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ルネの首#24 この世界ではよくあること

 結論から言えば、ナオは死ななかった。
 ただ、生ぬるい液体が顔に落ちてきた。
 見上げると、よく知る青と緑のグラデーションの髪の毛がそこにあった。
 思えば、ナオの記憶はこの青と緑の鮮やかさから始まった気がする。それより前のことはおぼろげで、唯一良くしてくれたはずの兄のことすらよく思いだせず――。
「セッちゃん!」
 アズの声が聞こえる。意識が現実に戻る。
 青と緑の鮮やかさの中に、赤が混ざる。
 いつやってきたのか、セツェンがそこに立っていた。
「邪魔だ!」
 そう叫んで、鉄グモの前肢を切る。
 その間も、生ぬるい液体はナオの身体に落ちた。
 そこまで見届けて、ナオは初めてセツェンが自分を助けようとして、怪我をしたのだと気が付いた。
「セツ兄!」
 反射的に名前を呼ぶ。セツェンは振り返りもせずに、ただナオに向かって叫んだ。
「ブルグリはあと何発残ってる!?」
「え……あ、あわせて、一発」
「今すぐに目を撃て」
「え……あ、ぶ、ブルグリ、目を攻撃!」
 混乱していた。状況がちっともわからなかった。ブルグリが攻撃したらしい音は聞こえた。
 ナオの位置からでは、攻撃が成功したかどうかは見えない。ただ、セツェンが舌打ちしたので、あまり良い結果ではなかったのだとわかった。
「あの、セツ兄……!」
 見間違いでなければ、セツェンは怪我をしている。血を流している。左肩が赤いのは――。
 だけどセツェンは待たなかった。左肩に突き刺さっていたままだったグモの前肢を放り捨てて、それを足掛かりにしてスライサーを片手に駆けのぼる。
「セッちゃん、無茶しないで!」
 アズの声が、遠い。出力制限で戻ってきたブルとグリが、ナオの足もとに転がった。
 セツェンの返事はない。
 ただ、怪我をしているとは思えない速さで、駆けあがっていた。そして、鉄グモが耳障りな音を立てて後退しようと暴れている音と、セツェンが目を潰しているらしい音が、聞こえてくる。もしかしたら、怪我をしたのは見間違いで、単に返り血を浴びていただけなのではないか。
 ――鉄グモの体液は、赤くない。
「セッちゃん、目を潰したら退避して!」
 アズの叫び声が聞こえる。――聞こえる。
 混乱していた。現実感がまるでなかった。
 鉄グモの身体が沈んだ。目は多分全部潰れている。けれど、セツェンが降りてこない。
「セッちゃん!」
「セツ兄!」
 ナオも叫んだ。けれど、返事はない。
 やがて鉄グモの動きが完全に止まった。
 その時になって、ようやくセツェンは鉄グモの背から飛び降りてきた。
「セツ兄、大丈夫?」
 ナオが駆け寄る。セツェンはぼんやりとした顔で、ナオを見た。別に、痛そうでも、苦しそうでもなくて、少しだけホッとして、だけどすぐに気が付いた。左肩から下が、赤く染まっている。服を伝う赤い滴が、ぼとぼとと地面に落ちていく。
「ナオはケガ、ないか?」
「ぼくは大丈夫だけど……」
「…………そうか、よかっ…………」
 ガラン、とスライサーが地面に転がる。
 そのまま、糸が切れたみたいにセツェンの身体が倒れてきた。受け止めきれずに尻もちをついたナオは、どうにかセツェンの半身を抱える。
 ぬるりとした生暖かい感触が、手のひらにはりついた。
「せ、セツ兄……」
 ナオの手のひらがあっという間に紅く染まった。
 肩口だけではなく、背中の方まで血に濡れている。つまり、傷口は貫通している。手で押さえても、指の隙間からぼたぼたと鮮やかな赤の滴が落ちて、止まらない。
「セツ兄! セツ兄! しっかりしてよぉ!」
 セツェンの息が苦しげで、冷や汗がこめかみを伝って落ちる。だけど、呼びかけに反応はない。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 明白だ。ナオが自分の力を過信したからだ――。
 セツェンの身体を抱えたまま、どれくらい動けずにいたのだろう。実際には数分もなかったはずのその時間が、永遠に感じるほど長かった。
