見出し画像

「物語」という暴力。「書く」という加害。

思考とは「気体」みたいなものだと思う。浮かんでは消えて、ふわふわしていて、つかまえどころがない。

それを目に見えるようにしたいと思ったら、口に出して話してみる。考えたことを、言葉にすることは、思考を「液体」化するようなものだと思う。

口にのせた言葉は常に、流れ去って行く。その言葉が別の誰かに届くときには、また違った言葉になるし違った形になる。グラスが変われば形が変わる、やはり、液体みたいなものだなと感じる。

だから、流れていく思考をどこかに錨でつなぎとめようとすると、やはり、文章を書くことになる。 文章を書くことで、思考は一時的に固定されて「固体」になる。

自分の思考であれ、誰かの思考であれ、固体になるとそれは人に差し出せるようになる。固体にするというのは、言い換えれば「物語化」することでもある。物語化して固体になった文章は、時間も空間も超えて人に差し出せる。それが例えば、記事であり書籍であったりする。

誰かの漂う思考をつなぎとめて文章にしたい。
そして別の誰かに届けたい。
そんなふうに考えて書くことを続けてきた。

だけど最近苦しく感じるのは、この流れゆく言葉たちを、ほんとうにこの物語に押し込めてよいだろうか、ということ。

物語にするときにはいつもある種の暴力が働く。 

こう解釈したいと私が思った彼/彼女は、本当にそのストーリーを必要としていただろうか。本当はそこに静かに置かれただけの言葉を、勝手に線でつなぎデザイン処理しちゃってないだろうか。

そのことに自覚的になればなるほど、言葉がするすると指の間をすり抜けていく。最近、書くのが苦しいなあと思うことがある。

❇︎

これは職業病だと思うのだけれど(この職業につく前からそうだったような気もするのだけれど)、私は、仕事でもプライベートでも四六時中、頭の中で文章を書いてしまう。

いろんな人が景色や食べ物の写真を撮るように、無意識に脳内で文章を書いてしまうのだ。実際にSNSなどにアップするのはその50分の1とか100分の1くらいなのだけれど、何を経験しても一度頭の中で文章を書いて物語にして記憶する。

物語になったそれは、いつも現実より少しだけ無駄にドラマティックだ。アプリで写真に加工をかけるように。彩度がいじられコントラストがつきオリジナルが歪む。

本当はそこに置かれているだけでよかったはずの大切な記憶が、物語によって侵食される。それが最近、ちょっと苦しい。
等身大の言葉に手が届かない。
自分が選んだ言葉が信用できない。
書くことが記憶を毀損する。
自分の大切な記憶を守ろうと思えば思うほど、話すのも書くのも怖くなる。

そんなにドラマティックだったか?
そんなに簡単につなげる点と点だったか?
本当に私はそう思ったのか? 本当に?
彼/彼女はそう思っていた? 本当に?

家に置いてきちゃったのだけれどどうしてもその日読みたくてもう一冊購入。『断片的なものの社会学』。人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということ。


もっとこう、言葉を紡ぐ余裕もないくらい、頭を回転させることができないくらいの圧倒的な体験の中に体をどっぷり浸してすべての自由を奪われて溺れそうになって、で、生還できたら、書こうくらいな

そんな書き方をしたいきもち。


モラトリアムってます。
いやいや、モラトリアムってる場合じゃないのだよね。
書かねば。俺の締め切り。


【この記事もおすすめ】


【新刊でました。ぜひご覧ください】



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?