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タヒチの女 ー母の死についての覚書6


2度目の見舞いでは、母は前回よりも私のよく知る母の顔を見せていた。
母は練乳がけの苺が食べたいと騒ぎ、私に買いに行かせた。
苺をかごに入れながら私は、幼児の頃に母親を亡くした知人の話を思い出していた。母親は死の数日前に好物であった苺を所望したが、真夏だったために当時は一般的なスーパーでは売られていなかったので不二家でショートケーキをありったけ買い、苺だけを死にゆく母親の口に含ませたのだと......。

母に苺を食べさせていると、父が来た。
「俺、昨日苺あげたぞ、そんなに同じの要らないだろう?それよりメロン持ってきてやったぞ、こっちの方がいいだろ」
「うるさいねぇ。ま~よく喋る男だわぁ、口だけは達者なんだから」目の見えぬ母が言った。
「なーんだよせっかく持ってきてやったのに、いつもこうだ。嫌、俺、こういうの」父が不貞腐れる。

父は何十年も前から変わっていない。
子供たちの必死の哀願にもかかわらずどうしても離縁しようとしなかった
妻が死へ日に日に向かっているというのに......もうじき死ぬ妻の前でも父は
いつもの父だ。そして母も。

「俺、煙草吸いたい。里香もちょっと一緒に行こう」
父も母も、昔から私のことをよく妹の名で呼ぶ。私はそれを指摘したり訂正を求めたこともなかったと思う。
敷地内は禁煙だが、門の横にあるツツジの植え込みのところで父は煙草に火を付けようとした。私が諫めると
「みんなここで吸ってるの。いつもやってんだよ、平気だって」と
聞く耳を全く持たない。
「勘弁してよ」
「お前、ちょっとうるさくなったんじゃないか。分かったよ、お前が帰ったら吸うから。それよりよ、おかあ、いつ死ぬと思う?」
「こればかりは誰も分からないでしょ」
「お前よ、怒らないで聞いてくれるか?」
怒らないでくれるか、と前置きされた話に怒らないで済むような話などめったになく、大抵はロクでもない話だと相場は決まっているが父の口から続いて出た言葉はそれなりに衝撃的だった。
「お父さん、今付き合ってる人がいるんだ」
あまりに驚いて
「え、それは女の人?」と聞いてしまった。
「当たり前ぇだろ、女じゃなきゃなんなのよ」
病気で死にゆく妻がいるのに平気で愛人がいることを子供に打ち明けてくる
神経以上に驚いたのは、何故この男に妻も愛人も持てるのかということだった。この男の一体どこが良くてその女性も付き合っているのだろうか。
「この間よ、俺、お前がうちに来た時ちょろっと言ったろ、お金の話。お前はサラ金だ、ギャンブルだなんて変なこと疑ってたけどよ、その女の人に都合つけてもらったんだ。いくらだと思う?」と言って父は右手の人差し指を立てて軽く振った。
「ひ、100万!?もう借りたの?そんな大金必要ないでしょ。すぐに返した方がいい、いくらなんでも入院の費用や葬儀代くらいあるでしょう?」
「100万くらいいいよ、って貸してくれたんだもんよ。嫌とは言えないだろうがよ、厚意でしてくれてるんだぞ。お前、そこは感謝しなきゃな。あ~あ、お前に話さなきゃよかったなぁ。お前はいつも余計なことばっかり言いやがる」
私は呆れつつ
「お母さん、このこと知ってるの?」と訊いた。
「知るわけねぇだろ、入院したあとに借りたんだもんよ」
「女性と付き合ってることをだよ」
「知ってんじゃねぇの?年賀状貰ったり、その人が休みの日に電話来て一緒に釣りに行ったりしたからな」
「里香は知ってるの?」
「2、3日前ここでばったり会ったからよ、帰るときに喫茶店でちょろっと話したよ、なぁに、何か言ってたかって? ふぅん、ってそれだけだよ。お前とは随分、姉妹なのに違うなって。あいつ随分丸くなったよ、お前はちょっとおっかねぇわ」

何でこんな男に愛人など......不思議で仕方なかった。