「ナオちゃん、セッちゃんのケガ見せて!」
 気が付くとアズが降りてきていて、ナイフで自分の着ていたスカートのすそを切り裂いた。
「止血するから!」
 それとほとんど同じくして、サリトとリタもやってきた。アズが呼んだのか、それとも異変に気が付いたのか――。
 鉄グモの身体が邪魔なので、エアボードは浮遊させたまま、二人は飛び降りてくる。
「派手にやらかしたな、また」
 サリトが顔をしかめる。
「左肩、背中まで傷が通ってる」
「あー、それはいいんだか悪いんだか悩むな。変に傷の中にものが残るよかいいが」
 止血に使ったアズのスカートの切れ端は、あっというまに血で変色した。セツェンの顔は青白く、息はあるけれど呼吸は浅い。何度呼びかけても意識は戻らない
「まさかと思うけど、止血せずにこのデカブツが死ぬまで暴れてたのか?」
「そのまさかよ。かなり失血しているから、すぐつれていかないと」
「マジか」
 セリフとは裏腹に、サリトはこの中で一番落ち着いていた。リタは呆然としているし、アズですら混乱しているように思える。つれていかないと、と言いつつ手をあちらこちらに動かすだけで、身体が動かない。
 そんなことをしている間に、サリトはセツェンの身体を担ぎあげて、エアボードに乗せた。
「ナオ、こっちこい」
「え? ぼく?」
 まさかお呼びがかかるとは思わず、ナオはきょとんとする。サリトは構わず手招きした。
「セツが意識失ってるからな。一緒に乗って押さえておいてくれ。転がり落ちたらさすがにセツでも死ぬわ、コレ」
「え? え……?」
「あと、俺の運転は、リタと違ってクソ荒っぽいので、安全の保障をしかねる」
「サリトさん運転できんの?」
 我ながらそこではないだろう、と思いながらも、聞かずにはいられなかった。リタが運転しているところしか見たことがないし、彼女はすぐそこにいる。
「動かすだけならできる」
「ねぇサリト、あたしが行った方が早くない? それかアズちゃん」
 リタもその点は疑問であるらしいが、サリトは首を横に振った。
「バッカだな、お前。俺がいかないと意味ねえだろうが。セツのこの状態なんだぞ……」
 アズとリタは顔を見合わせて「あっ、そうか」と納得した。ナオにはなにひとつ納得できない。だけど、二人が納得するということは、それなりの根拠があるのだろう。
「説明は後だ。早く乗ってくれ。こうしている間にもセツが死にかけてるからな」
 追い立てられて、ナオは釈然としないながらもエアボードに乗り込んだ。セツェンの身体と自分の身体とを付属のベルトで留め、セツェンの身体を押さえつける。
「リタは、そこのガキをセツの家に放り込んでおけ」
「え? あたしがこの子を?」
 リタが指をさしたのは、ナオが助けた例の少女である。彼女はアズの乗っていた小型エアボードの上で、どうすればいいかわからない様子で震えていた。
「小型エアボード、どう考えても二人が限界だろ。お前の腕なら二人乗りでもスピード出せる」
「あー、なるほどね」
 リタはあっさり納得した。
「だからまずそのガキをセツの子分どもに任せて、アズは救済機関に行け。そんでリタは途中でアズを拾え。そして医薬品を調達してこい」
「ちょっと不安だけど、確かにそれが一番早そう。サリトさんの案でいきましょ……」
 アズまでそう言ったので、役割分担としては適切らしい。それにしても、サリトがここまで落ち着いているのが不思議だ。ナオは今も、後悔と混乱とで頭がぐちゃぐちゃなのに、彼にとってはどうでもいいのだろうか。
 だけど、リタのその一言で、意識はやや現実に戻された。
「ナオちゃん、気をつけてね。そいつ、マジで超運転ヘタだから」
「へっ……?」
 詳細を尋ねる前に、サリトがエアボードを発進させていた。ガクン、と視界が揺れる。
「いくぞ、振り落されんなよ!」
「ぎぃぃぇぇぇあああぁぁぁ!?」
 変な声が出た。いきなり三百六十度回転したからだ。
 そして急発進でさっそく滑り落ちかける。ベルトがあってよかった。セツェンの身体を落とさないように、しがみついているだけで必死である。
