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北朝鮮「ミサイル」実験と竹槍(2016)

北朝鮮「ミサイル」実験と竹槍
Saven Satow
Feb. 09, 2016

「私は小学校の頃、軍国少年でした。小学校、なんでゲートルを巻いて、戦闘帽をかぶって竹槍を持たされたのか。今振り返ると本当に、笑止千万です。もう二度とああいう経験は子どもたちに、子どもたちだけじゃない」。
菅原文太

 中谷元防衛相は、2016年2月3日、北朝鮮が観測衛星とする飛行物体の打ち上げの通告を受けて、自衛隊に破壊措置命令を出す。これは事実上の長距離弾道弾の実験だというわけだ。防衛省は飛行経路付近にある宮古島に地対空誘導弾PAC3を配備する。

 しかし、人工衛星の打ち上げをミサイル実験と同一視することには無理がある。衛星とミサイルは発想が違う。人工衛星は観測や偵察などの用途があるから、サイズが大型化している。打ち上げには大きな推進力が必要なので、燃料は液体の水素・酸素で、注入には時間がかかる。他方、ミサイルは見つかりにくくするなどの理由から、小型化している。素早く発射する必要なので、現在では固体燃料が用いられる。

 北朝鮮の説明や行動についてどう思うにしろ、日本のこの対応はあまりに政治的だろう。かりに国際社会に対する挑発行為であるから許しがたいとしても、この行動は非科学的である。安倍晋三政権は復古主義に熱心で、国民に戦前を追体験させることを繰り返している。今回も、竹槍でB29を落とす訓練を国民に強いた非合理的な時代を想起させている。

 自民党第二代総裁石橋湛山は、1945年6月16日発表の『竹槍戦争観の否定』においてとそれを次のように批判している。

 ここ二、三年来我が国において、誰がどう流布したものか判然せぬが、全国津々浦々に竹槍戦が唱道され、またその訓練がしばしば行われていることは周知の通りである。(略)かねて上海においても在留邦人の間に竹槍訓練が始められたことがあるが、当時同地の我が軍当局はこれを禁じたと聞いている。日本も遂に竹槍の外に使用すべき武器がなくなったかと、環視する中国人らに誤れる印象を与える懸念があったからである。(略)しかし、我が国内においては、幸か不幸か、かかる訓練を環視する外国人もほとんどなく、竹槍戦の唱道に対して批判の声も聞かない。

 社会が科学リテラシーを十分に持っていたら、こうしたニュースが流れないに違いない。今回に限らず、安全保障関連のニュースでは科学的と思えない内容が時にある。

 動く標的を狙撃する問題として、モンキー・ハンティングが知られている。これは、どうしたら木から落ちるサルを地上から撃って命中させられるかという古典力学の問題である。高校物理程度の知識で簡単に解ける。

 因果性が明確な事象に対しては、運動方程式などを使い、決定論的に解き明かすことができる。ただし、モンキー・ハンティングでは風と空気抵抗を無視する条件が付いている。風が吹くと、解くのが難しくなる。風の条件下で弾道計算をするために開発されたのが現在のコンピュータである。

 第二次世界大戦中にアメリカ陸軍の弾道研究室で砲撃射表の計算のために設計されたのが電子計算機ENIACである。これはデジタル式やプログラム内蔵方式など今日のコンピュータの特性を備えている。風が吹くと、弾道計算が人間業では困難になるので、機械に頼るほかなくなったというわけだ。

 衛星の打ち上げだと言っているのだから、発射地点・時刻・方向があらかじめわかるので、飛行物体を撃墜することができる。それを前もって知ることができないと、命中は困難だ。しかし、地球の周りを多くの人工衛星が飛んでいる。衛星と称する飛行物体を他国が撃墜することは許されない。だから、宮古島のPAC3は飛行物体の本体を狙い撃つための配備ではない。

 こうした打ち上げの際には、失敗に備えて自爆装置が飛行物体に付けられている。科学技術にはいざという時でも制御可能性を持っていなければ使い物にならない。

 自爆すると、破片が飛び散る。しかし、破片は一様ではないため、それぞれ不規則な動きをする。ビリビリに破いた新聞紙を二階の窓から放り投げることを想像すればよい。初期値敏感性を持った非線形現象を運動方程式のような線形モデルで一般的に解くことはできない。この運動を予測してミサイルを狙った破片に命中させることは不可能である。コンピュータでもお手上げだ。

 因果性が不明確な複雑な事象に対しては、統計などを用いて、確率論的に把握することができる。しかし、それは平均的動きや全体像で、具体的な個々の事物の運動を捉えることはできない。サイコロを振った時、それぞれの目が出る確率は6分の1とわかっても、次にどれかは予測できない。

 北朝鮮の行動に対して、政府がなぜPAC3を宮古島に配備するのか科学的には理解できない。考えられるとしたら、その理由は政治的なものだ。それならば、なおのこと次の石橋湛山の批判を世論は受けとめ」、安倍政権を見るべきだろう。

 第二は竹槍で戦争が出来ると国民に考えさせることは、航空機等の現代兵器に対する国民の認識を浅薄にし、従って精神的にその増産を妨げることである。実際我が国においてその弊は甚大であると思う。かつて米国がいかに多数の飛行機を作り来るも、我は質において精神において勝つと誇称した者のあったことが、いかに国民を油断させ(略)たかを思う時、記者は竹槍戦の唱道に慄然たらざるを得ない。
〈了〉
[参照文献
石橋湛山、『石橋湛山著作集』2、東洋経済新報社、1995年

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