『失業中に村上春樹を読むことについて僕の語ること』②
仕事をしないからこそできることに焦点を当てています。
その中で村上春樹作品と絡めて何かかけないかと思って書いています。
前回に引き続きます。
前回は村上作品には失業中のキャラが多く出てくること。そして、そのキャラの振る舞いを見て普段なかなかできない自己へのフォーカスの口火になるのではないかということをお話しました。
2番目は
現実への物語を得られること
について。
物語は、自分が現実に対してどう認識をするかと言うことに言い換えられるかなと思います。
でも1番目も2番目もなかなか世に役立てることは難しいのではないかと思っています。あまりにも形而上の話になりがちなので。
でも役に立つとかそういうことの前に「こういう現実がある」、「現実に起こったことに対して、解釈として私はこういう態度を守る」というような「私のファイティングポーズみたいなもの」は厳然としてあると思うんです。
例えば、村上さんは社会や時代の流れとそれらと自己との関係性や移ろいなんかは初期中期作品ではよく取り上げていて、『ダンス・ダンス・ダンス』では主人公がラストシーンで彼女に踊るように社会をすり抜けていくことが勧められます。
このメタファーは、「高度資本主義社会で人間はめまぐるしく動く社会をコミットすることなくステップしながら踊るように駆け抜けていくイメージ」、つまり「一種ポジティブにスノッブな態度を貫いてみる」というモチーフが提出されているように解釈します。
これが村上さんの当時の現実に対するファイティングポーズなわけです。
「壁のスピーチ」もそういう類ですよね。
ただ、現実と私のメタ的な関係性を理解したところで、まあお金にはならないしそれで仕事が見つかるわけでもない。
文学者や現代史とか社会論の理解のためには重要なんだろうけど、何せサラリーマンとして働いている人の大半にも全く必要がない。
なぜなら、目の前の仕事がうまくいくこと、お金が口座に入ってくることとか、生きていくために必要な社会経済的活動のためには一切合切、メタ論、特に私的なことに関するメタ論は必要ないから。
むしろ邪魔になってしまう。
でも、人はファイティングポーズを取ることをやめられません。
現実に対して自分の物語を持つことからなかなか離れられない。
生きているだけで、規模の大小はあれど現実を物語化しないと生きていけない。ゲシュタルト崩壊にはそんな認識の物語の崩壊という側面があると思います。
それはじっとしているだけでは飽き足らなく、なんにせよ現実の意味づけや物語に依存しないともう現実を経験できないヒトという動物の宿命なのか知れません。
少し話がそれて大きくなりましたが、村上春樹作品にはそうした自己と対置された現実世界との関係性を探る作品が長編は特に多いです。
時代という風の歌を聴く段階からスタートし、歴史と対峙し、高度資本主義の到来を脇目にダンスしていたかと思えば、一気に小さな平和を守るために暴力を使ったり、村上さんも色々な変遷を経ています。
とても現時代と自己のあり方に敏感な方なんだなと思います。
そうした作品に触れながら、現実との自己の距離感を探ってみてはいかがでしょうか?
多分次回が最後です。
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