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クリスチアーネ、あるいはヘーゲルのアンティゴネ(5)(2020)

第6章 クリスチアーネの治療
 ヘーゲルは、ピネルの診察を諦め、クリスチアーネに自ら心理療法を試みる。それは自身の精神疾患に関する理論に立脚したものである。その基礎となる考えは『エンチクロペディー』の第3部「精神哲学」に見ることができる。

 『エンチクロペディー(Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse)』は、ハイデルベルク大学教授時代の1817年、講義用に出版した著作である。「論理学(小論理学)」・「自然哲学」・「精神哲学」の3部から構成されている。ただ、この理論の大枠はニュルンベルクのギムナジウムの授業で語っていたものであり、クリスチアーネの発病を踏まえている。出版後もヘーゲルは手を加え、1827年に第2版、1830年に第3版をそれぞれ刊行している。さらに、1839年の全集版には聴講者による筆記記録が増補されている。

 『精神哲学』は「主観的精神」・「客観的精神」・「絶対的精神」の三部構成である。精神疾患に関する記述は「主観的精神」の最初のパート「人間学 心」に集中している。19世紀初頭の精神疾患をめぐる理解は今日と大きく異なっている。精神病と神経症の区別さえ未整備の時代の主張をそのまま提示することの現代的意義は決して大きくない。心理療法を試みようとした理論家の先駆性という点から読むべきである。

 ヘーゲルは人間と動物の違いを死の自覚の有無に求める。その上で、心の病を精神の発展段階から理解する。病は精神が発達するために必要な通過点であり、人間は必然的に疾病に陥る。けれども、人間はそれを弁証法的に克服できる。ヘーゲルは人間と動物の違いをめぐる考察において心の病に言及するが、これをピネル以前の動物の状態にある人間と解するべきではない。むしろ、精神疾患が生物としての人間に関わっているという指摘と受けとめる必要がある。生物としての人間に関わっているのだから、排除は言うに及ばず、ロマン主義者と違い、ヘーゲルは精神障碍者を神聖視もしない。妄想を想像力の問題と捉えれば、芸術の創作にもその能力が必要であるので、精神症状が独創のヒントになりかねない。だが、患者は病に苦しんでいるのであって、そのような見方はそれに対する共感が不足している。心の病は正・反・合の弁証法の中の反、すなわちアンチテーゼだ。「私たちは、ここで、心をその病気の状態において考察すべきだろう。なぜならば、心はここで、自分が自分自身と分裂した状態において現れるからである」(『精神哲学』)。心の病は精神が低次の段階にとどまっているにもかかわらず、高次にいると思いこんでいる状態である。

 先に述べた通り、ヘーゲルは弁証法に基づく段階論を展開するが、これは近代的認識と相性がよい。精神に就いてお同様である。ライフサイクルから捉えるエリク・H・エリクソンのアイデンティティ論はヘーゲル主義のヴァリエーションである。彼は、『ライフサイクルとその克服(The life cycle completed, Norton)』(1982)において、人生を8つの段階に分け、それぞれで解決すべき発達課題があるとする。その際、前段階の発達課題が次のそれの基礎となる。

 ある人間が教養のある人間であればあるほど、それだけますます多く彼は直接的直観のなかに生きているのではなくて、自分のあらゆる直観の場合に、同時に想起のなかに生きているのである。それで彼は新しいものをほとんど全く見ないで、たいていの新しいものの実体的内実はむしろすでに熟知されたあるものなのである。教養がある人間は同様にとくに自分の心像に満足し、直接的直観の必要をほとんど感じない。
(『精神哲学』)

 ヘーゲルは精神疾患をこの意識の発展段階から理解する。病気が、精神が発達するために、病は必要な通過点であるから、人間は必然的に疾病に陥る。けれども、人間はそれを弁証法的に克服できる。ヘーゲルの心理療法は弁証法に基づいている。クリスチアーネの今の状態がテーゼ、臨床家ヘーゲルがアンチテーゼである。ヘーゲルはクリスチアーネの話に耳を傾ける。その苦しみに共感しながらも、内容は理解できないことを伝え、病気であることの自覚を促す。この対話=弁証法により病識を獲得すれば、ジンテーゼへと至る。テーゼにはなかった病識がアンチテーゼによって自覚され、それがあるジンテーゼに発展する。ヘーゲルの心理療法はこのような過程をたどる。これは現代医学で心理教育と呼ばれるものに近い。統合失調症のように病識が難しい疾患の場合でも、妄想の内容には率直に理解できないことを伝えるが、それで苦しんでいることへの共感を示す。確かに、ヘーゲルの心理療法はその意味で先駆的である。

