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社会的メッセージとしての奇蹟(2014)

社会的メッセージとしての奇蹟
Saven Satow
Feb. 12, 2014

「いっさいのことがらをぬきにして、イエスが子どもを愛することを教えたという一事だけでも、彼のことを許してもよい」。
カール・マルクス

 山浦玄嗣医学博士は福音書を古典ギリシャ語原典からケセン語に訳出する際、従来の邦訳の問題点を数多く指摘している。その中に、イエスの病気治療の奇蹟も含まれている。

 一例として新共同訳のマタイによる福音書4章24節を引用しよう。

 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。

 このように従来の邦訳福音書にイエスが病気を「なおした」や「いやした」という記述が出てくる。しかし、古典ギリシャ語原典では、病者に対するイエスの行為は「テラペウオー(治療する)」と「イアオマイ(治癒させる)」とに分けられている。邦訳に限らず、英・仏・伊・独・西語などの翻訳においても、両者は区別されず、「治癒させる」の語が用いられている。

 ところが、「治した」系の個所の約7割が「テラペウオー」で、「イアオマイ」は少数である。治療と治癒は違う。前者は手当てすること、後者は患者が治ったことをそれぞれ意味する。治療しても、治癒するとは限らない。「テンペラウオー」の語源は「テラポン(しもべ)」である。治ったかどうかではなく、こうした記述からイエスがしもべとして患者に寄り添い、精神的なケアを与えたことを読み取る必要がある。イエスは患者に対して医者と違う役割を果たしたという社会的メッセージがこめられている。

 山浦医師の解説は語訳の指摘でも、イエスの虚像の解体でもない。社会的メッセージとして奇跡を認識することのすすめである。

 病気や治療をめぐる奇蹟は、福音書のみならず、他の宗教でも数多く見受けられる。それらは社会的メッセージとして理解することができる。

 私市正年上智大学教授は、『スーフィーと聖者と教団』において、イスラームの神秘主義者や聖者をめぐる奇蹟を社会的メッセージから読み解いている。奇蹟は大きく三つに分けられる。それは「飢饉への対応」・「病気への対応」・「移動にともなう障害の克服」である。

 第一の飢饉への対応の代表は雨乞いである。この奇蹟には地域差が認められる。内陸の農村部に限られ、海岸部や都市部では見られない。ここから奇蹟が住民の期待に応えるものであることがわかる。

 第二の病気への対応はしばしば呪術信仰や迷信の類と片づけられるが、実は、社会的役割を果たしている。教授は、12~14世紀のモロッコの聖者伝奇集に現われる病気と治療の事例を分類・分析している。イエスを始めとする宗教者の奇蹟同様、失明や盲目の例が最も多い。教授が注目したのはペストである。モロッコではこの時期何度も流行しているけれども、わずか一例だけで、しかも聖者が治癒に関与していない。それに比して、ハンセン病が三例あり、聖者が処置している。

 ペストは社会集団に流行し、発症した際の死亡率が高い。他方、ハンセン病は個人谷で発症し、進行の速度がゆっくりしている。医者が病気の医学的治療を担当するのに対し、聖者は精神的ケアに携わる。聖者はペストになす術がないけれども、ハンセン病には、治ったと思わせたり、共にいて心を癒したりすることで関われる。教授は医者と聖者を「現代の病院とホスピス」の関係に譬えている。聖者の奇蹟はそのように社会的に位置づけられる。聖者の奇蹟は精神的ケアという社会の合理的知恵の一つである。

 山浦医師によるイエスの病気関連の奇蹟もこのように理解できるだろう。イエスは医者に代わって身体を治癒したのではなく、それとは別に、精神をケアしたと福音書は伝えている。

 第三の移動にともなう障害の克服は空を飛んだり、海を歩いたりする奇蹟である。これには社会の閉塞感からの解放の願望もこめられているだろう。ただ、それだけではない。聖者に託された社会的メッセージとして読む時、道徳説話であることに気がつく。

 教授は、モロッコ聖者伝説集の作者の一人ターディリーの『スーフィーたちの眼差し』の次のような空中浮遊の話を紹介している。

 シジルマーサ(モロッコ南東部のサハラ砂漠の交易都市)出身のダッカークは語った。「私は人一人がやっと通れる橋の上で、身体の弱そうな女性と出会った。彼女は、お先にどうぞ、といって私に道を譲ろうとした。私は、申し訳なく思い、橋の上から飛び上がり、空中に留まった。そして、彼女が橋を渡り終えるのを確かめた後、橋の上に降りた。

 実際にダッカークが空に浮いたかなどどうでもよい。これは弱者に思いやりやいたわりを持つことの大切さを説いている。社会的正義の手本を聖者は率先して示さなければならない。一般の人々も聖者を見習い、社会的正義を実践することが求められよう。重要なのは奇蹟自体ではなく、それがどのようなメッセージがこめられているかだ。

 こうした社会的意味を考えずに、聖者になるために空中浮遊の修行を積むというのは本末転倒である。あまりに個人主義的な動機だ。空を飛ぼうが、海を歩こうが、その行為自体はまったく倫理範的ではない。社会的メッセージを持たぬものを奇蹟と呼ぶことはできない。奇蹟は社会の中に位置付けられねばならない。

 福音書に見られる奇蹟にも、病気への対応に限らず、飢饉への対応や移動にともなう障害の克服が見られる。山浦医師はこれらも社会的メッセージとして解説している。マタイによる福音書14章13~21節のイエスが5.000人に食べ物を与えた奇蹟は飢饉への対応の好例である。山浦博士はこの五つのパンと三匹の魚がイエスによって増え、大勢の空腹を満たしたという話を相互扶助と読み取る。これは、それぞれが持っていたなけなしの食糧を出し合い、みんなで分け合って食べたと理解すべきである。イエスによって人々の意識が変わり、相互扶助の行動を行ったというわけだ。

 山浦博士は他の奇蹟も社会的メッセージから理解している。奇蹟にはそれぞれ背景があり、見るべきところはそこである。

 奇蹟を通じてその社会の知恵や工夫が見えてくる。奇蹟は行為によってなされる出来事である。それが持つ社会的メッセージは行為として示される。口先で言っているだけではいけない。奇蹟は人々の意識を変え、よりよい行為をすることを望んでいる。
〈了〉
参照文献
『聖書 新共同訳』、日本聖書協会、1988年
寺山修司、『さかさま世界史』、角川文庫、1974年
三浦徹、『イスラーム世界の歴史的展開』、放送大学教育振興会、2011年
山浦玄嗣、『ケセン語訳新約聖書〔1〕マタイによる福音書』、イー・ピックス出版、2002年
山浦玄嗣、『ガリラヤのイェシュー』、イー・ピックス出版、2011年

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