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私が空気だったころ。

何となく、週に1階は必ず日記を書こうという義務を自分に与えているので、特にネタはないけれどもとりあえず書く。

この前、私の書いている小説のテーマは「社会的」なのが多いねと言われて、なるほどそうかもしれないなどと思った。先日電子書籍化していただいた「コットンキャンディのネコと、幸せの1LDKについて」などはまさに社会からこぼれおちた少年と、それを拾った兄妹の話であるし、その後に書いた「できれば君に、赦されたい」はそのまんま、DVとネグレクトにあった子供たちの社会からの逃走劇だった。

帝都に関しては史実ありきの怪奇ミステリーとして書いているので例外として、「ルネの首」だって浮浪児と上層社会のシステムから逃げ出した少年の物語であるし、そもそも私が最初に受賞した作品は故人のかわりとして作られたアンドロイドがゴミ山に不法滞在している孤児と疑似家族になる話だった。

そういうことを考えると、私の書く話は社会と家族の話が多いかもしれない。

自分の中で満足できないものを創作上で昇華する意識が働くなら、私が満足していないのは血縁のある家族と、社会そのものということになる。

まぁ就職氷河期世代なので、今更社会の在り方とかああだこうだ言わないけれど、社会というものに大して期待をしてこなかったのはわかる。


家族についてはまぁ……うちの家族、毒っていうほどではないけど、ちょっと人の心が足りないので。(私含め)


リアルの恋愛に興味のない私が恋愛に関しては観念的なことを書きがちなのは、今後の課題として置いておくとして、私は友情に関しても観念でどうにかしがちなところがある。

何故か占い師に「貴方は他人に興味がありませんね」と言われて、しかも自分でちょっと納得してしまったのだけど、他人に興味がないというよりは身内認定した人以外への興味が薄すぎるのだと思う。

仲間だと思っている人以外を、あんまり気にしていないところはある。本当にそれ。仲間だと思っていれば仁義は通す。ヤクザ。


なんでこういう風になったんだろうなぁ、とぼんやり考えていたのだけれど、私は18歳で札幌に出るまでずっと空気だったからだろうな、などと思った。

私の実家は限界集落の農家だったので、保育園から中学生までは学校のクラスは1クラスしかなかった。人間関係の確定ガチャ。エグい。

高校に行ってもやっと3クラス。8割が同じ高校に進学するから、3クラスに増えたところで「人間関係を持ちこして、似たようなポジションでかたまる人数がやや増えるだけ」なんだな。

それで、小学・中学とずっとスクールバス通学だったんだけど、私と比較的仲がよかった子はバスのルートが違うので私はいつもぼっちであった。

バスのルートが同じ同級生はもちろんいるけど、その子とは普段ほとんど話さない。

高校になったら、全員が同じバスに乗るようになったが、比較的仲良しの子が1人、同じ高校に行かなかった。なので、3人グループになった。

その内2人は小学校の頃からずっと一緒のバスで、家も近くだったんで、まぁ、余り者になるのはこの私である。

そうして私は高校までずっとぼっちバス通学であった。

そういう状態なので、一応クラスの中の仲良しグループ的なものには所属していたけれども、私の扱いは空気であった。

何か一緒にいるけど、話しかけなければあまり会話にならず、友達にカウントされているけれどぶっちゃけいなくてもいい存在。

私は、中学あたりで自分が完全に空気、もしくは金魚のふん程度のポテンシャルで扱われていることを理解していた。だけど選択肢はないので一緒にいた。それは高校卒業まで続いた。

専門学校に上がってから、自分からほんのり距離をとった。おいかけられなかった。それでおしまい。

今にして思えば、私も彼女らもお互いに友達だとは思っていないけれど、表面上友達だということにしていた。自分たちで自分たちを騙しながら、そういうフリで生きていた。

未だに地元に帰ると、私はもう顔すら覚えてもいない同級生から友達ムーブで話しかけられる。私は顔も憶えていないのに。

そういう町だった。私の育った限界集落は。

友達という共有幻想でまとまらんと生きていけないのです。

空気であったことは、イマイチ地元のコミュニティになじめない私なりの『生存戦略』であったのだと思う。

何故そう思うかっていうと、私は小学2年生までは誰とも友達ではなかったから。

小学2年生までは、私が何をしても全肯定してくれる祖母が存命だった。五歳の頃から別居になったが、たまに泊まりにいっていたし、盆正月は家で一緒にすごした。

父にも母にも兄にもいまいち懐ききれなかった私が、唯一心をフルオープンしていたのがこの祖母である。

小学2年生の正月に、私の目の前で倒れて亡くなった。

祖母が亡くなった時、初めて私は小さな子供なりに頭をふりしぼって考えたのだ。「このまま一人で生きていかなければならない」と。

そこで何故か家族には頼らずに、私は「表面上の友達を作ることで自分の居場所を確保する」という行動に出た。多分、家にいても家業の農家を手伝わされるだけなので、あんまり家族に愛も信頼もなかったのだと思う。愛の所在をとりあえず外注したのだった。

でも、最後まで、本当に最後までその友達は「表面上」でしかなかったので、私はずっと空気だった。そもそも、私が小学2年までクラスになじめなかったのは、保育園に1年遅れて入っていて最初の段階ですでにグループから外れてしまっていたというのもある。何せ3歳の時点で中学生まで過ごす人間関係が構築される。1年遅れが致命傷だ。

ちなみに1年遅れになった理由は「家のトイレが怖すぎて(当時の我が家、祖父の建てた古民家で古びた和式ボットントイレ)おねしょがどうしても治らなかったから」である。こんな理由で人間関係に失敗するのイヤすぎるでしょ。

あと、私が実質1歳年下だったので(3月末の早生まれ)その辺も含めてまぁ仕方がなかった部分はある。

それはともかく、空気を脱するチャンスは幾度かあったわけだが、そんなもんに気付けるほど田舎の人類皆兄弟ムードは甘くない。君はこの関係に何が不満なのだね?というムードである。

空気に徹しつつ、空気だと理解しつつ、何となく友達っぽい存在に収まっていた私は、札幌にいってそれはもう、それはもうはっちゃけてしまったわけなんですがその辺は黒歴史なので多くは語りません。やらかした。色々やらかした。

そして巡り廻って私は小説を書けばそれなりに人間らしいことを言っている自分に気が付いたのだった。

やったね、空気じゃなくなったよ!おめでとう!


…………というわけで、私は小説のおかげでちょびっとだけ社会性を獲得したかもしれないのだった。

社会がテーマになりがちなのは、小説を通して社会を見ていたから…………なのかもしれない???(自分でも疑問になってきた)


高校の頃の黒歴史ノートを、東京に引っ越す寸前まで持っていたのだけど(ノートの内容自体はほぼイタめの創作キャラ語り)、その内の1冊にこう書いていたのを覚えている。

「私は空気。吹いた時だけ存在がわかる風みたいなもの」

このクソポエムについては多くは語らないけれども、自分が空気だと明確に認識していた自分自身のことを思うと何だかなぁ、という気持ちになった。

今では空気だった私は、荒ぶる台風みたいな性格になりました。

吹けば飛ばすぞ。(力強い意思)

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