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無職、無職、無職!


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四月に入り天気の良い日が続いて朝の肌寒さに上着を着るが、昼は暑くて上着を脱ぐ朝夕の寒暖差がある季節。
県境の大きな川沿いの何もない河川敷、川から土手までは広々と雑草と少し土が剥き出しになった場所があって野球グランドには少し狭く、サッカーグラウンドの横幅には広いぐらいの中途半端な空間があった。
少し急な土手からコンクリートで作られた階段を川沿いに降りたところにはひとつだけベンチがあって、シャツとスラックスを履いた男がベンチに深々と背中を預けて座っていた。
昼過ぎの太陽は頭上で輝いていて、雲ひとつもない晴天を見上げる黒縁のメガネを掛け、額を出した髪、痩せ形の中年男性の顔は笑っていなかった。
そうか、もうこの季節の外は上着なしでも大丈夫なのか、と淵田実(ふちだみのる)はYシャツの襟元を緩めながら、春めいて白く薄くなりはじめた青空を見上げた。
誰が見ても「いい天気だ」と言いたくなる快晴の下だったが、。淵田の心は晴れないのには理由がある。
なぜ見上げた空に虚ろな目を晒しているのかというと淵田がこの時間に河川敷のベンチに座り、何もせずに空を見上げる事が出来ているからだった。
淵田は今年の春に大学を卒業して最初に入って二十年近く、長く勤めていた会社を退職して無職になっていた。
会社を辞めた理由は上がらない給料やら毎晩遅くの残業など色々な不満が溜まった結果だった。
だから何か決定的な理由があって辞めたわけではなかったので、周りも驚きつつもお疲れさまでしたと一通りの挨拶を交わした後は粛々と有休消化をして特に強く引き止められることもなく、あっさりと退職した。
本来退職する前に転職活動をして、新しい生活を始めるべきだったのだが、退職前の引継ぎや、独身男性の誰かに心配されることもない気楽さもあって転職活動をせずに会社を辞めた。
その結果、春の陽気の昼下がりに何もせずに河川敷横のグランドのベンチで何もせずに座っている。
東京都内のオフィスで忙しく働いているとき、偶に打ち合わせ先に向かう電車の中から見えた平日昼から釣り堀にいる人間は普段なにをしているんだろうかと疑問に思った事があった。上司に仕事を急かされ、顧客にクレーム入れられて頭下げに態々こうやって電車に乗って謝罪に行かなくても良いんだと思うとうらやましかった。
そんな淵田もいざ無職になってみると態々釣り堀には行こうとは思わなかったが、なんとなくああいう普段やってないことをやってみたいという気持ちも無職最初の一週間はあって、外出してみたが意外と何をするにもお金も掛かり、外出するたびに増えない貯金が減っていくのですぐに止めた。
だからと言って部屋にこもっていても気が滅入るので、起きたら着替えて家の周りの散歩することにした。
ちょうど家の周りには大きな川があってその土手を歩くだけでいい散歩にはなった。
だが淵田は歳のせいかすぐに疲れるので土手を下ったところにあるベンチに腰を掛けて、休んではまた散歩に行くという行動パターンが定着しつつあった。
毎日散歩というのは健康的な生活を送っているとは思うが、こうやってベンチに腰を掛ける度にこれからどうしようと将来に対する不安に押しつぶされそうになっている自分がいた。
だったらさっさと再就職して働けばよいということになるのに、なぜかそういう気持ちに淵田はなれないでいた。
それが生活が掛かってなくて扶養者などの自分以外の人間の生活の心配をしなくていい者の余裕だと言えば働きたくても働き口が無い人には申し訳ない気持ちになるが、自分としては毎日通ったオフィスで多くの人に囲まれて、感情的になったり感情を押し殺したりしながら続けた生活から一度離れてみると、もう一度あの社会の輪に入っていこうとする気力が沸かない。
じゃあ次何をするのか?
そんなことが分かっていたらこんなベンチで背を預けてぼんやりと水面を見つめるなんて事はしてないよなあと淵田は遠くに流れる川面をぼんやりと見ていた。
結局働かなければいつかは貯金が切れて生きていけなくなるのだから、働かなければいけないのにやる気が出ない。
「あーどうするかなあ……」
淵田は俯いて下げた頭に白い大きなサッカーボールが当たりメガネがズレる。
プラスチックフレームのメガネをずらされたので、淵田は直しながらボールが飛んできた方を向く。
そこには上下の紺色のジャージに上から女の子らしく灰色のスカートを履いた長い黒髪の女の子が立っていた。
「ごめんフッチー当たっちゃった」
袖を捲って白い腕が見えていて若々しく、長い黒髪はまとめていないで学校の体育の授業中と言うよりは放課後の動きやすい格好をしている女子高生のようだった。
「ぼーっとしてるところに当たるとサッカーボールだって痛いんだぞ!」
「ごめんごめん、思ったより飛んだ」
女の子は足を振って見せた。
「遼子(りょうこ)ちゃん待って」
ジャージ姿の女の子の後ろから遅れてゆっくり歩いてきた女の子が声を掛けた。
「遼子ちゃんはボール蹴るの上手くなったね。フッチーの頭にピッタリ当たったね」
ジャージの女の子よりは背が低くビッグサイズのトレーナーとハーフパンツ姿のラフな格好だった、トレーナーからそのまま太股が出ているように見え、子供のように細い足だった。
「ちょっと優羽(ゆう)、狙って蹴ったのは内緒にしておいてって言ったじゃん」
「そうだっけ?」
