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特別ではないLGBT恋愛映画「his」の話

私は腐女子であるけど、セクシャルマイノリティをテーマにしたごく真面目な作品に対して「これはBLじゃない」とかいうのが好きではない。

BLは確かにファンタジーであるけど、それをいうと壁ドン少女マンガもハーレム少年漫画もすべからくファンタジーだからである。ファンタジー的なBLらしいBLが、愛に対して真摯じゃないフィクションだとは思わないし、現実的な問題を取り扱ったから崇高であるというのも何だか変な話。これは百合でもそうだし、ヘテロでもそう。愛に対して真摯に描くかは、その作品のストーリーテリングの問題であって、愛の形の問題ではない。

BLにおいて「ゲイであることの差別に苦しむ描写を入れたがるのは、ゲイはそういうハードルを乗り越えるという悲劇をエンタメとして消費している」という言説もあるが、そもそも「苦難を乗り越えること」をエンタメとして消費することはカタルシスの昇華としてごくありふれた表現。

そこに同性愛もヘテロもない。

現状では残念ながら「同性愛にはハードルがある」のが現実だから、そういうテンションになりがちだっただけではなかろうか。その現実が変わっていけば、自然とそういったエンタメは古臭い価値観になっていくだけだと思う。現にそういう感じのBL作品は、全体として減っていると思う。一昔前みたいに、金持ちに買われる系のネタとかが、BLとか問わずだんだんなくなっていったように。単純に古臭くて、今はそんな突拍子のないことにならないことが、一般的にわかってるからね。

むしろヘテロならハードルあってもいいんかい!って話である。差別を特別視しすぎることは、一周回って差別的だ。ゲイの知人もレズの知人もいるが、言うほどマイノリティであることに差別的な負い目を受けて生きていない。少なくとも今は。むしろその可哀想なマイノリティっていう見方・価値観を押し付けないで、と思っている知人もいるくらいだ。なるほど、時代はかわっていく。

よって今回観てきた映画「his」も、単純にセクシャルマイノリティを扱っているだけの、ごく真面目な恋愛ものであり、セクシャルマイノリティの男性が異性パートナーとの間にできた子供の親権について、どう争うかという点をごく真面目に、そしてシビアに描写しているだけなのである。

ファンタジーを極力排除した、ごく普通の恋愛の理想と現実について真摯に向き合っている物語だと思う。主人公たちの出した結末も、非常に正直で良かった。

これをLGBTを守るためのマイノリティの物語として観ると、逆に肩透かしかもしれない。

この映画のキャッチコピーは「好きだけではどうしようもない」なのだけど、この話はまさにそういう話で、その「どうしようもない」のはセクシャルマイノリティだからではなく、もっと根っこの部分にあるからだ。

主題歌のマリアローズが、とても作品によくあっていた。
では、以下は物語のネタバレを含むので、ネタバレOKな方はスクロールでどうぞ。









あらすじは、ゲイであることを隠して、田舎で自給自足生活をしながら枯れた生活をしていた主人公の元に、別れた元恋人が子供を連れて現れた。元恋人は離婚調停中で、子供の親権を争っていた。というお話である。

恋人役である子供の父親にはゲイ以前の問題がありすぎで、主人公も再三そこをツッコミまくっている。当然、親権争いでもツッコまれまくる。

何せ、主婦ならぬ主夫をしており、奥さんに稼いでもらっていた無職。きた時点では、仕事探してない。THE無職。

別れた理由も、女性とお付き合いして子供はらませて「自分もヘテロの一般人になれるのでは?」と結婚するも、ゲイである自分をごまかしきれなくなり、男と度々浮気をした上に、昔の男である主人公を忘れられないことに気がついた、というもので「お前そりゃダメだよ」である。

これはゲイとか関係なくダメなんだ。昔の恋人とは違うひとを好きになれたと思ったけど、なんか忘れられなくて浮気くりかえしたってアウトがすぎる。

主人公もそりゃ「てめー何しにきたんだよ」となるわけで。本当だよ。

子供である女の子の空ちゃんがまた、無邪気でかわいいんですね。何となしに感化されて、主人公と仲がよい近所の猟師のおじいちゃんや、主人公に想いを寄せつつも2人を応援してくれるヒロイン(本当にこの子かわいい。嫁にしたい)のことなんかもあり、また恋人が定職についたこともあり、一緒にいてもいいかなーな感じになっていく。

