見出し画像

リノベータ―正岡子規(1)(1993)

リノベーター正岡子規
Saven Satow
Oct. 31, 1993

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも。
打ち揚ぐるボールは高く雲に入りてまたも落ちくる人の手の中に。
今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな。
正岡子規

第1章 子規にとっての俳句
 子規は文学のリノベーターである。日本文学を古典から近代へと変革する際に多大な貢献をしている。子規は既存の形式を生かしたまま、その修辞法を近代にふさわしいものへとリノベーションする。子規が得意とするのは改修であって、新築ではない。子規は、そのため、近代詩や近代小説に筆あまりが進んでいない。しかし、改修は既成の建築物の個性を知った上で、それに合わせて手を加える必要があり、高度な知識と技術が要求される。子規は、そうしたことにより、俳句や短歌、日記、随筆といった伝統のあるジャンルを近代的に復活させることに成功する。

 ドナルド・キーンは、『子規と啄木』において、近代日本文学史への子規の功績を次のように述べている。

 日本の詩歌の革新は、正岡子規という、明らかに近代人でありながら、過去の伝統にも精通している人間の出現を待たなければならなかった。彼は近代人であったために、短歌と俳句で旧態に固執する人たちを攻撃しないではいられなかったが、同時に日本の伝統に深く根差した精神の持主だったために、短歌や俳句そのものを破壊するというようなことはなかったのである。子規は新体詩を作ることも試み、文学の将来は詩よりも小説にあるという意見に傾いたこともあった。しかし短歌と俳句は彼にとって息をするのも同然に自然な形式であったので、それを用いて歌うという衝動を抑制はし得ても、それを抹殺することは出来なかった。
 短歌や俳句の表現の可能性の限界に束縛されて、子規は詩的表現の新しい可能性を十分に試みることが出来なかったかもしれないが、彼は同時にこの二つの形式を復活させることに成功した。
 明治の初頭、短歌も俳句も、新しい日本人の複雑な感情を叙述するには不適当だという理由から、文学的形式としては衰微するであろうと思われた。子規と啄木とは、それが真実でなかったことを証明し、古典的な短歌、俳句の形式に新たな生命を与えたのではあるが、同時に、日記や随筆において、新しい日本文学の分野を示唆している。その新しい日本文学の中では、短歌や俳句はそれほど大きな地位を占めるものではない。その理由は、新しい他の分野が、伝統的日本との関連よりも、世界の他の国々の文学と共通とするところが、より多いからである。

 子規は壊滅的状態にあった俳句や短歌に新たな転回をもたらす。その文学革新運動は俳句や短歌のみならず、「写生文」を通じて散文にも拡張、「新しい日本文学の分野を示唆」することとなる。

 子規はリノベーションの試みを俳句より始めている。発端はともかく、いくつかの事実から子規は俳句に短歌よりも関心を寄せていたと見受けられる。子規は、『墨汁一滴』(1901)の中で、学生時代に試験勉強の時期になると、俳句をよくつくりたくなったと回想している。また、絶筆も俳句三句である。さらに、彼の生涯につくった短歌が2339首であるのに対して、俳句は18056句である。しかも、子規の名作として知られているのは短歌より俳句が多い。こうした事実を考慮するなら、子規が俳句に思い入れがあるように推察できよう。その上で、子規は俳句における写生の認識を短歌、散文へと拡張していったと考えられる。

 短歌は5・7・5・7・7の31モーラであり、俳句はそれよりも短い5・7・5の17である。俳句にしても、短歌にしても、5と7のモーラの組み合わせによって構成されていることは同じである。しかし、短歌と俳句の読解には相違点がある。

 短歌はそこに詠まれている季節や場所、時刻をみつけ、句切れによって構成をつかみ、表現されている情景・イメージを明らかにする。句切れや繰り返し、母音、子音の表われ方によってそのリズムをつかみ、文法的構成を明確にし、意味上の歌の中心的語句を把握する必要がある。

 一方、俳句は季語がある場合にはそれを見つけ、季節感を把握する。名詞を用いる凝縮された表現に基づいているから、想像力によってその圧縮されたものを膨ませ、背景・イメージを描かなければならない。また、切れ字に注目して、句の中心をつかむことなどが要求される。

 近代文学史において歌人・俳人のいずれとしても評価が高い文学者は必ずしも多くない。そうした稀有な一人に寺山修司を挙げることができよう。寺山は、ネフローゼのため4年間入院生活を送り、俳句から出発、短歌や散文、演劇へと移行し、子規同様、ジャンルを横断した文学者でもある。

 寺山は、対談『ツリーと構成力』において、俳句を短歌と比較して、次のように述べている。

 俳句の場合、たとえば西東三鬼の「赤き火事哄笑せしが今日黒し」でも、島津亮の「父酔いて葬儀の花と共に倒る」でも、一回切れるでしょう。そこに書いていない数行があるわけですよね。要するに系統樹は見えない。そこが読み手によってつくり変えがきく部分を抱えているんじゃないかと思う。短歌は、七七っていうあの反復のなかで完全に円環的に閉じられているようなところがある。同じことを二階繰り返すときに、必ず二度目は複製化されている。マルクスの『ブリュメール十八日』でいうと、一度目は悲劇だったものが二度目にはもう笑いに変わる。だから、短歌ってどうやっても自己複製化して、対象を肯定するから、カオスにならない。風穴の吹き抜け場所がなくなってしまう。ところが俳句の場合、五七五の短詩型の自衛手段として、どこかでいっぺん切れる切れ字を設ける。そこがちょうどのぞき穴になって、後ろ側に系統樹があるかもしれないと思わせるものがあるんじゃないかな。俳句は刺激的な文芸様式だと思うけど、短歌っていうのは回帰的な自己肯定が鼻についてくる。

