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2016「国立奥多摩映画館~森の叫び~」ごあいさつ



「国立奥多摩映画館~森の叫び~」

●会期:2016年
○8月20・21・27・28
○9月2・3・4・10・11・17・18・19・22・24・25
(12:00~20:00)
●場所:東京都青梅市二俣尾5-157
●チケット:1,000円
●参加作家:
○常設上映3作家:小鷹拓郎・山本篤・和田昌宏
○ゲスト上映作家:相澤虎之助(空族)・五十嵐耕平・大木裕之・篠田太郎・関野吉晴・ダミアンマニヴェル・坪田義史・ドキドキクラブ ・平野勝之・嶺剛一・森村泰昌・山下敦弘・吉増剛造・川田淳・田中良佑・村上裕・COBRA・柴田佑輔 ・地主麻衣子・高田冬彦


ごあいさつ:

1895年12月28日。新年を向える準備に慌ただしかったであろうフランス・パリの「グラン・カフェ」地下。リュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」によって作られた世界ではじめての映画『工場の出口』が一般に公開されたそうです。それから、ちょうど120年と8ヶ月と4日。そこから9,691㎞ほど離れた東京の山中「工場の跡地」にて、このたび「国立奥多摩美術館」第3回目の展覧会「国立奥多摩映画館~森の叫び~」を開催いたします。だれかわからない、この世界を作った大きな人は「時間」と「空間」という驚愕すべきモノを創りました。そして、それを「映像」という形で人間が疑似的に留められるようになって約121年。人間は様々な、時間と空間を映像として切り出し、留め、加工し、共有しようと試みてきました。映像とはなんなのか?そこには何が映し出され、それを見る我々はいったい何をみているのか?そんな事を考える時、私には改めて「美術」という言葉が、キーワードになるのではないか、と思えてきます。ここでいう「美術」とは、芸術の1ジャンルとしての視覚芸術・造形芸術だけを指すわけではなく、絵画や彫刻だけを示すわけでもなく、ましてや「わけのわからない」の類語の様に使われる「美術」ではありません。「美」という「個人が何かを肯定するという、世界を見る視線(心)」を世界・社会に露す「術」。「美術」。人類誕生から連綿と、音・声・絵・物・言葉・表情・身振り手振りを使い、続けられてきた「美術」。誤解を恐れずいうなら、本来「美術史」とは人間が何に心を動かしてきたのか、という「人間の歴史」そのもの、であっていいと思っています。その中で、約121年前にようやく人類が手にした技「映像」を使い、歴史を未来へ突き進める今を生きる作家達が、どんな時間と空間を映像として切り出し、留め、加工し、共有しようとするのか?そんな事をご来場くださった皆様と、話したり考えたりできる展覧会になったらいいなと思っております。ぜひ足をお運びください。心よりご来場お待ち申し上げております。(佐塚真啓 / 国立奥多摩美術館館長)


<<<常設上映作品紹介(佐塚)>>>

●「2016」 山本篤

言葉の持つ引力を、感じ楽しむのが詩である。言葉が並んだ時、そこには必ず様々な形での、引きあう力が生じている。その引力は、個人が見てきたモノ。聞いてきた事。そんな、それぞれの経験の蓄積がそれを生み出している。イメージのもつ引力を巧みにコントロールし、組み立て、普段見えなかった景色を見せてくれるのが詩人であるならば、山本篤は詩人であり、「2016」は詩である。この作品を見ているとそんな事を思う。イメージとイメージが絶妙なバランスで引き合い、絡まり、1つの危うい塊となって「不思議な」としか形容できない景色が作りだされている。しかし、考えてもみれば、誰もが不思議な景色を内に秘めている。山本はこの作品でそれに形を与える事に成功しているだけなのかもしれない。

 

●「The Past and the Future in the Present」 山本篤

山本によると、「15年ぶりに訪れたタイのチェンマイで再会する思い出と、都市の新しい息吹ヒューマンビートボックス アーティストとの出会い。初めて訪れた武富島の風景。2016年1月から7月までの時間軸の中で、過去と現在と未来が交錯する映像作品である」とのこと。 タイトルを直訳すると「現在の中の過去と未来」。 普遍的な事実として「今」という時間の中には「過去」そして「未来」が含まれているということになるのだろう。「因果」という言葉を調べると「今ある事物は、以前の何らかの事物の結果であり,また将来の何らかの事物の原因である」と出てくる。 つまりは山本の今回の作品は「因果」についての作品ということが言えるのかもしれない。考えてみれば「映像」というメディア自体、過去に起こったことの現在の「現れ」だ。そして、その「現れ」は未来の方向を向いている。

 

●「小鷹拓郎短編映像集」 小鷹拓郎

これは「失敗」の個人史である。「失敗」という言葉を辞書で調べてみると「物事をやりそこなうこと。方法や目的を誤って良い結果が得られないこと。しくじること。」と説明されている。小鷹は、世界中の政治的・象徴的な場所を訪れ、独自の手法で世界の流れに抗ってきた。『ポテトとアフリカ大陸を縦断するプロジェクト』では、アフリカにはポテトがないという根も葉もない噂を確かめるために、広大なアフリカ大陸を縦断し、『僕の代わりに妻のオノヨーコがパフォーマンスをします。』では、軍事政権下のミャンマーと米国の歴史的会談に便乗して妻を世界的な女性アーティストと偽って国際芸術祭への出演を画策した。さらに、『How to transform into Na Neck』では、タイの有名なコメディアンに変装してテレビ番組にゲリラ出演を試み、『Sound Wars from The Hole -洞穴聲戰-』では、香港で一番マヌケなサウンドアーティストと共に大規模な民主化デモが起こった中心街で路上パフォーマンスに挑む。ネタバレになってしまうのだが、いずれの作品でも小鷹は当初の目的を果たせぬまま失敗している。それでも失敗を繰り返す。いつか世界が振り向くその日まで。

