桜遠景

桜の木の下には〇〇が埋まっている

桜の樹の下には屍体が埋まっている!

そう書いたのは夭折の作家、梶井基次郎でありますが、実際桜の木の下に死体なんて埋まっているはずが……ないことはないのである。

この日記のタイトル画像に使われている、解像度の低い写真。

これは大昔、私がポンコツのガラケーで撮ったある桜の木の写真である。割と年代物の写真。よくぞデータが残っていたものだ。

私の元実家の敷地、放牧地のど真ん中に生えている一本の桜の木。

この桜の木の下に、まさに死体が埋まっている(らしい)のである。

我が家は酪農家……牛飼い農家で、祖父母は戦後入植者だ。

つまり、開拓者ではない。

もうすでに開墾された土地を、村から買い取って入植した。

その土地を開墾し、所有していた先住の開拓者がいたわけだ。

前に住んでいたらしいその家族は、どうやら農家をやめて少し都会の方へと引き上げたという。すぐに買い手がつくあてもなかったのか、家も解体して農地にしてしまったようだ。

その土地が、巡り巡ってうちのものになったのである。

察しの良い方は、そろそろ真相にお気づきだろう。

そう、その家があった農地が、例の桜の木の放牧地だ。

そして、最寄りのお寺(墓地)まで15キロ。

当時の交通手段、馬車。

亡くなった子供を庭先に埋めて、墓の代わりに植えられたのがその桜だった。

埋めたと言っても火葬はしたのかもしれないし、せいぜいお骨の一部くらいしか埋めていないかもしれない。

家を引き上げる時にちゃんと掘り返していったかもしれないし、少なくともお弔いはちゃんとやっただろう。

伝聞調の話だったので、恐らく、祖父母は直接その人から土地を買い付けたわけではなのだと思う。あの桜の木はお墓だから、桜の木を切らないでほしい、そう前住人が熱心に伝えたから、残されていたのは確かだろう。

とは言っても、普通に放牧地であったので、桜の木の周りは牧草であったし、普通に牛を放していた。

ただ、子供の頃からしつこいくらいに

「あの桜の木はお墓なので、絶対に折ったりしてはいけないし、傷つけたりもしてはいけない。木登りとかもしたらダメ」

と言い聞かせられていた。

私は、庭にあるスモモの木によく登っていたから、余計に口を酸っぱくして言われたのだろう。いや、だってロマンでしょ、木に登って枝でお昼寝とか……。実際、安定感悪いし、硬いし、痛いし、虫がワサワサいて全然寝心地はよくないんだけど……。絵面的にロマンだから……。

我が家ではその木を「墓桜」と呼んでいた

墓桜は毎年見事な花をつけた。

ちょうど、もう一つ別の農家の細長い牧草地と国道を挟んだ向かい側に、地区会館があった。

地区会館には桜の木はなく、芝桜だけがめぼしい花だったが、遠くに見える我が家の墓桜が満開になる頃に花見をした。

地区の農家の人たちとジンギスカンを食べながら「いやー、今年もお宅の畑の桜は満開だねー」などと言うのを聞いていた。


お墓だけどな!!!!


もしかしたら、同時期に入植した祖父世代は知っていたのかもしれないが、言いふらすことでもなし、ほとんどの人は知らなかっただろう。
毎年、我々は墓を眺めながら肉を食べた。


遠巻きにでも褒められると嬉しいのかわからんが、墓桜は大体地区会館のお花見の頃に、綺麗に満開になることが多かった。会館には桜はないのにである。何かわからんが大体毎年墓桜ははりきって、絶妙なタイミングでめちゃくちゃ綺麗に咲いた。

放牧地のど真ん中にあるので、特に夏場は、牛を放していると墓桜の下に集まる。背中が痒くなると遠慮なく墓桜でゴシゴシとやる。獣は人の事情など知らぬ。

父は桜の周りを柵で囲った。墓桜はやや衰えた。

墓桜のおかげで、牧草地にぽつねんと木が生えていると、思わず「お墓かな?」と思ってしまうのだが、そんなことではない。

我が家のようなのはレアケースで、大体は農作業の合間や放牧している牛が、日陰で休めるようにあえて残していた名残がほとんどである。

かの有名な哲学の木も、確かそういう用途の木であったはずだ。

だけど、やっぱり数あるうちのいくつかは「そういう理由で植えられた」のでは、と少し考えてしまう。特に綺麗な花が咲く木は。

それはともかく、高校を卒業した私は進学で札幌にいくことになった。

その頃、町は国道を整備しにかかっていた。国道はトラックが行き交う産業道路であったが、地元の農家も使うため、ノロノロ運転でデカブツの農業機械が邪魔なわけである。堆肥をこぼすと道路が汚れるという問題もある。

