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絵本との時間

娘が1歳の頃から絵本を読んできた。

あっという間に読み終わる、小さな絵本を、日々の生活で持て余し気味だった、二人だけの時間に読んでいた。

「子どもが小さなうちからたくさん話しかけましょう」と言われたって、一日中、こんな小さな子どもに話すことなんかないよ、と思っていたわたしには、絵本はちょうど良いきっかけだったのかもしれない。

始めの頃は、あまり絵や文に反応はしないけれど、娘はなんとなく、「これは何だろう?」という様子で眺めていたと思う。

そうして、時々、読んだり読まなかったりしていたら、あるころから、「おしまい」といって本を閉じると、「もっと」というようになった。そして、自分から次に読んでほしい本を持ってきたり、もう一度、同じ本を読んでということもあった。まだ言葉でそれを上手く表現できなくても、読んでいる時間がまだ続いてほしいんだな、ということは伝わってきた。

反応が返ってくると嬉しいもので、わたしも娘の求めるままに読むようになった。そうして少しずつ、絵本の数も増えていった。とはいえ、日本語の絵本がデンマークですぐ手に入るはずもなく、ネットで注文しては、首を長くして待つ日々。一年に一、二度日本へ帰省したときに買ったり、わたしが子どもの頃の本を持ち帰ったりしながら、少しずつコレクションを増やしていった。

絵本は娘の手に届くよう、リビングの本棚においた。だから、娘は自分で出しては眺めたり、お人形に読んであげたりしていた。寝る前にもベッドで眺められるようにと、枕元の小さな本棚に絵本を少し並べた。娘が眠ったあとの様子を見に行くと、たくさんの絵本がベッドに所せましと重ねてあった日もある。

夫と交互に日本語とデンマーク語の絵本を読んだ。今日はお母さんの日、明日はお父さんの日と、娘もわかるようになり、わたしと読むときは日本語の本だけを選んでもってくるようになった。娘が選んだ本を、わたしはただ、読んだ。娘が少しずつ文字がわかるようになり、自分で読めるようになってきても、頼まれればずっと読み続けた。お気に入りの本がどんどん増えていった。

息子が生まれてからもその日々は続く。そして、息子にも同じように絵本を読んだ。読んでと言われて15冊一気に読んだ日もあれば、機嫌がわるくてそれどころではない日もあったが、頼まれればほぼいつでも、何でも読んだ。娘に買った本のストックがあったので、息子は始めの頃からたくさんの絵本に囲まれていたけれど、電車やバスなど、彼の好きなものを描いた本も追ってそろえていった。この本たちはその後ヘビロテで大変なことになったが、おかげで親子でたくさんの車や電車の名前を日本語で憶えた。

育児は楽しい時間ばかりではなくて、子どもとの衝突は避けられないけれど、絵本はそれを引きずらせない、それも絵本のもつ力。本を一緒に読むには、それまでどれだけ怒ってたり辛い気持ちであったとしても、読む側がいったんそれを切り替えないと読めない。そうして、なんだかなぁという気持ちで読み始めても、お話を読み終えるころには気分が変わっていたりするから不思議なものだ。叱られた子どもも、悲しい気持ちが救われる時間だったのかもしれない。そうしてわたしたち親子は絵本に育ててもらってきたのかもしれない。

今でも絵本はリビングの本棚に置いたまま。静かだなと思ったら、子どもたちが絵本を開いてじっと見ていたなんていうこともある。でもそれはそこにあった「本」という物体に興味があったからではなく、きっと、表紙をめくった先にあるお話の世界を、絵を見ながら再体験していたのだと思う。お話のもつパワーというのは強力で、読まなくなって随分と時間が経っていても、心の中に残っていたりする。そしてイラストがさらに子どもの心を惹きつけ、記憶を呼び覚ます。YouTubeやゲームが大好きな小学生になった今でも、ふと見ると、絵本に吸い寄せられているかのように、じっと座って読んでいるときがある。幼い頃に読んだ絵本は、もうストーリーもイラストも全部知っているけれど、それでもまた手に取りたくなるのだから、すごい。

子どもたちと一緒に本を読んだときの記憶は、今でも本のページをめくると、ふわっと目の前に広がる。読む前のあのワクワクした気持ち、身体をくっつけて読んだ時の温もり、わかっているけれどそれでも毎回笑ってしまうオチ、そして、絵本を通して一緒に過ごしたたくさんの時間。もしかしたら子どもたちもまた、自分でページをめくりながら、それを思い出してくれているのかもしれない。絵本がくれた、わたしたち親子にとってのかけがえのない時間。


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