背の低い女の子はあまり反省している様子もなく、柔らかい髪を触りながら笑っていた。
「準備してないヤツ狙ってボール蹴るな、危ないだろ」
「フッチーがこの前、人をちゃんと見てボールを蹴れって言ったじゃん」
「それはパス交換の時だろう」
淵田はベンチを立ってぶつけられたサッカーボールを拾い上げる。
「顔は危ないし、遠くに蹴り飛ばしたかったらもっと人がいないところでやれよ」
ボールをジャージ姿の女の子に投げて淵田は再びベンチの真ん中に腰を下ろした。
「優羽どうする?」
「少し休憩しよう」
ボールを持ったジャージの女の子は淵田の右側に腰を掛けた。
そして淵田を挟むようにトレーナー姿の女の子は左側に座る。
「はぁ」
「どうしたのフッチー?」
「なんでもねえ」
「なんでもなく溜息なんかつかれるとちょっと腹が立つんですけど」
不満があるなら目を見て言えと遼子は淵田を睨みつける。
「ねえ、今日は一緒にサッカーボール蹴らないの?」
「別に俺はボールを蹴りに来たんじゃない」
「じゃあなんでスニーカー履いてるの?」
優羽が淵田の足元を指さす。
「これは散歩しやすいからだ」
淵田は白いおろしたばっかりの黒い三本線が入ったスニーカーを履いていた。
「蹴るつもりで今日も来たんじゃん」
ふふと遼子は笑う。
「今はボールなんか蹴りたくないと思ったんだ」
淵田は顔を背ける。
「フッチーはなんだかめんどくさいよね」
「なんだそりゃ」
「だってこんな平日昼過ぎにおじさんと一緒にボール蹴ってくれる女の子なんていないよ?」
「そうそう、フッチーさんみたいな無職で気難しいおじさん相手にしてくれる若い女の子が、金銭などの対価もなしにこうやって間に挟んで相手してくれるなんてないよ?」
両脇に自分より若い女の子に公園のベンチという狭い場所に並んで座っているのは、いかにも夜のお店にありそうな状況だが、今は太陽の下、二人とも運動しやすい格好なので色気とは無縁の恰好をしている。
「誰も構ってくれとは言ってない」
溜息をついてまた淵田は空を見上げる。
「ほらそういう態度」
遼子は淵田の鼻先に指を向ける。
「そういう不満顔しながら何も言わないのって、めんどくさい」
遼子は淵田に突っかかった。
「一緒に運動しようってこの前決めて、そうやって靴履いて準備してきたのにやらないってただの構ってちゃんじゃないの?子供っぽい」
遼子の正論に淵田は言葉に詰まった。
「ぐう」
「ぐうの音しか出てないね、フッチーさん」
隣で優羽が身体を横に向けて淵田の方に背中を預けて笑う。
「こら身体を預けるなって」
肩に優羽の温かい体温を感じて、淵田は身体を背ける。
「ちょっとベンチ三人だと狭いんだからこっちに来ないでよ」
遼子が腕を伸ばして淵田の肩を押す。
「なんなんだよ一体……」
二人の自分より人生経験が半分以下の女の子に囲まれながら、淵田はついこの前二人に初めて会った事を思い出した。
二人に初めて会った日も、こうやって一つだけしかないベンチで座っていて、ただ岸辺の対岸にある風景をぼんやりと眺めていた。
普段着も少ないので、仕事に行くとき同じシャツとスラックスでジャケットは脱いで畳んで持っていたので仕事をさぼっているサラリーマンそのものの姿だった。
「すみません」
ボールが転がってくるまで近くで女の子がサッカーボールを蹴ってる事にすら気が付かなかった。いや気がついたとしても中年のおっさんがジロジロとスポーツする女の子を凝視するわけにもいかないので無視してただろうが、それでも全く遼子と優羽がサッカーボールを蹴ってる事に気が付かなかった。
二人ともベンチに座っている淵田にボールが転がってしまい、どうすればいいのか近づいていこうとしたが一瞬躊躇した。
淵田は足元に転がって来たボールをその時は何にも考えずに立ち上がって、足元の真新しいサッカーボールを見て懐かしいなあと思った。
高校までサッカーをやってたので淵田は自然に、ボールを蹴るなんて久しぶりだったがキックのフォームは意識せずに足首を開いてゴルフのパターヘッドのように足を横にし、正確にボールの真ん中を叩いて蹴られたボールは、荒れた芝生の上でもまっすぐと伸びて遼子の足元にボールは転がっていった。
前にいつサッカーボールを蹴ったんだろうか思い出せないが、こういう運動の動作は歳をとっても覚えてるものなんだなあと淵田は笑った。
ぴったりと足下にボールが帰ってきて遼子は少し驚いた様子でボールを拾い上げる。
そして優羽の方を見るとボールを投げて渡した。
遼子からボールを受け取った優羽は頷くともう一度ボールを淵田の方へと両手でサッカーのスローインのように頭越しにボールを投げた。
跳ねながらボールは淵田の方に飛んで行って、淵田は立ったままなので腰の上まで跳ね上がったボールを上手く身体を使ってコントロールすると足下にボールを止めた。
なんだ馬鹿にされているのかと思ったが、とりあえずボールをもう一度今度は優羽へとパスをして返す。
同じように優羽の足下にぴったりと返すことができてやっぱりサッカーボールを蹴ることは単純で楽しいと思いながらも、多分高校生ぐらいの二人組の若い女の子が自分みたいなオッサンをからかっているのではないかと訝しんでしまった。
目配せして遼子と優羽はゆっくりと淵田の方へと近づいていった。
「なにか用でも?」
警戒する淵田を見ても二人は怯まなかった。
二人とも若いが、背の高さは高校生ぐらいだった。
黒髪長髪で手足が長く、柔らかな胸、細い腰がの女性らしい遼子と、髪質が軽く丸みのあるショートボブカットの髪形で背が低くい小学生のような優羽の二人が並ぶと何もかも反対でデコボコ・コンビという単語を淵田は久しぶりに思い出した。