農業道路を作るので土地を売れ。そこまではまぁ、わかる。仕方がない。

しかし、ここで町は大ポカをやらかす。

何故か国道沿いの農家に、移転を迫ったのだ。農業道路を作るのに、町の主産業である農家を追い出す本末転倒をやってのけたのだった。

国道沿いの農家が、これを機にどんどん辞めていった。

地元では比較的人が多い地域であったのに、3分の1くらいが一気に移転と離農でいなくなり、隣の地区と統合された。

地区会館は不要となり、放棄された後、取り壊された。

うちは、兄が当時はまだ家を継ぐ気でいたようだから、土地の一部を売って居残った。

そして時が過ぎ、私は夏と冬しか帰らないので、葉桜と枯れ枝の桜しか見なくなった。

ある年、母がぼやいた。

「墓桜がねぇ、元気ないんだよね。お花見やらなくなってから」

毎年、地区の農家が集まって肉を焼いて、満開の墓桜を褒めていた。
もう誰も集まらない。

「寂しいのかねぇ」

やがて、我が家もついに農家を畳むことになった。周辺の農家はほとんど離農して、国道からやや離れていたために道路事件の時にあまり実害がなかった農家が1軒、2軒とポツンとある。

それも、時間の問題だろう。後継者がいない。いても個人農家がやっていける時代ではなくなってきた。

「墓桜は切らないでって、切るならちゃんとお弔いしてって言わないとね」

母は離農する前にそうぼやいていた。

あんなに張り切って咲いていた墓桜が、見る影もなくなっていた。

この日記に使っている桜の写真は、その頃のやや衰えた墓桜である。

もう少し近くから撮った写真も残っていた。

夏の草を刈り終わって黄ばみ、やや雑草が目立ち始めている放牧地。多分、9月くらいだと思われる。

寒い地方といっても、葉が落ちるには早い。この時点で一部の枝が枯れてしまっているのがわかる。

この、縁もゆかりもないどこかの誰かの墓を、我が家はずっと守ってきた。

あの墓桜を、ずっと見てきた。

墓桜は毎年5月の半ばから末頃に咲く。

我が地元は、日本で2番目くらいに桜の開花が遅い地域だ。

ソメイヨシノに似ていたが、恐らくエゾヤマザクラだろう。

エゾヤマザクラの寿命は、ソメイヨシノよりやや長く、およそ70〜90年。

戦前から植えられているということを考えると、単なる寿命であってもおかしくない。

ああ、それでもやっぱり、何となくあの桜は寂しがっていた気がする。

子供の頃から、たまに気が向いたら手を合わせていた桜。

誰かの死体が埋まっているかもしれない桜。

花見がなくなって、我が家がいなくなって、国道からも離れているので、最早誰も見る人のいない桜。

それでも、墓桜はまだあの場所にある。

多分枯れるまで、そこに。

今年のGWは帰省する予定なので、早咲きならばもしかすると、墓桜が咲いているところを見られたかもしれない。

しかし、残念ながら飛行機で帰るときは国道沿いの我が家の跡地を通らず、遠目にも確認できない。

札幌を経由して帰るなら、特急列車に乗る駅への道すがらに見られるのだけど。

東京は、3月に桜が咲く。今年も、桜が咲き始めた。

北海道はまだ雪の残る季節だ。GWにやっと札幌の桜が見頃になって、ゆっくりと東へ北へと前線がゆく。

札幌にいても、東京にいても思い出す。

はりきって咲いた満開の墓桜。

衰えて枯れ枝を伸ばしていた、墓桜。


もうあの桜の木があるのは、我が家の土地ではない。

地元に帰っても、見に行くことはできない。

手を合わせることもない。

もう一生、咲いているところを見ることはできないかもしれないけれど。



君が枯れると、私は寂しい。

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