「ひぎゃあああぁぁぁぁ」
 死ぬ。鉄グモの時と同じくらい死を近くに感じる。
 横に宙づりになりかけたこと数回。それも猛スピードで。屋根に接触しかけたこと数え切れず。むしろ事故ってないのが不思議。
 ヘタというより、無謀。暴走。迷走。
「あああああああああ!」
「オラァ、ついたぞ!」
「うっそでしょ!」
 どうして無事についたのかわからない。奇跡。天変地異。
「無事ついたんだからいいだろ」
「無事じゃないし! セツ兄の怪我が悪化するし! ていうか、ここ、ゲロジジイの店じゃん!」
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、ナオは建物を指差した。セツェンがたまに行く仕事先。残飯をたまにわけてくれる居酒屋。
 ゲロジジイこと、ジェロじいさんは、下層街の酔っ払いの巣窟、居酒屋の主なのである。
「ジェロじいさんの本業は医者だぞ。知らなかったのか? 知るわきゃないか。まぁ、腕はいいぞ。酒が入っていれば」
 ダメだ。本業が医者だったとしてもダメだ。
 瀕死の人間を酔っ払いに任せるのがダメなことくらい、いくらナオだってきちんと理解できる。
「酒は抜いてくれよ!」
「あのジジイ、アル中だから酒入っている方が手元がブレねえんだよ」
「なおさらダメでしょ、ソレ!」
 しかし、サリトは気にする風でもない。
「下層にゃ他に医者なんていねえよ。大丈夫だ。なんのために俺がヘタクソな運転してきたと思ってんだ」
「知らないよ!」
「正直だなー」
 呆れ半分感心半分の様子で、サリトはセツェンの身体を抱え上げた。さっきよりも顔が青ざめているのは、出血のせいか、サリトの暴走運転のせいか。
「ここまで派手にやったのはさすがにほとんどないけど、俺が覚えているかぎり、セツがボロ雑巾になるのは三回目くらいだから、多分今回も大丈夫だろ」
「気楽に言うけどさ……」
「研究所あがりは、常人よかはだいぶ丈夫にできてんだよ。ま、出血多量だと普通に死ぬけどな」
「やっぱダメじゃん」
「だぁから、俺が来たんだよ。おい、ゲロジジイ、急患だ、酒を飲め。そして即行で手当てしろ!」
 両手がふさがっているから、サリトはドアを無遠慮に蹴破った。店の裏側なので、店内ではなく厨房らしき場所に出る。サリトは勝手に中に入っていったので、ナオも仕方なくついていった。
 店の喧騒が微かに聞こえる中、サリトは勝手に居住スペースらしき部屋のドアを、玄関と同じように蹴破る。
 そこは生活感のない部屋だった。白い壁に、天井。簡素なベッドと、いくつかの椅子。瓶の詰まった棚。
 その中で六十過ぎくらいの白髪混じりの頭をした男――ジェロが振り向いた。
「いるんじゃねえか。返事しろよ、クソジジイ。珍しくセツが死にかけてるからよろしく頼むわ」
「口のきき方を覚えろ、クソガキ」
「もうガキでもねえし、ケンカしている場合じゃねえんだわ、マジで。俺が来たあたりで察してくれ」
「汚い布で止血しおって、化膿してもしらんぞ」
「綺麗な布なんて都合よくあるわけねえよ」
「そこのガキ、突っ立っておらんで、裏の蛇口から水を汲んでこい」
「は、はいぃ!」
 ジェロに洗面桶を投げつけられ、ナオは反射的にそれを受け取った。
 裏に出てみると、確かに蛇口があったので、水をたっぷり汲んでいく。それを五回くらいやらされた。
 サリトもジェロも、状況は説明してくれない。
 だけど今は、セツェンが助かることを信じるしかなかった。

 ジェロのパシリをさせられている間に、わかったことがいくつかある。
 サリトが何故ここに来たのかといえば、輸血要員であるらしい。
「俺とセツは血液型同じだし、同じ研究所あがりなんだよ。ちょっと普通の人間とは違うから、血液型が同じってだけじゃ輸血できないんだわ。足りない分は、まぁ、アズが今頃人工血液手配してるだろ」
「ああ、なるほど」
「三回目だからな、これ」
「ああ……」
 サリトが妙に冷静だったのは、前にもこんなことがあったからだ。そういえば、最初の頃はナオも幼かったから、セツェンが数日不意にぱったり姿を見せなくなった時があった。その時はナオより年上の子も何人かいたし、数日留守にすると連絡はきたから、心配をすれども大けがをしているなんて思いもよらなかった。