 クリスチアーネが精神病だったことは間違いない。ただ、その病名が何であるかを推測することは少々難しい。被害妄想と錯乱から統合失調症や双極性障害がまず思い浮かぶ。クリスチアーネは精神症状の初発年齢が38歳と高い。統合失調症の初発年齢は主に15~35歳である。そのため、この疾患はしばしば思春期を奪う。病との戦いに資源を割かれて、思春期に経験しておくべきことまで余裕がない。もちろん、初発年齢が35歳以上のこともある。初発が高齢の場合、自分の考えが詠まれている、あるいは脳がハッキングされているという症状を訴える特徴がある。また、双極性障害も初発年齢は15~35歳で、それ以上は少ない。双極性障害は躁病エピソードとうつ病エピソードが循環的に現われる疾患である。有病率は統合失調症とほぼ同じである。なお、どちらか一方だけのものを単極性障害と呼ぶ。躁うつ病は単極性障害と双極性障害の上位概念で、後者の疾患の別名ではない。

 年齢もさることながら、発症前のクリスチアーネは兄に尽くしたり、家庭教師をしたりするなど他者を配慮する性格である。ところが、発症後は、被害妄想や錯乱、抑うつなどの症状を示し、人間関係がうまくいかない。初発や再発の際に、受け入れ難い大きな出来事に直面している。発症が急性で、予後はよく、再発があり、経過が周期性を辿っている。当時は薬物療法がないのに、1820年代に比較的長い安定期がある。

 こうしたクリスチアーネをめぐる記録や証言などを察するなら、現代の精神科医は彼女の疾患を統合失調症や双極性障害の中核とは捉えないだろう。両者の中間の非定型精神病で、それはフランスのヴァランタン・マニャン(Valentin Magnan)が1880年代に提唱した「急性錯乱(Bouffée Délirante)」に近い。DSMではこの辺りの分類がなかなか難しい。治錯乱など気分の変動が大きいので、療薬には統合失調症用よりも双極性障害に効果があるとされる炭酸リチウムとバルプロ酸を医師は処方すると思われる。ただ、この疾患は薬を飲んでいても再発しやすい。ストレスが少なく、精神的に落ち着ける穏やかな生活環境が効果的である。1820年代の安定期は本院や周囲も気づかないクリスチアーネ自身にとってよい環境だったのではないかと推測できる。

 クリスチアーネは1807年より住みこみの女性家庭教師(Governess)の仕事を始め、男性たちから熱心に求婚されたものの、独身を通している。当時、独身の姉妹が一定の年齢に達すると、家族と一緒に住むことを兄弟が申し出る慣習があり、1814年9月、ヘーゲルもクリスチアーネに招待の手紙を送る。他に、自身の心理療法により、妹の精神的健康の回復を期待していたと推察できる。クリスチアーネはその申し出を受け、ヘーゲルの家族と同居する。その際、クリスチアーネは子どもたちの養育係や家庭教師を務めている。

 1814年9月24日に生まれたヘーゲルの次男トーマス・イマヌエル・クリスチアン(Thomas Immanuel Christian)のの名づけ親はクリスチアーネである。自分の名前にちなんで彼に「クリスチアン」としている。それをきっかけにヘーゲルは同居の話を出したが、クリスチアーネは一度断っている。

 結婚の1年後の1812年、ズザンナ(Susanna)がヘーゲル夫婦に生まれたものの、すぐに亡くなっている。英国のデータから類推すると、19世紀初頭のドイツの都市部に住む中流階級の乳児死亡率は30%以上と思われる。1813年に長男のカール・フリードリッヒ・ヴィルヘルム(Karl Friedrich Wilhelm)、翌年に次男のイマヌエルが生まれている。流産もあり、成人まで成長したのはこの二人の息子だけである。カール・ヘーゲル(1813~1901)は学問の道に進み、偉大な父の影に苦しみながらも、19世紀後半を代表する歴史家の一人になっている。一方、イマヌエル・ヘーゲル(1814~1891)は父や兄と別の道を選ぶ。弁護士から出発し、プロイセン政府に入り、その後、ブランデンブルク福音派教会高等評議会の会長に就任する。彼は保守的な人物で、教会での活動の評判は必ずしも芳しくない。また、ローゼンクランツの『ヘーゲル伝』への干渉を始めヘーゲル研究にとって好ましくない評価もある。

