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大正時代の映画の映画『カツベン!』を観てきた

大正時代の映画=活動写真は、サイレントだった。

それどころか、初期の邦画には女性の演者がいなくて、歌舞伎などと同様に女性の役も男性がやっていた。

そんな時代、日本の映画館では映画に「活動弁士」がセリフや解説をつけるという独自の文化があった。

というわけで、そんな日本オリジナルの映画文化である活動弁士を主役に据えたのがこの映画『カツベン!』である。

カツ弁当のことではない。

何だか難しい内容に思えるけれど、そこはコメディ映画に定評のある周防監督だけに、さほど難しいことはなく、笑えるシーンもありでなかなかよかった。

サイレント映画に、独自の説明をつける活動弁士なる存在がある、ということはまぁ、観てればわかるので、そこさえ頭に入っていればいい。女性が映画の舞台に立てるようになったのはこの映画の時代においては新しいムーブメントだった、ということも頭にいれておくと、ヒロインの立ち位置がわかりやすくなるかもしれない。

あと、主人公がウジウジしない感じなのも好感。

立ち直り早い!頭が回る!でもヘタレ!

ヘタレなんであるが、めちゃくちゃ立ち直りが早い上に根が真っ直ぐなので(でも悪事はそこそこに働いている小賢しさがある)イヤな気持ちにもならず、もだもだもせず、偽善者っぽさもなく、すっきりと終わりまで見られた。

古い映画時代へのラブレター、という意味では『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』と同系統なのだけど、もちろん全然内容は違う。個人的にはこっちの方が好き。

エンディング曲と共にすっきりスタッフロールが終わって、あのモノローグで〆るのも良い。あー、観たな~って感じがした。めちゃくちゃ盛り上がる系統の映画ではないけど、いい映画だったなーという気持ちで終われる。グリーンブックと似た感じのスッキリ感かもしれない。

ネタバレ感想は下にスクロールしてどうぞ!











活動弁士に憧れる少年と、女優に憧れる少女が、大人になって再会する、というのが大まかなスジである。

少年・俊太郎と、少女・梅子は、活動写真の撮影現場にいたずらをしかけ、偶然活動写真に撮られてしまう。

その後、活動写真館に忍び込んだ俊太郎と梅子は、自分たちの姿が活動写真に写っていることに観劇する。ここで、俊太郎は二人の子供の乱入を弁士が物語の一部として開設したことに感動し、梅子は自分と俊太郎が思いがけず活動写真に出演していたことに感動する。

長じて、彼等はそれぞれ活動弁士、女優を目指すわけである。

梅子の前で活弁を披露する俊太郎であったが、彼女にプレゼントしようとキャラメルを万引きしたのが大人に見つかって、引越しを控えていた梅子とはそれきりに。

しかし、十年後、俊太郎は詐欺師に騙されて「偽活動弁士」として強盗の片棒を担がされていた。が、偶然が重なって強盗団の資金と一緒に逃げ出すことに成功し、経営の傾いた活動写真館「青木館」に転がり込む。

主人公の俊太郎、割と憎めないのが悪賢さはあっても悪党にはなりきれないあたりで、結果的に持ち逃げした強盗団の金も、最初は交番の脇にさりげなくおいていこうとしたり、青木館で住み込みになった後も決して金に手をつけたりしないんですよね。(だからこそこの金が後で問題になるんだけど)

俊太郎が考えていることは「カツベンが好き!カツベンをやりたい!」だけなんです。

ニセ弁士をやらされていたおかげで、俊太郎のカツベンスキルは割と一流なのだけど、憧れの山岡先生がのんだくれになっているし、青木館の看板弁士は超プライド高いナルシストだしで、弁士になる機会が巡ってこない。

でもめげないで、ちゃんと雑用やるんですよ、この主人公。めっちゃくちゃぽじてぃぶ。そして、泥酔の山岡先生の代役として、得意の声マネで弁士をこなして念願のカツベンデビュー。メンタルが強い。

山岡に「ただのマネじゃねえか!」とキレられ、恋愛ものの映画を独自の下ネタカツベンでアレンジして人気弁士になる俊太郎。

この主人公、マジでメンタルが強いしツラの皮が厚い。

このツラの皮の厚さで、映画監督のコネもゲットする俊太郎。強い。マジでこいつ強いぞ。

邦画でこの手の強メンタルをもっている主人公って、割と珍しいんじゃないだろうかw

茂木先生がライバル活動写真館に引っこ抜かれてしまうものの、俊太郎が順調に人気弁士になったので青木館は安泰……と思ったら、強盗時代の上司だった安田がライバル館にいて、金を返せと俊太郎を追い回す。

その上、ニセ弁士と強盗を追う刑事である木村に、弁士として気に入られてしまう俊太郎。

しかも映画に出演する口利きをしてもらうために、茂木の恋人をやっていた松子=梅子と再会して、更にややこしく。

茂木を引っこ抜いたら今度は俊太郎を引っこ抜こうと、ライバル館経営の社長令嬢に狙われたりもし。

この辺のドタバタ感、人間関係、割と複雑なのにわかりやすく整理されているのはさすがベテラン監督だな~という感じ。

青木館のピンチを、様々な映画のツギハギフィルムに、「色々な映画のシナリオが全部頭に入っていて、完璧にマネできる」俊太郎だからこそのカツベンで乗り切る、っていうのも良かったな~。これ、サイレント映画+カツベンという設定がなければ絶対できない乗り切り方なんですよね。ああ、この時代、この舞台設定だからできるアイデアだ!ってなる。