 短歌の5・7・5・7・7が俳句の5・7・5となる時、寺山によれば、7・7と共に短歌はその自己再帰性を奪われる。短歌において、7・7は5・7・5の相槌的な反復である。一方、俳句はそれがないため、自己に再帰することなく、他者へと向かう。

 この寺山の説明は曖昧であるが、確かに、一理ある。俳句は語り手の心情を認知することが難しい。直接的に心情を吐露することはない。また、ある思いを語っていても、それに基づく言外の心情ははっきりしない。寺山が挙げる二句に関しても、語り手の心情はわからない。他方、短歌は、和歌が恋心の伝達に使われていたように、語り手の心情理解が比較的容易である。公的制度に依存しない私的嗜好かどうかはともかく、心情あるいはそれなるものの表現が短歌には欠かせない。だが、短歌の心情理解の要求が寺山には耐えられない。

 日本語の単語は3や4のモーラのものが多い。また、長い単語が短縮される際にもその数に収める傾向がある。「スマートフォン」は「スマホ」、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は「こち亀とそれぞれ短くされている。3と4のモーラの単語が多いので、それらを組み合わせたり、助詞をつけたりすれば、5や7のモーラになりやすい。5と7で定型詩を構成することにはこういった日本語の事情もあろう。

 3モーラの名詞を「は」でつなぐと、7である。最もシンプルな名詞が二つだけの「AはB」で7モーラだから、動詞や助動詞、修飾語などがつけば、1文であっても、17にはすぐに達してしまう。他方、31モーラであれば、15と16で構成できるので、2文も十分に可能である。大雑把な計算であるが、俳句が一つの内容だけであるのに対し、短歌は複数を扱える。

 実際、俳句は、一般的に、一つの内容を扱う。事物や風景、事件、出来事を描写するが、それをめぐる作者の心情は省かれる。芭蕉が「秋深き隣は何をする人ぞ」と発しても、「隣」についてどのような印象や感情、意見を持っているのかははっきりしない。このように俳句は作品を通じて感情を表わさない。

 俳句は、もともと、娯楽で、その場限りの消耗品である。その芸術性が認められるようになると、過去の作品が見直され、収集される。規範が生まれ、細分化・洗練化・急進化が進む。しかし、次第に行きづまりを見せ、原点回帰が模索される。今挙げた芭蕉の句はそうした笑いを狙っている。作品の背景は探ることができても、作者の心情を確かめることは困難である。

 他方、短歌は複数の内容を扱うことが可能である。俳句と違い、つなぐことで両者に相互に影響を及ぼす効果が生まれる。私の外部と内部を描いたり、心情の変化を表わしたりもできる。寺山の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」は前者、石川啄木の「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」は後者の例である。いずれも二つの内容を持ち、その落差の大きさが効果的に働き、作者の心情が明確で、名作との誉れが高い。

 寺山は既成の俳句をモチーフに短歌を詠んでいる。西東三鬼の「わが天使なるやも知れず寒雀」から「わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る」、中村草田男の「人を訪はずば自己なき男月見草」から「向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男」を考案している。これらの例より短歌と俳句の違いの一端が見えてくる。前者はその後、後者は対比が付け加えられている。俳句と比べて、短歌は内容が二つになっている。ただし、この短歌には心情がはっきりしない。確かに、現代短歌は自己表現に消極的で、心情に直接触れないことも少なくない。そうした短歌でも内容のつなぎによって心情を暗示すけれども、寺山の二首にはアイロニー以上のものがない。ここから寺山が短歌よりも俳句を好む傾向が理解できる。

 もちろん、それには若き寺山の人生経験の不足もあろう。俳句をモチーフに短歌を作成できても、その心情が思い浮かばない。数多くの過去の作品を学習、俳句や短歌の文法を習得すれば、引用による創作が可能である。それは理解の共通基盤となり、マニアの興味を刺激する。しかし、その魅力は知識や技術への面白さである。より意外な展開を目指すようになるが、作品を量産するにつれ、マンネリ化して飽きられたり、セグメント化してタコツボにはまってしまったりする。引用だけではこの行き詰まりを打開できない。理解の共有が知識や技術だけではなく、体験に基づくテーマやメッセージ、人生観などでこそ、読者を広く、長く惹きつけられる。若き寺山は、人生経験が少ないため、俳句から短歌を編み出せても、そこに心を入れることができない。

 子規の文学リノベーション運動の中核的理論が「写生文」である。それは写生、すなわち西洋絵画のスケッチの発想を参考にしている。スケッチは、細部にとらわれず、大づかみに色と形を捉える描写である。子規自身は、『叙事文』(1900)の中で「或る景色を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず、只ありのまゝ見たるまゝに」と述べている。この認識には短歌より俳句の方が近い。俳句は内容が一つで、17モーラという制限もあるため、対象を描くにはスケッチに忠実にならざるを得ない。写生文のプロトタイプが俳句である。このように、子規にとっての俳句は常に確認しなければならない文学リノベーションの原点にほかならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?