けど、ママがやってきて子供の空ちゃんを連れ戻す。そりゃそうだ、ちょっと前まで無職だった主夫が、離婚もまだなのに勝手に東京から岐阜の田舎町に幼稚園休ませて娘連れ出してたらそうなるわーーー!!!(しかも男の元恋人をアテにしていたわけで本当にダメ男)

この、恋人の妻が、仕事人間ながらかなり正当な理由で子供の親権を取りにくるので、これはマイノリティに対する差別の物語にはならないのである。夫がゲイだったから子供の親権をとりにきたのではなく、夫が浮気していた夫有責の離婚調停な上に夫が無職だから取りにきたのである。

「クレイマー、クレイマー」を思い出す。あれは主婦の妻が勝手に子供をおいてでていって、仕事を得てから親権を取り戻しにくる話であるけど、これは「仕事人間であった妻が、無職だけど子育てや家事を全面的に見ていた夫から子供を取り返す」構図。夫側が子供を連れ出して、途中で岐阜で就職するけど、無職だったというだけで。

子供が「パパと主人公とママ全員と暮らしたい」と言ってくるのも何とも言えない。そうなれたらヨカッタネー……。

この映画の最高にシビアなところは、親権争いを「夫婦の意識を無視して、弁護士同士が泥沼のバトルをする」という地獄の調停をするところである。

弁護士は仕事として、親権を取れるなら同性愛に対する差別を利用する。また、母親の些細な失敗も利用する(この辺、前述の「クレイマー、クレイマー」のオマージュなのかな?と思う)

親権が欲しかったはずの当事者たちが、あまりの泥沼ぶりに「こんなはずでは」みたいな顔になっていくのがマジでリアルにしてシビア。

そこには「こんなことまでしないと、愛する子どもと一緒にいられないのか?」という疑問が透けて見えてくる。どちらも、子供を愛している、子供を無視して離婚したいわけではないので、なおさらシビアな争いである。

結局、主人公の恋人は「妻が子供に関われなかったのは、妻が働いてくれていたからであり、妻にも子供との時間を過ごす権利がある」という点で親権を譲って和解する。

裁判に勝てる状況だったけど、彼にとって「相手の人格を否定してまで取る親権は必要か」といわれるとNOだった、ということだろう。

なぜなら、調停裁判で散々ゲイであることを理由に人格否定をされていたのは夫である彼の方であり、そしてそもそも彼が結婚に至ったのも「人格否定をされない環境」が欲しかったからだからだ。だから、親権のために彼女を否定することは、今まで自分がされたことをそのまま彼女に被せているだけになってしまう。罪の上塗りだ。

だから、勝てる裁判であえて親権を放棄した理由を「今まで自分が弱者だと思っていたけど、違ったから」と答える。弱者であることを利用して取る親権を、彼はよしとしなかった。

主人公はそれを責めないし、彼が泣くのも黙って受け止める。空ちゃんと仲良くなって、親権を取ることを応援するために証人として出席することまでして、だけど彼の意思を尊重する。

主人公は、マイノリティであることを「知られること」から逃げてきたけれど、実際にカミングアウトしてみれば、すんなり受け入れられた。これは、恋人とその子供である空ちゃんが地域に溶け込むきっかけを作ってくれたことも大きい。彼らがくるまで、主人公はマイノリティであることを隠して生きねばならないと思っていた。直接的な差別をされなくてもだ。

人は慣れる生き物なので、田舎であっても、地域の気の良い人に気に入られた人間なら、ある程度信用する。よそ者であっても、ちょっとおかしなところがあっても「良い人だとわかっているからまぁいいか」となる。

これは田舎の良いところであり、悪いところでもある。人間的な繋がりが田舎での人権だからだ。

猟師のおじいちゃんはこの点、適度なお節介焼きでいい仕事をしてくれている。この人が言うなら大丈夫か、という田舎の独特の「なあなあ」の空気がなければ、主人公は孤立待ったなしの状況である。この猟師のじいちゃんがいなかったら詰んでる。わかる、わかるぞ。私ゃ田舎にはくわしいんだ(限界集落育ちの田舎へのトラウマ)

