見出し画像

貫一曇り(2013)

貫一曇り
Saven Satow
Jan. 17, 2013

「元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌されたる日記を涜して、この黄昏より凩は戦出でぬ」。
尾崎紅葉『金色夜叉』

 1年のうちには、文学作品と関連した日があります。世界的に有名なのは、6月16日でしょう。20世紀を代表する作品としてジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』が挙げられます。多種多様な文体で記されている長編小説ですが、実は、ダブリンのたった一日、すなわち1904年6月16日の出来事を扱っているのです。主人公レオポルド・ブルームにちなんで、6月16日は「ブルームの日(Bloomsday)」と呼ばれています。

 1月17日もそうした文学由来の日の一つです。6月16日に倣うなら、「貫一の日」と呼ぶことができるでしょう。尾崎紅葉の『金色夜叉』において、貫一が熱海の海岸でお宮を蹴飛ばしたのが1月17日なのです。

 『金色夜叉』は『読売新聞』に1897年(明治30年)1月1日から1902年(明治35年)5月11日まで連載された長編小説です。非常に人気がある作品で、絵画や舞台、音楽、映画、ドラマなどにもされています。ただ、作者の紅葉が亡くなったため、未完に終わっています。熱海のシーンは物語が動くきっかけで、かなり前の方に出てきます。そこに至る過程は次の通りです。

 美貌の鴫沢宮(しぎさわ・みや)は富豪の富山唯継(とみやま・ただつぐ)にプロポーズされます。けれども、お宮には許婚と自他共に認める幼馴染の間貫一(はざま・かんいち)がいます。貫一は旧制一高の学生、すなわちエリート中のエリートです。お宮が熱海で見合いをすると知って、貫一が駆けつけます。貫一はお宮の本心を聞き出そうとしますが、叶いません。カッとなった貫一は、熱海の海岸で、お宮をカネに目がくらんだかと罵倒した挙げ句、蹴り飛ばしてしまうのです。

 その直後に、貫一はかの有名な次のせりふをお宮に発するのです。

「吁、宮さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」

 1月17日に夜空が曇っていたら、貫一の恨みのせいだというわけです。これを「貫一曇り」と呼びます。1月17日は、7月7日のように、男女の仲と天気のエピソードがある日なのです。

 物語はこの後も延々と続きます。新聞小説ですから、展開の起伏が激しく、不幸や災難、幸運、再会などドラマティックなエピソードが盛り沢山です。なお、『金色夜叉』は金銭と色恋の間で引き裂かれて夜叉と化すという意味です。「金色」は「金」と「色」の二つの語を指しています。また、夜叉はヒンドゥー教の鬼神です。

 『金色夜叉』を読んだことがなくても、熱海のエピソードを知っている人は多いでしょう。現在、熱海には貫一がお宮を蹴り飛ばしたシーンの像があります。絵画や舞台、映画、ドラマ、コント、マンガなど大衆文化の中でもよく引用されています。赤塚不二夫のマンガ『天才バカボン』もその一つです。

 独身時代のバカボンのパパとママが熱海の海岸を歩いていると、貫一と名乗るみすぼらしい老人が現われます。貫一はママを見て、昔、この海岸で別れたお宮を重ね合せます。ところが、貫一はママとお宮の区別がつかなくなり、蹴飛ばしてしまいます。それをバカボンのパパが助け、二人は結婚するのです。

 引用からもわかるように、尾崎紅葉の文体は非常にリズミカルです。けれども、当時の文学的決まり事に則り、最新の風俗を表層的に取り入れ、読者の通念によりかかっています。彼はプロの作家ですから、読者の嗜好に敏感で、それが成功の一因だと言えます。

 けれども、紅葉は文学を作り物の世界を楽しむことと考え、新たに出現した近代社会と格闘して表現を編み出すという姿勢が乏しいのです。西洋の写実主義の導入だとして着物の柄を事細かに書いたことはよく知られています。エピソードが語り継がれても、時代を超えて作品が読まれ続けることは難しいのです。同じく人気新聞小説家だった夏目漱石との違いの一端がそこにあります。

 夏目漱石の小説には三角関係がよく登場します。三角関係は近代において初めて成立します。自由で平等、独立した個人の間の恋愛だからこそ、それが可能なのです。三角関係を近代以前に普遍的に拡張する考えには無理があります。

 近代以前の日本文学では、旅先の恋はそこでおしまいが決まり事です。旅の恥はかき捨てというわけです。近代に入っても、多くの男性作家はこの意識から抜け出せていません。森鴎外の『舞姫』にしても、川端康成の『雪国』にしても、同様です。彼らは三角関係を書けません。漱石は近代社会が何たるかを理解した上で、それと格闘して表現を導き出しているのです。漱石における近代と三角関係のこうした意味は、残念ながら、研究者の間でも十分認識されていません。

 日本近代文学史上初めて三角関係が登場したのは山川登美子の次の短歌です。

 それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ

 与謝野鉄幹をめぐって晶子と三角関係になったのですが、登美子は諦めます。これはその時の気持ちを詠んだ歌で、1905年(明治38年)に発表されています。漱石が『吾輩は猫である』を発表するのは翌年のことです。漱石は、その後、新聞小説を手掛け、その三角関係の作品は人気を博すことになります。

 『金色夜叉』はその前の時代に属しています。金と色の間で夜叉と化すのですから、三角関係は事実上ありません。尾崎紅葉が時代を超えられなかったことは確かです。けれども、時代を作っています。

 内田魯庵は、『硯友社文学と紅葉山人』において、おぞらく大正末に、紅葉文学の人気について次のように回想しています。

 今では政治家や実業家の中にも可成な文芸の理解者があるらしいが、紅葉の小説は其頃からして奥さんやお嬢さんばかりでなく、紳士にも学生にも宗教家にも教育家にも有識者にも無知文盲の俗人にも読まれた。

 紅葉は読者を選ばず、非常に広範囲に受容されています。文学を社会に初めて認知させたと言ってもいいでしょう。そうした草の根の広がりがあって、文学の土壌は豊かになるのです。文学が上層だけのものでも、下層だけのものでもなく、いずれにも共有され、社会に根差しています。貫一曇りのエピソードは社会の中の文学が近代日本で現われた象徴にほかならないのです。
〈了〉
参照文献
尾崎紅葉、『金色夜叉』、青空文庫、2000年
http://www.aozora.gr.jp/cards/000091/files/522_19603.html
島内裕子他、『日本の近代文学』、放送大学教育振興会、2009年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?