「動かせるくらいに回復したら、上に連れていってすぐに治すこともできるんだけどな」
「上のやつら、治してくれるの?」
「その時次第だなぁ。今は生首氏の件でごたついているから、待たされるかもしれん」
「……そっか」
 いずれにしても、現時点ではセツェンは動かせるような状態でもない。しきりの向こう側で、ジェロが傷口を洗浄して縫う手術をしているところである。
「気にすんなよ。セツは死んでないだろ」
「死にかけてるじゃん」
「そりゃ、危ないことしてんだから、死にかけることもある。三回目って言っただろうが」
「でもさ、ぼくをかばったせいだろ。ぼくがいたから、ぼくが勝手に子供を助けたから、鉄グモを放っておくわけにいかなくて、無理したからこうなったんだし」
「アホだなぁ。お前、たかだか十三歳のガキに、そこまで神対応期待してねえよ、誰も」
 血を抜かれて貧血気味なのか、サリトは眠そうにあくびを噛み殺しながら、サバサバとした感想を述べた。
「足を引っ張ったのは事実だし」
「ガキの考えで全部をわかった気になるなよ」
 ジェロの手伝いもなくなって手持無沙汰になっていたナオに、サリトは「まぁ、座れよ」と近くの椅子を指した。
 輸血用の血を抜かれた後は、しばらく安静にしなければならないらしい。彼はヒマを持て余して、長椅子に足を組んで横になっているのだった。
「お兄さんの話をよーく聞いとけよ。そもそも、戦力だけで考えるんだったら、セツはあそこでお前とあのガキを見捨てればよかった。でも、セツは自分がケガしてでもお前らを助けただろ? 仕方ないんだよ、そんな割り切りできるヤツじゃないんだから」
「それじゃ、セツ兄の責任だっていうの?」
「うーん、端的に言えばそうだが、まぁ、セツだってたかが十五歳のガキだからな? ナオに手伝ってもらうようになって、少し気は緩んだのかもしれないけど、それでミスったからってお前やセツの自己責任っていうのはおかしいだろ? 誰の責任かって、強いて言うならガキに色々丸投げしてる上の連中のせいだ」
 サリトの意見は、いかにも大人な感じがする。少なくとも、ナオが今まできた下層の酔っ払いたちよりは、ずっと大人の意見を言っているように思える。
 ずっと、彼のことはよくわからない人だと思っていたけれど、それは単純に、サリトがナオにもわかるような態度をしていなかっただけだ。今は、ナオに話のレベルを合わせてくれている。
 そして、セツェンが彼を苦手であることに、改めて納得した。嘘もごまかしも得意ではないセツェンは、サリトに口で勝てるわけがない。どう考えても相手の方が大人であるから、反論の余地もない。実際、サリトはセツェンに撮って恐らく唯一の「頼られなくて済む相手」だからこそ、彼の「ガス抜き」役なわけである。
「うさんくさい人だと思っていてすみませんでした」
「うさんくさいことは否定しないぞ?」
 サリトはほんのり自虐的に笑った後、改めて足を組み直した。最早二人には何もすることがないが、だからといってこの場を離れるわけにはいかない。ヒマなのだ。
「じじいが、限界ギリギリまで血を抜いてくれたおかげで俺も動けねえし、アズたちが来るまで時間もあるだろうから、この機会に聞きたいことがあるなら聞いてもいいぞ」
「え? 具体的に……どんな?」
「研究所話とか、ろくでもな話いっぱいあるぜ」
 それは、正直に言って大変に興味がある。セツェンはもちろん、アズですら研究所関連のことは言葉を濁した。
「ぼくの兄さんが、研究所に売られてて……」
「あー、下層じゃよくあるなぁ。肉体労働か、研究所か、みたいな。俺も、多分セツもそんなんだな。身体のウリやらされる女とどっちがマシかね」
「研究所の話、セツ兄はしないから」
「だろうなぁ。ま、セツもしばらく目を覚まさないだろうし、お兄さんがちょっと昔話をしてやるかね」

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