「おじさん仕事さぼってるの?」
背の高い女の子が昼から河川敷横のベンチで佇んでる理由を率直に聞いてきた。
「サボりじゃない」
「じゃあなんでこんな昼過ぎの明るいときに、こんなところで一人でいるの?」
今度は背の低い方の女の子が聞いてきた。淵田はこの子は見た目ほど柔らかい子ではないのではと思った。
余計なお世話だと怒らずに対応できたのは、聞いて来た二人が自分よりもずっと若い女の子だったので、関係ないだろとか攻撃的に対応することがなかった。
「おじさんは今は仕事してない」
「無職ってこと?」
「・・・・・・そうだよ」
確かに仕事してなくて、なにも決まった肩書きがなければ無職でしかない。
自分でわかっていても他人に言われると心に突き刺さる感覚を淵田は覚えた。
ましてや自分よりも若い女の子達にいわれればなおのことダメージを受けた。
「やっぱり同じだったね」
「優羽はやっぱりよく見えているのね、私は仕事サボりだと思った」
「仕事サボっている人だったらもっと有意義に時間を使ってるよ」
なんだ勝手に話が進んでる気がして淵田は身を引いた。
「おじさん、無職だから暇でしょ?」
暇だから無職ではなく、無職だから暇というのは忙しい無職の否定のような気がしたが、確かに淵田は暇だった。
「私たちも無職なの」
遼子が胸を張って淵田を見る。
「私は大学受験失敗して今年から浪人生、優羽は高校中退してそれからずっと無職」
「おじさんはいつから無職なの?」
「今月からだけど・・・・・・」
「じゃあ私が一番先輩無職だね」
今度は優羽が腕を組んで胸を張った。
川面をバックに妙に自信がある二人の姿を見て、淵田はなんでこんなに堂々とできるのか不思議だった。
初対面の人間に堂々と無職ですと言えるのは、まだなんとでもなる若さの特権なのだろうか?
「私は無職になったばっかりで毎日家で何して良いかわからないから、先輩無職の優羽に相談したの。そしたら優羽が毎日軽い運動はした方が良いっていうから河川敷に来たんだけど、なにやって良いのかわからなかったからとりあえずサッカーボール買って蹴ってみたんだけど上手く蹴れなくて」
どうやら二人ともサッカーに関しては素人の様だった。じゃあ何でサッカーを選んだのかは、去年のワールドカップか何かの影響だろうか?
「おじさんサッカーできるんでしょ? 暇なんだから教えてよ」
遼子が淵田はどうせ暇なんだろうと決めつけた。
確かに暇以外何ものでもないので、その点について淵田には反論できなかった。
「あーYouTubeとか見ればけり方とか教えてくれるんじゃない?」
「運動に邪魔だから置いてきた」
「私もー」
二人とも今時の携帯依存症の若者とは思えない潔さだった。
淵田は眼鏡の位置を直しながら考えた。
これは新手の詐欺なのか?
若い女の子が冴えないオッサンに近づいてくるのは大体において金銭的な見返りを求めて来ると思っていた淵田は二人を見ながらもう一度考えた。
背の高い遼子はスレンダーで顔もよく、十分魅力的だったがどこか攻撃的に見えた。
優羽はウェーブの掛かった柔らかそうな髪と下がった目尻と合わさって笑顔がデフォルトで優しそうだった。
なんだか噛み合う感じがしない二人が同時にサッカーを教えてくれてと言っている姿は妙な真剣味があった。
それに暇なのは紛れもない事実だったので、まあ良いかと溜息つきながら淵田が了承すると二人ともその場で跳びはねて喜んだ。
「ありがとおじさん、あっおじさんの名前は?」
「淵田、淵田実だ」
「わかったフッチーね。私は岩本遼子(いわもとりょうこ)」
「私は新御崎優羽(にいみざきゆう)」
コミュニケーション初手であだ名呼びなのかよとジェネレーションギャップを感じた。
「おじさん年齢は?」
続いて優羽が遠慮無く淵田に年齢を聞く。
「今年厄年だ」
「六十一歳かそうは見えないね、若いね」
「四十一だ!」
結局始めて会った日に三人は一時間くらい基本のインサイドキックの蹴り方を実演交えて淵田が教えた。
二人とも体力はあったが、球技自体はあまりやったことがなく足の振りが堅く。まっすぐボールが進まなかった。
「今日はこれくらいにしよう」
ボールを蹴った後、遼子が声を掛けると少し汗ばんだ淵田と優羽も納得した。
汗を流すくらい真剣に二人の女の子はボールを蹴っていた。
「じゃあフッチー明日も暇でしょ、またボール蹴ろうよ」
「明日もやるのか?」
「えっだって出来てないじゃん」
遼子はなんで出来るようになるまでやらないのかという曖昧さを許さない真剣な瞳を淵田に向けた。
その気骨ある眩しさに淵田は目が潰れそうになった。
「フッチーは明日予定あるの?」
「あると言えばある・・・・・・」
全く予定がないのに何故かぼかして言った。
「フッチーさん、どうせ暇なのにどうしてそういう嘘をつくの?」
優羽の突っ込みに淵田は反論せずに背を向けた。
「またねフッチー、今日はありがとう」
振り向くと二人が手を振っていた。
無職、浪人っと言っていたが手を振る姿はまた明日学校でと言っている小学生みたいだった。
次の日、半信半疑で河川敷の同じベンチの前に来た淵田は本当にまた来た遼子と優羽の二人に同じようにボールの蹴り方を教えた。
淵田も人にボールの蹴り方なんて教えたことがないので、前日適当に検索して探したYouTubeの動画を大いに参考にしつつ、基本的なパス交換が出来るようにボールの蹴り方を教えた。
全然他人の三人がベンチに集まってサッカーボールを蹴る事になるのは不思議な感覚だった。高校の部活でサッカーボールを蹴っていた時は試合に勝つためという目的があったが、今回は何も目的がない。ただ運動するんだったら少し楽しくやりたいとう簡単な目的のためだった。