つまり、この映画においてマイノリティとは、ハードルであるように見せかけて、実はありふれた恋愛の形の一つでしかないのだ。

主人公とその恋人が感じていた「自分たちは弱者である」という負い目は「立場が変われば簡単に覆る程度のものだった」という気づきの物語なのである。

そういう意味で、極めて現代的な価値観の、とても正直な物語だ。

マイノリティは価値観が作り上げる幻だ。そこに生きている人間は、同じ人間でしかない。

妻は離婚後、子育てのために折り合いの悪かった実母を頼るが、母親は子供を厳しくしつけるし「夫がゲイだった」という事実を「親のいうことを聞かなかった罰だ」、子供のしつけも「アンタのようになったら困る」と言う。

空ちゃんが元気をなくしてしまっても、実母は自分は必要だからやったと譲らない。(この実母、どう見ても毒親であるし、孫にすら甘やかしがないあたり本当に子どもへの愛がない)

そこに、カフェで偶然、ゲイと思われる男性二人組を見かける。

それを観て彼女の母親は信じられないものを見るような顔をするが、妻はむしろそんな顔をする母の方をじっと見つめる。

セクシャルマイノリティだと思っていた人間は、同じ世界で普通に生きているただの人間であり、好きなだけではどうしようもなかったから自分も離婚するしかなかったのであり、そして彼女は子供を愛するために折り合いの悪い実母に忖度しなければならない。

そして、子供である空ちゃんは「パパもママも、主人公も大好き」である。

好きだけではどうしようもなく、子供は父親と引き離される。仲良くなった主人公とも引き離される。

そして、元妻は実母に頼ることをやめ、空ちゃんのために、父親と連絡をとりあい、空ちゃんが好きな「片手で卵を割る」ことにチャレンジし、空ちゃんがほしがっていた自転車を買い、そして父親に会いにいく。そこに主人公も一緒に行く。彼女は主人公に対して、お前は来るなとは決して言わない。

空ちゃんにとっては、主人公も大好きな人間の一人。だから「好きだけではどうにもならない」事情を子供に押し付けない。

最後に元妻が主人公にだけ「私、実は自転車に乗れないの」と秘密を打ち明けるのもいいなー、と思う。

これは「貴方を一人の人間として対等な存在だと思っています」という意思表示でもある。夫を奪った憎い相手でもなく、マイノリティでもなく、一人の人間として「貴方は私の子供と元夫にとって大切な人」だという対等な関係だと。

これ、普通に男女の関係でも、なかなかこうはなれないじゃないですか。

元夫に対して「マイノリティから抜け出すために利用された」と思っていたのが彼女である。そして、その考えはあながち間違いでもない。

親権を争ううちに「セクシャルマイノリティであることは、常に弱者である理由にならない」ことを知ることになり、そして彼女自身は実母の言動によって身近な「差別」はLGBTではなく「個人の強固な偏見」で生まれることを知ったのだろう、と思う。

差別の被害者であるのは彼女も同じだったし、彼女にとって自分の子供を守ってくれた存在である主人公は「共闘できる仲間」になりえるのだ。もちろん、それで元夫のダメダメなアレがノーカンになるわけではないし、空ちゃんの親権を元夫に譲るわけではないのだけど、少なくとも元夫の現恋人(正確にはよりを戻した元恋人同士だが)とケンカする理由はないよね、っていうある意味の「割り切り」だ。

この関係性は、「好き」だけでは作れない関係だな、と思う。

今後も、彼等は空ちゃんという存在を通して度々会うのだろうし、彼女は元夫の所業を許しはしないだろうし、元夫も許されようとはしないだろうし、主人公が彼女と必要以上に仲良くなることはないだろう。

だけど、マイノリティとか、LGBTとかではない、正直で素直に子供のことを考えた「親権」をめぐる物語としては、限りなくベストアンサーではないかと思う。

ある意味、この「元夫とその恋人とわかりあえないけど、同じ場所には立てる」展開こそがファンタジー的である。ただ、こういう関係の認め合い方が現実にあればいいなー、と思わせるエンドだった。

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