 けれども、翌1815年の夏から秋にかけてクリスチアーネとヘーゲルの妻マリーの関係は険悪になっている。具体的には不明であるが、嫁と姑ほどの年齢差のある女性二人がうまくいかないことは想像するに難くない。しかも、クリスチアーネの精神の不調はヘーゲルの結婚に関連している。その環境にクリスチアーネを入れることは精神衛生上リスクが伴う。かりにどれほどヘーゲルの心理療法が優れていたとしても、この環境はクリスチアーネの健康にとっては最悪である。2人の対立は、傍から見るなら、予想通りの展開である。クリスチアーネにすれば19歳年下のマリーはイスメネにしか思えなかったろう。自身をアンティゴネとするクリスチアーネにとって、マリーは兄の埋葬に優柔不断な態度を示したイスメネにすぎない。偉大なる兄の活動を支えることも、その知性を理解することもできないとマリーに我慢がならず、とうとう暇乞いをすることになる。マリーは、ヘーゲルの死後、この時のクリスチアーネを「精神病者」と評している。マリーにとってクリスチアーネはイカれてるとしか見えなかったのだろう。

 クリスチアーネの振る舞いに周囲は問題行動と困惑していたことだろう。しかし、それはクリスチアーネにとって出来事への対処行動である。精神が自己治癒しようとする行動だ。クリスチアーネの文脈に沿って行動を捉えれば、それは合理的であり、現実的である。クリスチアーネはアンティゴネで、ヘーゲルはポリュネイケスである。クリスチアーネン御コンテクストはこれを原理にしている。アンティゴネはポリュネイケスに対する不当な仕打ちを斥け、正当な扱いがされるべく尽くさなければならない。アンティゴネが戦わなければならないのは兄を貶める狭量な叔父クレオンや兄よりも保身を優先する日和見な妹イスメネである。ヘーゲルと結婚するマリーはこのイスメネで、ポリュネイケスではなく、我が身かわいやと行動するに違いない。だから、クリスチアーネには我慢がならない。

 『アンティゴネ』の文脈に即してクリスチアーネの行動を捉えると、その理由が分かる。しかし、クリスチアーネのことをヘーゲルでさえ理解できない。

 1815年からの5年間、クリスチアーネはアーレン(Aalen)のプロテスタント教区の主任牧師(Dean)で、いとこのルイーㇲ・ゲルツ(Louis Göriz)と暮らしている。クリスチアーネは、その後、1820年5月から1821年8月まで「王立ヴュルテンベルク医療センター(Königlich-Württembergischen Heilanstalt Zwiefalten)」に入院する。その後、クリスチアーネは故郷のシュトゥットガルトに戻る。そこで家庭教師として安定し、家族との以前の関係を回復している。

 1820年代はウィーン体制が続いていたが、大西洋革命を通じて欧米に広まった人権を代表とする思想に基づく人々の要求は続いている。また、ナショナリズムによる独立や統一の運動も徐々に始まっている。バイロン卿が身を投じたギリシア独立戦争やロシアのデカプリスとの乱はそうした例である。全体としては保守的であっても、時代が後戻りすることなどない。そういう気分が1820年代のヨーロッパである。

 1825年、ルードヴィヒがヘーゲルに勘当され、クリスチアーネの元にやってくる。問題児と見られがちな彼であったが、クリスチアーネの精神をかき乱すことはない。ルードヴィヒも、自分と同じく、ヘーゲル家になじめず、そこから出ざるを得なかったとクリスチアーネは同情したのかもしれない。彼が住んだ期間はわずかだったが、少なくとも、クリスチアーネがルードヴィヒを兄の子として認め、大切に思って居たのは確かである。後に、クリスチアーネは彼を遺産相続人の一人に指名している。

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