最初のシーン以外では弁士としてはほぼ映画内で活躍しない山岡さんが、唯一俊太郎を助けるために弁士の技量を見せるのも良い。エモ。

最後のへっぽこチャリンコチェイスも面白かった。

木村刑事に捕まった後、俊太郎、逃げないんですよね。いつかつかまるだろうと思っていました、って。木村刑事も、拘束しない。こいつは逃げないな、ってわかっている。

木村刑事は活動弁士としての俊太郎も見て、ファンになっているから、俊太郎がカツベンが好きで、カツベンが本当にやりたかった人間だってことをちゃんとわかっているんだな。

だから「人生には続編がある」と言ってやれる。こいつは、罪を償ったらちゃんとやり直せる人間だ、と思っているから。木村刑事も映画を愛しているから、映画を愛している俊太郎は必ず映画のために人生をやり直せるって思っている。

いや、木村刑事役の竹ノ内豊、本当いいですよ。いいぞ……!

ところで、少女時代は俊太郎がキャラメル万引きしたために約束を反故にされ、大人になってからは俊太郎が過去の詐欺・盗難の罪でとっつかまったために約束を反故にされた松子さん(ここは普通にかわいそう)ですが、俊太郎はカツベンとして偶然得たコネをフル活用して彼女に女優の道を示す。

松子は多分俊太郎と一緒に逃げて「梅子」に戻っても幸せにはなっただろうけど、それでも俊太郎は「カツベンを聞かせる約束はいつでもはたせるが、女優としての松子はまだ未来がある」と思ったんだろうな、っていう。

それは、多分憧れの弁士であった山岡が「映画は映画だけで作品であり、本来は弁士による説明などいらない」という価値観を、俊太郎に教えたからなんだと思うんですよ。

憧れの活動弁士に、カツベンを全否定されたのに、俊太郎はめちゃくちゃにキレたりしないんですよね。多分、女性が出られなかった映画に松子が出られたのと同じように、映画にもカツベンが表現しなくてもいい世界が広がっていく、ということを感じたのだと思う。実際その後、映画はサイレントからトーキーへと移り変わって、活動弁士の仕事はなくなっていくわけで、山岡の言うことは正しい。

俊太郎は、ただカツベンが好きだ!というだけじゃなく、その辺の空気はちゃんと読む。時代の流れに逆行はしない。その辺が、嫌な感じの主人公にならないところだなーと思う。

山岡は青木館を去り、活動弁士の活躍する時代は終わっていくことを示唆するけれど、俊太郎は刑務所で服役をしながら独房でカツベンを披露して、その声で囚人たちを楽しませる。

もちろん、刑務所に活動写真はないわけで、俊太郎のカツベンは活動写真を見られない場所でも、囚人はもちろん、看守たちも楽しませる。

看守の態度をみていると、独房に入れられてはいるけれど、基本的に俊太郎は模範囚なのだろうなぁ、と思う。(もしかすると勝手にツベンをやってるから、一応規則上の問題で懲罰房に入れられているのかもしれない。でも差し入れのキャラメルを持ってきてくれるし、看守の覚えはめっちゃ良さそう)

松子=梅子が、そのカツベンを聞いて「憎みたいのに憎めない」というのは、2回も(盗賊稼業については意に沿わないものだったとはいえ)俊太郎の盗みのせいで約束を反故にされたのに、曇りのない声でカツベンを元気に語っている俊太郎を憎み切れないってことなんだろう。

高級そうな洋装だったので、松子は女優としてはそこそこ成功したのかな。そういうところも含めて「憎めない」んだろうなぁ、と思わせるラストだった。

エンドロールでカツベン節が流れた後、

「かつて映画はサイレントだった。だが、日本では真のサイレントの時代はなかった。それは活動弁士がいたからだ」

という一文で終わるのがすごく良い。

この映画は、サイレント映画の時代に日本独自の解釈で映画を広めたカツベン文化へのラブレターなんだなぁ。


ちなみに、余談であるが、「字幕」も実は日本映画独自の文化なんである。

海外映画には字幕はなく、吹き替えだけなのだそうだ。

これは、海外のトーキー映画が日本に着た頃、英語を日本語に吹き替えできる人間のほとんどが近畿地方のなまりがあり(移民にそちら出身の人が多かったのだとか)吹き替えが全部近畿地方の方言になってしまう問題が発生したからなのだとか。

そのため、字幕を用いることで皆地方のなまりがある問題を解決した、とのことらしい。それが令和時代の今でも残っているのだから不思議なものですね。

日本以外の国では字幕にするとめちゃくちゃ文字数制限きっつくなると思うので、それで日本以外では流行らなかったのもあると思うけどw

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