ただサッカーボールを蹴るのは一人でもリフティングくらいは出来るが、対面のパスができるというのはもっと面白い。
相手の足下に自分の足下にあるボールを蹴って届けるという事だけなのだが、その単純な事が意外と出来ないので面白い。
「なにニヤニヤしてるの気持ち悪い」
「はぁ?」
淵田がなぜ三人でベンチに座っているのかを思い出しているとつい笑っていたらしく、それを肘を付きながら遼子がのぞき込んでいた。
「優羽とベタベタしているからってそんなにニヤニヤしないでくれる? キモい」
「おれじゃなくてこっちが身体寄せてくるんだけどな」
さっきから背中を預けて来た優羽はベンチに足を上げて完全に寄りかかって昼寝をしようとしていた。
生地が厚手で質の良さそうなトレーナーから暖かい体温を感じながらも淵田はこれ以上密着されると下手すれば遼子に通報されるかもしれないと思って必死に優羽の背中を押すが、本人はまったく断ることなくすでに反応がなくなっている。
「やだやだ若い子にくっつかれて喜んじゃってさ」
ベンチの端に足を向けて遼子も淵田から背を向ける。
「この子はいつもこんな誰にでも甘えてくる子なのか?」
淵田の質問に遼子は少し驚いた顔をした。
「まあフッチーはその点、なんか隙を作るの上手いのかもね」
「なんだって?」
話の論点が飛躍した気がして淵田が聞き直す。
「優羽はそうやって誰にでもくっつかないで他人と上手く距離感詰めないで誰とでも平等に距離取ってそういう隙間みたいなところに入ってくことなんかなかったから、フッチーはその点凄い」
「褒められてるのか?」
淵田には猫みたいに軽くて気ままに近づいてくる優羽にはそういう印象がなかった。
「優羽は頭よくて学校でもずっと成績一番だったの。誰とでも話が合わせられて、先生にも人気があって、お嬢様でなんの不自由も無いの」
淵田はこの子達が少し前まで高校生だった事を思い出した。
毎日同じ制服を着て学校に通っていたのだ。
遼子のジャージの上からスカートを履いているのはその名残かとも思った。
「あっだからなのかな、学校辞めちゃったの」
遼子は少しだけ背を丸めた。
淵田は遼子の背中を見ながら、その先の川に掛かる大きな鉄橋が見えた。
橋の上を引っ切りなしに車が行き交っていた。
「私にさあ何にも言わないでいきなり学校辞めるんだよ?」
「友達に相談することじゃないかも知れないだろ?」
「何それ」
会社を辞めるということは自分の事なので誰かに、同じ組織に属してる人間には相談出来なかった。仲がよかったら尚のこと相談することは難しい気がしたが、それは同じような出自同じような能力を持った人間が卒業までを過ごすのが当たり前の学校に通う学生には難しい事かもしれないと淵田は思った。
そうするとこの甘えてきている小さな女の子は随分と大人っぽい考え方をする子なのかも知れない。
「私は辞める前に言って欲しかった」
「学校辞めるの止めたかったのか?」
「それは優羽が決めた事だから別に良いの。ただ学校行ったらいきなり居なかったのがやだった」
そう言うと遼子は顔も見せずにベンチから立ち上がった。
「フッチーはなんで会社辞めたの?」
「わからん」
淵田は腕を組んでハッキリと答えた。
「自分で決めて辞めたんじゃ無いの?」
「そうなんだけどなんか逃げ出したくなって辞めてしまった」
「ふーん、嫌だったから辞めたんなら理由あるじゃん」
「そうなのだがみんな仕事なんて嫌々やってるものだろ?」
「嫌だったから自分で決めて辞められるのだから良いじゃん。学校なんて親のお金で行かせてもらってるんだから自分だけで辞められるもんじゃ無いからさ」
遼子は諦めたような顔で足をブラブラと動かした。
淵田には遼子も外見の割には随分と大人びている気がした。自分が高校生の時に親の金で学校行かせてもらっているなんて考えられただろうか?
「大人は良いよね、自分で無職になれるんだからさ」
「子供とか居たらそんなに簡単に仕事なんて辞められないと思うけどな」
「フッチーは簡単に辞めたの?」
「まあそれなりには悩んだよ」
「そうなんだ・・・・・・」
遼子は腰に手を当てながら川面を見ていた。
風に髪が靡いていた。
「ねえ、喉渇いたから飲み物買って来るけど何がいい?」
コマーシャルフィルムのようなハッとする笑顔を向けられて淵田は言葉に詰まった。
「ああ、じゃあコーヒー飲料だったらなんでも」
「えっ運動中にコーヒー飲むの?」
「なんだよ、変か?」
「とりあえずなんか買ってくるから後で自分の分はお金出してよ?」
「お金は?」
「なけなしの千円札が一枚ある」
「先に渡そうか?」
淵田はポケットの小さな小銭入れを出そうとする。
「後でいいよ」
そう言うと遼子はすぐさま土手を駆け上がって近くのコンビニに走って行った。
あっというまに軽々と土手の階段を上りきったのを見て、やっぱり遼子は運動神経はあって元々は活発な女の子だったんだろうと思わせた。
自分とは正反対の誰からも好意を持たれて、いつも人の輪の中心にいるそんな明るい女の子なんだろうなあと淵田は思った。
「それに比べて・・・・・・」
まだ自分に背中を預けて寝ている優羽を見て、悪いことをしてるわけでもないが、体温を感じる事に伴う罪悪感から肩をゆっくりとずらして、遼子が開けたスペースに移動しながら優羽をゆっくりと身体を移しながら、なんだか終電近くの電車で眠った女性に肩を預けられて困った事を思いだした。
「うーん堅い」
淵田を端においやって、ベンチに仰向けになりながら優羽は目が覚めた。
「起きたのか?」
