているばかりだった。その生まれ変わる様子を見ながら、「書く」という行為が一体どういうことなのか、その行為の果てのない深淵さを、感覚として理解した。いまわたしはこうして頻繁にnoteに思いを綴っているけれど、書けば書くほどあの時見た彼岸は遠ざかっていくばかりな気がしてしまう。

F先生の素晴らしい添削の甲斐あって、わたしは読書感想文のコンクールで賞を取ることができた。自分の文章が認められるということは、自分自身の容姿なんかを褒められるよりずっとずっと、自分の核に近い部分を褒められているような気がして嬉しくて、そして自分の思考に輪郭を与えていく作業が楽しくて、わたしは「書く」という行為に病みつきになってしまった。ちょうどそのタイミングで受験勉強が忙しくなったせいであまり好きな文章を書く時間はなくなってしまったのだけれど、受験が終わったらまたたくさん書こう、そしてF先生とは交流を続けて自分の文章を読んでもらおう、と勝手に夢を膨らませていた。

しかし、わたしが高校二年生の三月、F先生は離任した。離任式にも来てくれなくて、「さよなら」を言うことも言ってもらうこともできないまま、もう二度と会うことはなかった。いなくなってしまったことも、いなくなることを最後まで教えてくれなかったことも、なんだかわたしは裏切られたように思えてしまって、陳腐な表現だけれど心に穴があいたみたいだった。一度だけ手紙を書いたのだけれど、その返事には「無理して書かないでいいのよ」といった趣旨のことが書かれていて、その突き放すような態度にもひどくショックを受けて、それ以来連絡を取っていない。

大学生になって、あの時より少し大人になって、ふとした瞬間にF先生の名(迷)言を思い出すことが増えた。実際、高校時代の友人と集まると、F先生の話題になることが多い。みんな口を揃えて、イケメンがスイーツなのも、恋がインフルエンザなのも、わかるようになったよね、と言う。会いたいよ、F先生。


***


ずっと教えられる側だったわたしは、大学に入ってから塾講師のアルバイトを始めて、初めて教える側になった。「大人と子供」という二項対立における「大人」の世界から見る高校生の生徒たちは、わたしが高校生時代に自分で思っていたよりずっと「子供」で、宿題をやらなかったりやる気がなかったりして腹が立つことも多かったけれど、それでも彼らが理解した瞬間の笑顔とか、学校での出来事を楽しそうに話す様子に、わたしは給料以上の何かを受け取っていた。

しかしこの留学に来る前の最後の授業において、受け持っていた生徒に、「今回が最後だ」と伝えることができなかった。何を言ってもわたしがいなくなるという事実は変わらないのだし、そこでどんな反応が返って来るのかも怖いし、考えれば考えるほど適切な言葉が分からなくなってしまって、もう何も言わないことにしよう、まるであしたも授業にきますよ、そんな顔をして最後の授業を終えた。

そこで初めて、「何も言わないで去る大人に傷ついてきたはずなのに、いつの間にかそんな大人になってしまったな」と気がついた。あの生徒たちは突然こなくなったわたしをどう思っただろうか。見捨てやがって、と嫌いになっただろうか。でもあの子たちもいつか、黙ってさよならをする時がいつか訪れるのだろう。


子供のときには、お別れの際には必ず事前に伝え合って手紙を渡したりして素直に悲しんでいたのに、どうしてそんな簡単なことができなくなってしまったのだろう。

大人になるということは、経験を重ねて器用になれるということではないのだろう。むしろ恥や外聞を気にしてどんどん不器用になっていって、逃げ方ばかりがうまくなっていってしまう。それでももう、無邪気にさよならを悲しめていたあの頃のわたしと、今の大人になったわたしの間には、ひたすらに広い河が流れてしまっていて、あちらの遠い彼岸に戻れることは、もうない。時間は不可逆的なものなのだから。

それでも、人生において関わった人間というのは、F先生の名言のように、他者になんらかの形で爪痕を残す。さよならを素直に言えなくなった分、その爪痕を大切に守って、それをもわたしらしさの一部として抱えて生きていくのが、大人になったわたしの唯一のできることなのかもしれない。


サポートしていただいたお金は本代に使わせていただきます!