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1600年、徳川家康の東軍と石田三成の西軍が関ヶ原で激突。
大規模な戦闘だったにもかかわらず、たった1日(むしろ数時間)で東軍が勝利するという結果に。皆さんご存じの関ヶ原の戦いです。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命されます。
その後、1614~15年の大阪冬の陣・大坂夏の陣で豊臣秀頼を倒し、徳川体制を確立。関ヶ原の戦いは反徳川勢力を一網打尽にし、徳川体制を作る上では重要な戦いでした。

ウィキペディアによると、東軍の兵力は74,000~104,000人、西軍は80,000人です。兵力としてはほぼ互角です。

関ヶ原の布陣図はこちらのサイトをご覧ください。

明治時代に日本陸軍の教官として来日したドイツ人のメッケルがこの布陣図を見て「西軍の勝ち」と答えた逸話があります。布陣図を見る限りでは明らかに西軍が有利でした。にもかかわらず東軍が勝利を収めます。なぜ、東軍は勝利することができたのでしょうか?
※メッケルのエピソードは創作説もあるので真偽は不明です

東軍は戦う前から勝っていた


野戦の場合、兵力が多い方が圧倒的に有利です(攻城戦の場合、攻める側は守る側の3倍の兵力が必要であると言われています)。そして相手より有利な場所に布陣する。この2点がポイントになります。兵力はほぼ互角で、布陣図を再度見ていただくと、西軍が東軍の側面を突ける状態になっているので西軍が有利だとわかります。西軍の大勢力である小早川秀秋が東軍の側面(京極高知あたり)に突撃すれば東軍は側面を突かれ、連動して左側の西軍が攻勢を強めれば東軍は崩壊します。

しかし結果はそうなりませんでした。
東軍の背後にいた毛利勢が一切戦いに参加しませんでした。毛利勢が西軍の兵力からマイナスされます。石田三成の近くに布陣した島津も積極的に動きませんでした。

関ヶ原の戦いの決め手は、兵力15,000もいた小早川秀秋の東軍への寝返りです。東軍の側面を突くはずだった小早川秀秋は、突如動いたと思ったら西軍を攻撃し始めたのです。布陣図を見てもわかるとおり、側面からいきなり攻撃されたらひとたまりもありません。小早川秀秋の裏切りをきっかけにして、関ヶ原の戦いは東軍勝利へと繋がっていきます。

寝返り工作を行った黒田長政


西軍の大名が戦いの最中に急に寝返るなんてとは余程のことが無いとありません。関ヶ原の戦いの前に、小早川秀秋に対して寝返り工作を行ったのです。東軍と西軍の見た目上の兵力はほぼ互角ですが、毛利の不参加・小早川秀秋の裏切りを考慮すると東軍の勢力が大きく上回る状態になります。関ヶ原の戦いは始まった時点で、戦いの7割くらいは終わった状態だったのです。その寝返り工作を行ったのが、黒田長政と言われています。あの黒田官兵衛の息子です。関ヶ原の戦いの論功行賞では、大幅に加増され50万石を超える大大名になります。

MAをとりあえず導入するのは、事前準備無しに関ヶ原の戦いに挑むのと一緒


いきなり2020年に戻ります。MAがあると良さそうだからとりあえず導入したという話はよく聞きます。でもそれは、事前準備無しに関ヶ原の戦いに参加するのと同じです。勝つか負けるかもわからないし、下手すると西軍のように一瞬で敗北する可能性もあります。MA導入後の具体的な活用イメージが無ければ、成功するかどうかはギャンブルです。MAの導入は、事前準備が7~8割です。事前の設計・準備がMA導入の成功の決め手です。逆に、ここで勝ち筋が見えなければ導入しても活用できません。安い買い物でも無いし、場合によっては組織を変えたりメンバーをアサインすることもあるので、しっかり事前準備をして活用することが大切です。

しっかり使えばMAは便利なツール


MAは便利なツールです。しっかり使いこなせれば大きな成果を出すこともできます。勢いで導入してしまうのは非常にもったいないので、事前準備をしっかりしてMAを導入し、快適なマーケティングライフをお過ごしください。

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