「うん、別にさっきは目閉じていただけだからずっと起きてるよ?」
「何だよそれ」
「いやあ遼子ちゃんが私の事しゃべり始めたから、なんか声掛けづらくって」
優羽は寝たふりをしていただけだった。
「聞いていたんだったらすぐに身体起こせよ」
「なんだか私の話していたからちょっと今起きるのも気まずいかなあって」
遼子が優羽が学校を辞めた話をずっと聞いていた。
「おまえらこんな毎日会うくらいなんだから仲が良いのかと思った」
「毎日あって一緒に運動するようになったのはつい最近だよ。私が学校辞めてからあんまり連絡とかもしなかった、気まずくて」
ベンチに寝転がって空を見上げながら優羽は淵田に語る。
「だからね遼子ちゃんから大学受験失敗して浪人になちゃったって聞いたときはすぐに身体が動いて初めて遼子ちゃんの家まで押しかけたの・・・・・・LINEとかじゃなくてすぐに顔をみたいなあって」
優羽は空を見上げるのがまぶしかったのか、手首で目元を塞いだ。
「それでね会ったときに最初に言ったの」
優羽は空に向かって両手を広げる。
「おめでとう、私と一緒の無職だね! 古い言葉で言えば穀潰し仲間だよってね」
「酷いな」
起き上がってベンチに座り直して、優羽は淵田を見る。
「遼子ちゃんはみんな慰めに来たけどおめでとうって言いに来たのは優羽だけだってめちゃくちゃ怒ってた」
優羽は思い出しながら腹を抱えて笑っていた。
「それからかなあ、なんだか毎日会って色々な話をしてるの」
優羽はとっても楽しそうだった。
「学校の時はあんまり話さなかったけど、同じ無職になったら凄く話すようになったんだ私たち、変でしょ?」
「まあ普通の関係じゃ無いかもな」
仲良くボールを蹴ってる二人はとても楽しそうで、小さい頃からずっと仲のよい友達だと思っていた。
「私も学校辞めてから忙しかったから、遼子ちゃんが暇になって一緒に遊んでくれるの凄く嬉しい、いまこうやってお日様の下でボール蹴って遊んでるなんて不思議な感じなんだ」
「忙しかった?」
優羽はしまったという顔をしたが、すぐにまあ良いかと自分に言い聞かせた。
「おばあちゃんが死んで相続だなんだ一族の遺産配分だなんだのパワーゲームがはじまちゃってさあ大変だったの。うちのお父さんとお母さんそう言うの苦手だったからおばあちゃんが残した遺言状を盾に何度か裁判したりして、私もすっかり巻き込まれたというか、たいして頭のよくない人たちにせっかく残してくれた遺産を好き勝手にされるのも癪だったから学校やめて真剣に相手して、ようやくこの前一通りの裁判終わってやっと落ち着いて・・・・・・」
優羽の話しを聞いて淵田は開いた口が塞がらなかった。
「凄い話しだな」
「別に凄くはないよ、ただあの時戦わないと、おばあちゃんの遺産が他人みたいな人に取られちゃうのがやだっただけ、そのおかげでまあ毎日慎ましく暮らして行けば一生困らない額の資金が確保されたからまあ良いかなあって」
あっさりと優羽は身内にゴタゴタが会った事を語った。
「あんまりこう言うの聞かない方が良いんだろうけど一生困らない額って?」
「うーんまあドバイで豪遊するにはほど遠いけど、それなりには手元で自由に動かせるお金持ってるよ?」
そう言って優羽は指を一本立てた。
「単位は?」
「そこは想像に任せるよ」
千万だろうが億だろうが、逆立ちしても淵田には手が届かない金額だった。
「そりゃあ働かなくて良いんだから無職になるな・・・・・・」
淵田はやっと無職の先輩が本当にエリート無職であることを理解した。
「フッチーさんもそれなりにお金持ってるんでしょ?」
「いやほとんど貯金なんてない」
「えっそうなの? 四十歳超えて資格もコネも無くて会社辞めて、前の給料維持できるくらいの仕事にありつけるの?」
淵田には急に一番背の低かった優羽が大きく見えた。
「貯金も無しに、ただ単に典型的なミッドライフクライシスで会社辞めて大丈夫なのフッチーさん?」
「ミッドライフクライシス?」
「ほら本とかで良くでてくる「中年の危機」って、三十代、四十代でこのままで良いのか?って将来の不安から来る身体的精神的不調に襲われるってやつ」
指を振りながら優羽はこれくらい知ってるでしょと笑う。
「そんなの聞いたこと無い」
「あーほら厄年とかってあるじゃない、あれって結局昔からそういう現役リタイヤする年代で色々な事に悩み始めるから、そのときに変な勢いで転職とか離婚とか大きな決断をしない方が良いって書いてたよ?」
「つまり・・・・・・」
「さっきの話だとフッチーさんは典型的なミッドライフクライシスじゃない?」
優羽が起き上がってベンチの背もたれに身体を預けると、淵田は頭を抱えて下を向いていた。
「ああ、典型的な奴だったのか・・・・・・」
「ほらお医者さんとかカウンセラーとかの話を聞いてからとか、新しい職業を見つけてから転職して方が絶対未来の自分の為になったのに」
「やめろそれ以上は俺に効く」
淵田は手を伸ばして優羽の言葉を遮る。
「ふふ、やっぱり淵田さんはいい人だね」
「なんだそりゃ」
「そうやってさ、全部自分のせいにして他人に責任転嫁しないところ、良いところだと思うよ。行き過ぎた自己責任論はすきじゃないけど、やっぱり自分の事を考えられない人は私嫌いだな」
大きな溜息をついて淵田はベンチに横になった。
「ああ、俺も我慢して会社にいた方が良かったのかな?」
「でも会社にいたらこんな平日にベンチで横になってなかったんじゃない?」
「そんな事のために長年勤めてた会社辞めたのか俺は・・・・・・」
「損得だったらもったいない事したね」
優羽は目を細めて笑う。
「でも、まあそういうのだけじゃないからね、何かずっとやってきた事を辞めるのは」