 

●「こたか商店の最後の30日間」 小鷹拓郎

前回の国立奥多摩美術館の展覧会で、探検家の関野吉晴は、「この世界には、風の民と、土の民がいるんだよ」と語りながら「風獣土獣図」を描いた。風の民とは、風のように常に流れ漂うような生き方をする人々。土の民とは、どっしり大地に根を張る人々。土が実らせた種を、風が他の土地に運び、また実らせる。そんな事が繰り返され、風と土の関係によってこの世界は構成されてきた。ふと、思えば「店」とは、土の民のモノである。大地に根を張るが如く、場所を定め、関係を作り、じっと風が吹くのを待つ。即ち、お客さんが来るのを待つ。店とは、土の民の為せる業なのである。しかし、この「こたか商店」店主、小鷹拓郎は、私の知る限りでは、根っからの風の民である。面白そうな事があれば、地球の裏側にだって行きかねない。巨大な好奇心というモンスターをその内に宿している。そんな小鷹の内に秘した風が、とうとう店の根っこを引っこ抜いた。これは、そんな風と土の物語ではないかと私は思っている。

 

 

●「ようこそ!堕落お遍路村へ」 小鷹拓郎

気になったら、とことんトンと追いかける。それが小鷹拓郎の姿勢。今回はどうやら四国八十八カ所巡り。お遍路をしている人達の中に、悪事を働きながら聖地を巡る人がいるらしい。そんな不届き者を小鷹は、「堕落お遍路さん」と名付けた。そして、そんな人々が集まり村を形成しているとの噂。お遍路道という聖地の中に生まれた、更にこの世とは一線を画す、聖域・堕落お遍路村とはいったいどんなモノなのか。正しい人より、悔い改めた罪人こそが天国に行けると解釈できる様な、キリストの言葉があったり。妄想が膨らみきったところで、堕落お遍路村を求め、小鷹のリサーチお遍路が始まった。抜群のコミュニケーション能力と、尽きない好奇心で、出会う人。出会う人に、村について聞いて、訊いて、聴いていく。はたして、聖域は小鷹を招き入れるのか!?

 

●「遺跡への小径#1」 和田昌宏

この作品で和田昌宏は、自分の見た夢を追いかける。2013年5月、作品制作・発表のためメキシコに赴き、原因不明の体調不良に悩まされ、その中で見た、赤い円形の遺跡を彷徨う夢。夢は、大きく分けて2通りの解釈が与えられる事が多い。自分の経験や願望が 無意識下において編集されたものである。という考え方と、超自然的な存在からのメッセージである。という考え方である。和田は、自分の夢に意味を与えてくれるであろう様々な人を訪ね、自分の見た夢の景色について何度も語る。夢は人に語られる事で整理され編集され、過去の自分が見たおぼろげな現実の輪郭が濃なっていく。夢という無意識下で編集されたモノを、意識下で編集し、なお更に映像として編集して、他者と共有しようと試みる和田は、いったい何を編集しているのか。そしてそれは何所からの、何のメッセージなのか。

 

●「Murakami Hiroshi」 和田昌宏

村上裕という、体と頭と心を、全力で動かし生きている人間がいる。そんな村上に魅せられた和田昌宏がカメラを向ける。すると、それに応える様に村上が、この世界の秘密について饒舌に語り出す。スクリーンの中の彼は、いったい、どのような時空を彷徨って、何を思っているのだろうか。そんな彼の言葉に耳を傾けていると、自分の足下が歪んでくる感覚に襲われる。彼の足下は、自分の立つ地面とは別のモノだと切り離して、笑って傍観する事は至って簡単な事だろう。しかし、そうやって出来た、都合の良い地面だけをつなぎ合わせて作った土地より、あらゆる可能性をつなぎ合わせて形成された土地の方が、豊かな未来を実らせる。私はそう信じている。

 

●「主婦のためのスタイリッシュな蠅」 和田昌宏

五月の蠅と書いて「うるさい」と読む。ハエ叩きで追われ、ハエ取り紙で捕獲され、殺虫剤を散布され、そんな風に蠅はなにかと虐げられている。それというのも、人間が好まない環境を、蠅が好むという事から。人間にとって都合の悪い環境を増殖させる、害虫とされている。作品タイトルでは、そんな蠅が、スタイリッシュで、更には主婦のためだという。この作品には、和田昌宏とその妻、息子が登場する。主婦とは、言わずもがな、和田の妻であろう。蠅が空間を自在に飛びまわり、関係を越境し、好むと好まざると環境を媒介する使者であると見立てるなら、その蠅に扮する和田は、妻のためにどんな環境を呈する使者でありえるのか。そして妻はそんな使者に何を求めるのか。

 

●「YAMAMBA」 和田昌宏

子供に絵本の読み聞かせをしているうちに、改めて「昔話」の内容の深さに驚いたという。「昔話」とは、その時代の景色を閉じ込めたタイムカプセルではないか、と語る和田昌宏。100年後の未来、「今」とは、どのような「昔」として語られているのか?この作品で和田の紡ぐ「物語」は、「三枚のお札」「牛方と山姥」「安達ケ原の鬼婆」などの、いわゆる「昔話」をトレースしつつ、過去・現在・未来を貫き覗く1つの窓である。小さなファンタジーとして、その中だけで完結し得ない。これを見る、様々な場所に立つ個人が、その窓から各々どの様な「物語」を覗くのか?この作品を観終わった後、和田の様に過去・現在・未来に対して口を開き、さらには、それぞれの物語を紡ごうとする個人が増える事を私は望む。

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