ダッシュ

もはや何が原因で喧嘩をしているのかすらわからなかった。メールの返事が遅かったのか、約束の時間を間違えたのか。いずれにしても宥めるそばから彼女の機嫌はどんどんと悪くなる。どうしたところでもうだめだとこちらは疲労困憊、「はいはい。俺が悪かったのね」と、おそらくは女性が最も聞きたくないだろうその言葉を吐いたところで彼女の動きが止まった。

じっと、俺を見上げる彼女。

見つめ返す、俺。

ゆっくりと彼女の視線が逸れ、テレビ台の下の棚に置いてあるハサミに向かう。彼女はそっと、それに手を伸ばす。

さすがにそんなことはしないだろう、そんな脅しには乗らないと俺は鼻を鳴らして彼女を威嚇する。再び彼女はこちらに向き直るが、身体はゆっくりとハサミに向かっている。その距離が縮まる。あと数秒で指先がハサミに触れる。

まさか、ね……。

の、そのまさかだった。ハサミを手にした彼女は咄嗟に俺に襲い掛かってきた。ギリギリその切っ先を避けたが、着ていたYシャツに傷が入る。おいおいおい、ちょっとシャレになんないよと言い掛けたところで、もはや言葉は意味をなしていないことを知る。振りかぶった2投目がこちらに向かっていた。反射的に振り返り、靴を引っ掛け、外に飛び出す。外に出てしまえばこちらのものだろうとアパートの階段を下りていると、背後からドアを開け廊下を駈ける音が近付いて来る。

マジかよ……。

こちらもすかさずダッシュ、敷地の外に出て駅前の方に向かいながら、おそるおそる振り返ると、血相を変えた彼女がハサミ片手に突進してきていた。

スーツ姿、30を超えた男が東京の街中をダッシュしている。

その背後にはハサミを持った女。

この歳になり、スーツ姿でダッシュするとは思わなかったし、ましてや他人に追い掛けられるとも思わなかった。追い掛けられながら俺は、小さい頃のドロケーを思い出していた。あのとき俺らは毎日のように近所の駄菓子屋に集まっては泥棒と警察に扮し、街中を駆け回っていた。笑みが溢れた。笑いが止まらなかった。が、そんな場合ではなかった。息を整え、首をねじって後ろを向くと、髪を振り乱した彼女が迫ってくる。本気で切り付けてくるのは間違いなさそうだった。1投目に迷いはなかった。

別におかしいことは何もない。しかし、なぜか、笑いが止まらなかった。

ああ。

俺、生きてるわ。

とにかく楽しくて仕方なかった。アパートを一周したところで電柱の影に隠れると、角を曲がって追い付いた彼女が首をキョロキョロさせながら駐輪所に消えた。その数秒後、自転車にまたがった彼女がレーサーさながらロケットスタートで再び街中に猛進していった。その背中を、俺は小さくなるまで見送った。

なんて可愛いらしいんだと、俺は彼女を惚れ直していた。


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