優羽はマスコットの様にかわいい女の子なのに。淵田よりも色々な事を経験してるのか言葉に説得力がある。
「フッチーさんはこれからも頑張れば良いんだよ」
仰向けにベンチに寝転ぶ淵田の顔を優羽はのぞき込んだ。
「本当に仲が良いわね貴方たち」
ベンチの後ろから遼子が声を掛けた。
「俺はこの子が苦手だ」
「みんなそうじゃない? ズバズバ言いたいことだけ言うんだからさ」
「えっ酷い」
遼子は笑いながらコンビニで買ってきた飲み物が入ったビニール袋を差し出す。
中にはコーヒー飲料、スポーツドリンク、炭酸飲料、お茶など色々あった。
「好きなの持っていって」
「じゃあ私この炭酸で」
「俺はコーヒー」
遼子はスポーツドリンクを取る。
また三人でベンチに座って川面の方を見る。
まだ昼過ぎで太陽は暖かく、まばらな芝生の上を風が凪いでいた。
「ああ、本当だったら私は今頃大学行っていて、毎日新しいこと色々やっていたんだろうなあ」
遼子は悔しそうに空を見上げる。
「俺も上司にガミガミ言われながらオフィスで仕事してたな」
淵田は足を開き頭を大きく下げながら懺悔するように項垂れた。
「私は特に変わらないから、これからも変える予定無いし」
ほぼ同時に遼子と淵田は優羽を睨み付ける。
「二人とも怖いよ~」
「優羽が悪いの! 悪くないけど!」
遼子が腹正しい気持ちを抑えていたのが我慢できなくなったのか、勢いをつけて腰を上げた。
「ああもう絶対来年は大学合格するんだから!」
「俺も早く再就職先見つけて無職を卒業する!」
釣られて淵田も拳を握って立ち上がって声を上げた。
遼子と淵田はお互いの目を見た後、固い握手をした。
「ずるい私も握手したい」
「なんだそりゃ」
「フッチーの左手空いてるよ」
言われるがまま優羽は淵田の左手を握った。
「なんだこれ」
「無職同士の握手」
ベンチ前で三人は謎の連帯を示した。
「いつまで握ってるの?」
「すまんすまん」
遼子に言われて慌てて淵田は手を離した。
「ちゃんと飲んだペットボトル、ゴミ袋に入れてね」
「はいはい」
淵田は飲んでいたペットボトルを足下に置いていたので、遼子にちゃんとゴミを出さずに片付けろと注意された。
「あと二本残ってるな」
ビニール袋の中にはお茶とエナジードリンクが入っていた。
「そうだね」
「よしじゃあアレやるかあ」
「アレ?」
淵田はニンマリと笑って空っぽのペットボトルを二本持ってベンチの前から川に沿って歩数を数えながら歩き始める。
「一歩、二歩、三歩・・・・・・」
遼子と優羽は不思議そうに淵田の遠ざかる背中を見た。
「十八、十九、二十歩、これぐらいか?」
数え終わると淵田は肩幅より少し広い、片足で届くぐらいの幅にペットボトルを置いた。
「もうちょっと広げるか・・・・・・」
微妙にペットボトルを地面に立てる位置を調整してから声を掛ける。
「残りの飲み物争奪戦パス通しゲームやろうぜ、この間を十回正確に通したらそいつの勝ちだ」
「えー遠くない?」
「フットサルのコートだとこれくらいの幅があるから、これくらいの距離でちゃんと通せるようにならないとゲームにならない」
淵田が手を広げてボールを呼び込む。
「なんだ無理そうか?」
淵田の挑発に乗るのはちょっと嫌だったが、優羽はやる気があるみたいだったので遼子は淵田の提案に合わせることにした。
「じゃあ私からやるよ」
優羽ははいどうぞとベンチの脇に置いてあったボールを取って遼子に渡した。
唐突に無職三人による、残った飲み物争奪戦のマーカーの間にボールを通すゲームが始まった。
「まっすぐ蹴れば良いの?」
「そうだ地面に置いたペットボトルの間を通れば成功、十回通したらやつから抜けてく」
ボールを置いて、約二十メートル先に立つ淵田に向かって遼子は躊躇無くボールを蹴った。
「あっ」
ほんの少しのずれが二十メート先では大きなずれになる、遼子が蹴ったボールは徐々に斜めになって、淵田の手前に置いたペットボトルをギリギリ掠めて通った。
「危なかったな」
「当たったらだめなの?」
「だめだパスを受ける相手の足下にボールを正確に届ける練習だからな」
大きな声で淵田と遼子はやりとりする。
数メートルの短い距離だったら出来てるやりとりが長くなると、より正確性を求められるので緊張する。
「じゃあ二本目」
遼子は最初の一本よりも緊張した面持ちで二本目を蹴ると、ボールは綺麗に蹴り足から押し出されて淵田に届いた。
「良いパスだ」
真っ直ぐ飛んできたボールを右足を前に出して淵田は足の裏で止めた。
やっぱり遼子は運動神経があって、すっかりインサイドキックをマスターしたようだった。
だが回数を重ねるごとにボールの軌道は右に左に少しずれていった。
「九回目!」
九回目のボールはペットボトルの内側ギリギリを通っていった。
「あと一回」
遼子の九回目のパスをトラップした淵田は正確にボールを遼子に返した。
最後の一回はこれを通せば終わりという安心感よりも、これを失敗したら今までの成功が水の泡というプレッシャーの方が大きかった。
遼子は最初は疑問に思わなかったが十回って結構難しいのではふとボールから顔を上げてもう一度対面の淵田の顔を見るとニヤニヤ笑っていた。
「ムカつく」
まるで失敗するだろう挑発のような淵田の表情に遼子は腹正しい気持ちになったが、逆に絶対通すという気合いが入った。
「十回目!」
幾分強く蹴られたボールは芝生の上を少しバウンドしながら走った。
遼子はしまったと思ったが、ボールは跳ねながら微妙に右カーブが掛かりながらもペットボールの間を無事通過した。
「やったー」
両手を広げて、遼子はその場で跳ねながら喜んだ。
「遼子ちゃんすごい、すごい」
「どうせフッチー失敗すると思ってたんでしょ? ざまーみろだね」
優羽と手を合わせて喜んだあと、淵田の方を見て遼子は舌を出した。
「じゃあ次」
「私かぁ」
優羽は淵田から戻されたボールを手に持ってボールを置いた。
「行くよー」
さあ来いと淵田も準備する。
「一本目」
優羽が蹴ったボールは遼子が蹴ったボールの半分くらいのゆっくりとしたスピードで進んでいった。ペットボトルの間を通って淵田の足下に着く頃にはほとんど止まりそうな勢いだった。
「ちょっとパスがゆっくり過ぎない」
「えーだって間を通せば良いんでしょ?」
優羽はパススピードを上げて通すよりもゆっくりと正確にペットボトルの間を通す作戦にした。
「実践じゃそんなパススピードだと取られちゃうけど、まあこのゲームは間を通して足下にとどけるのが重要だからそれで良いさ」
そう言って淵田は優羽にボールを蹴って戻す。
「なんかずるくない?」
「結構ゆっくり蹴るのも難しいよー」
そう言いながらも、まるでゴルフのパット練習のようにゆっくりと足を同じ動作を正確になぞるように、優羽は機械のように淡々とパスを通した。
「はい十回目~」
ゆっくりとボールは芝生の上を止まりそうなスピードで進んでいった。最後のパスもペットボトルの間をゆっくりと通って、淵田が足で止める必要も無いほどぴったりと足下に転がって来た。
「はい成功」
優羽が振り返ると納得いかない顔をした遼子が乾いた拍手をしていた。
「じゃあ最後はフッチーさんね」
「おっおう」
淵田がボールをもってベンチ前まで移動する。
「じゃあ私がボール受けるね」
遼子が入れ替わるようにペットボトルの間に立つ。
淵田は正直キックの精度的に優羽が一番下手なので、勝者は自分と遼子だと思っていた。
厳しい現実を突き付けてきた優羽への淵田からのささやかな仕返しのつもりだったが、優羽は全く動じなかった。
「いいよフッチー」
対面には遼子が立つ。
「いくぞー」
「はずさないでねーかっこ悪いから」
蹴ろうとする直前に優羽が淵田に声を掛けてきた。
一瞬なんでもないと淵田は思ったが、パスは微妙にズレてペットボトルを掠めそうになった。
「変な声掛けるなよ!」
「えー別に関係ないでしょ?」
蹴る瞬間に声を掛けられると気が取られてしまう。
「だってフッチーさんが一番上手いんだから、失敗しないよね?」
こいつ分かって蹴るタイミングで声を掛けて来てやがる。
嫌そうに淵田は優羽の方を見ると実に恍惚とした表情を浮かべていた。
「ほら次蹴って、あっ弱いパスだと意味が無いんだよね?」
優羽は手を後ろにやって子供のように語尾を上げて淵田の横から顔を覗き込んだ。
「そんな子供みたいな煽り意味が無いぞ?」
「煽ってないよ、事実を言ってるだけ」
それを煽りって言うんじゃ無いのかと言いたかったが淵田は我慢して前を向いた。
目の前には少し心配そうな顔をした遼子が見えた。
なんだかPK合戦の時のような緊張感を思い出した。そう言えばPK合戦は先行が決めると後攻にプレシャーが掛かって失敗するから六割ぐらい先行が有利だというのがセオリーだ。
そんな事を思い出しながらのキックはやはり不安定で、また淵田のキックはペットボトルの間をギリギリ通り抜けた。
「ギリギリだぁ」
ほっとしながら遼子からリターンを貰って、淵田は再びボールをセットする。
こんなに緊張感のある中でボールを蹴るのは二十年以上前の高校の時の公式戦の時を思い出す。
淵田はレギュラーだったが試合の当日腹痛で急遽レギュラーを外された事を思い出した。試合は負けて高校のサッカー部では結局一度も公式戦勝てなかった。
最後の試合の時、一回でも勝ちたいと練習して、当日緊張からなのか腹痛で動けなくて試合に出れなかった。
あの日負けた事の悔しさよりも終わった事にホッとした事を覚えている。
そうだ自分は昔からプレッシャーに弱かった、逃げた記憶しか無い。
過去のトラウマを見事に引きずった淵田のパスは微妙にズレ始め、一本目の成功から、二本、三本、四本と、パスを受ける遼子よりはマーカーのペットボトルを狙ってるかのような不安定なキックが続いた。
「五本目成功」
淵田はボールを蹴りながら昔の事を思い出していた。
高校のサッカー部の思い出だけじゃない。大学の時の色恋沙汰、会社に入ってからの新規プロジェクトの失敗、色々な失敗したこと、逃げた事をボールを蹴るたびに思い出していた。
あまりに苦しそうに淵田がボールを蹴るので六本目のパスから優羽も口を出さなくなった。
「七本目、あと三本」
自分が始めたゲームなのに追い込まれている。
普段だったらこの距離のパスはあまりミスしないはずなのに、ミスをするな失敗するなと言われると失敗しそうになる。
平常心を保とうと自分に言い聞かせる度に緊張する。
八本目、九本目のパスもズレながらもなんとかペットボトルの門の間を通って遼子に届いた。
「あと一本だよ、頑張れフッチー!」
遼子から返されたボールを止めて、一歩蹴る前準備のバックステップを踏む。
これを通せば十本成功で遼子と優羽に並ぶ。
「フッチーさん、これ成功したら今日焼き肉奢るよ」
「はぁ?」
「運動終わった後の焼き肉、美味しいと思うよ?」
優羽の表情からは悪意は感じられなかった。ただ言葉は明らかに嘲笑的で煽っていると淵田は感じた。
優羽の真意は分からないが、余計にプレッシャーが掛かった。
たかがボール蹴るのに、久しぶりに心臓が脈を打ってるのを感じる。
両手に腰を置いて淵田はボールを見た。
なんで無職になって自分よりずっと若い十代の女の子とサッカーボールを蹴ってるのだろうか?
バカバカしいなあと思いながら目の前の心配そうにこっちを見る遼子を見て足を振る。
膝を被せる、軸足を踏み込む、色々な言葉で説明するが、結局は足の長さや足首の曲げれる角度は誰ひとり同じじゃない、ボールの蹴り方はその人が最適解を見つけなくちゃいけない。
淵田は後になってそんな事を考えたが、蹴った瞬間はボールの真ん中を真っ直ぐ蹴る事だけを考えた
蹴ったボールは真っ直ぐと芝生の上を転る。
まばら芝生の上をボールは少し浮きながら進んで行く。
「来た」
遼子が右足を前に伸ばすと足裏にピッタリとサッカーボールは収まってくれた。
「通った・・・・・・」
淵田のパスが遼子の足元にしっかりと届いた。
「よし!」
その瞬間、淵田は思わず右手で小さくガッツポーズを取ってしまった。
たかがボールゲームで成功したからって恥ずかしくもなくポーズを取ってしまって、慌てて今の無しだと遼子と優羽の方を向いた。
「やったー全員成功だよ!」
「全員成功!」
遼子は駆け寄ってきて両手を挙げて喜ぶ、優羽も遼子に合わせて両手で万歳をする。
誰も飲み物を掛けてボールを蹴ってたことは忘れて、みんな成功したことを喜んだ。
「べっ別にこんなの普通に成功するヤツだろ」
恥ずかしくて淵田は虚勢を張った。
遼子と優羽はニヤニヤしてる。
「こんなサッカーボール蹴るのが上手くなったからってどうなんだって話だ」
淵田は遼子と優羽に背中を向ける。
「でも嬉しいでしょ?」
「楽しかったでしょ?」
遼子は淵田の右から、優羽は左側から淵田の顔を覗き込んだ。
「まあ全員成功してよかったな」
恥ずかしそうに淵田は顔に手を当てながら笑顔を抑えている。
「全員無職で昼間からボール蹴って遊んでるだけだけどね」
ベンチの前で歳が離れた二人の女の子と中年の独身男性は人通りの少ない河川敷で口を大きく開いて笑い合った。
「フッチーまた明日も暇ならボール蹴ろうよ」
遼子が淵田に声を掛ける。
「どうせ暇でしょ?」
「まあ無職だからな、明日も暇だ」
淵田はボールを蹴り終わった後で優羽の言葉を思い出していた。
これから頑張れば良い、何かを。
何も問題は解決されてないけど、なんだかボールを蹴ってるときは楽しかった。
三人でなにか取り返しのつかない事をやってるような小さな罪悪感と、なにか自分の将来と関係ない事がこんなにも楽しいのかと。
次の日河川敷では雨が降っていた。
「雨だね」
「雨降ってるよ」
三人で土手の上から傘を差しながら昨日騒いだベンチのある風景を見下ろしていた。
「ボール貸してくれ」
優羽からボールを受け取るとトレーニングウェア姿の淵田は土手を下ってベンチのあるところまで降りた。
「高校生の時はこれくらいの雨でもボール蹴ってた!」
傘を差してる二人を置いて、雨の中で淵田はボール蹴り始めた。
「楽しそうだねフッチー」
「なんか吹っ切れたのかもね」
「私ね、優羽が今日から無職だねって笑いに来たとき本当に腹が立ったけど嬉しかった」
遼子と優羽はお互い傘に隠れて表情は見えない。
「みんな残念だったね、また次があるよって適当に慰めるだけだったから、優羽に明日から何も無いねって言われたときになんか頑張ろうって思ったよ」
「私は本当の事言っただけだよ」
「知ってる」
遼子と優羽は雨の中ロングボールを蹴っては追いかける中年のオッサンを見下ろしながら二人とも笑っていた。
翌日、淵田は風邪をひいて一週間ほど寝込んだ。



END



あとがき

読んでいただいてありがとうございます。

こちらの話はいろいろな理由で無職になった人が河辺に流れ着くように集まってボール蹴って楽しいという話を考えていたわけではなく、友達が平日フットサルの練習を二人で延々とパス練やってると聞いて、羨ましいなあ、都内に通勤電車で通う自分は無職にでもならないとできないじゃんという願望から生まれた話です。

そういえば若いときに無職になった友達も公園で永遠とロングボール蹴ってたというので、やっぱり人は無職になるとボールを蹴りたがる傾向があるのでは? っという疑問が浮かび上がってきた気がしますが本文全く関係ないです。

あとはベンチに3人座ってるのが三座の艦上攻撃機に乗ってるパイロット達みたいで、真ん中に座る少しだけえらい仕官、操縦者の車引、一人だけ後ろを向いている後方銃座員が一蓮托生で機体を動かすのが好きなのでそんなイメージだったんですが全然違う形になって自分でもビックリした。

とっまあいつも通り瞑想しつつ、電車や車で川を渡るときに見える河川敷の雰囲気と「神クズ☆アイドル」の 河川敷さんが好きなのだよなあという気持ちで書きましたね。

河川敷の増水すると沈む感じも好き。

ああいう社会のバッファーゾーンみたいな場所が好きなのかなあ・・・



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