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ライターの職業病

ライターという職業は、多かれ少なかれ、言葉の手触りに意識がいきやすい職業だと思うんだけど、ライターさんによって、言葉の受け止め方は違うみたいで、それについて聞くのは面白い。

私の場合、そもそも言葉はおもにビジュアルで見える。

 
言葉の色や形や温度、ベクトルみたいなものが、絵的に見えるのもそうだし、キーボードの配列や、ページのレイアウトみたいなビジュアルの記憶もよく残る。
みんながスマホでいろいろ写真を撮るように、言葉に対してシャッターを切ってる感じです。
 
ただ、メロディラインにのった言葉はあまりよく見えなくて(たぶん情報量が多すぎて)、それであまり音楽は聴かない。
講演会場でも音が鳴っていると、音階が文字で雪みたいに降ってきて、目がチカチカする。自分が何を話そうとしていたのか分からなくなって混乱することが多い。なので私の講演会はいつも無音です。


 
書くときも同じで、ビジュアルが先にくることが多い。このことば、あのへんにつながれ、と思う場所に手を伸ばす。そこにむかって、ことばを置いたり投げたりする感じ。
話しているときは、脳のメモリを話すことに使ってしまうので、聞いたり書いたりしてるときほど言葉の輪郭がしっかり見えない。私の話は、かなり雑だと思う。

・・・・・


その一方で、言葉を音で記憶されるタイプのライターさんもいて、そういう人は、たとえ本を黙読していても、言葉がにごってるとか、クリアとか、和音が汚いとか、声が大きいとか小さいとかそういう表現をされる。
こういうタイプのライターさんは、納品前に、音読して推敲する人が多い気がする。著名な作家さんでいうと、新井素子さんとかはそういうタイプだろうと想像します。
 


どっちのタイプが多いのかはちょっとわからない。
ただ、いずれにしてもライター業は、言葉に目を凝らしたり、耳をすませたりして生きてる職業だろうと思う。
と、いうようなことを考えながら、今日の朝日新聞telling,の書評コラムを書きました。

この中で、こんなことを書いたのだけれど

書籍のライターは、著者さんに数十時間インタビューして聞いた話を、10万字前後にまとめる仕事だ。執筆時期はだいたいずっと、著者さんの取材中の音声を聞いている。移動中も料理しているときも、佳境に入ると寝ている間も音声を流し続けている。で、その人の言葉を自分の体の細胞に記憶させて、身体をその人にあけ渡して使ってもらう、みたいなイメージで書いています。
さて、そんな生活をしていると、何が起こるか。
わたしの場合、マッチョな著者さんの本を書いていると、ヒゲが生えてくる。
セクシーな著者さんの本を書いているときは胸が大きくなったし、政治家さんの国会答弁や所信表明演説ばかり聞いていた時期は生理が止まった。
なんというか、その著者さんが使う言葉の温度や湿度や粒の大きさや、丸みやとがり方に、身体がすごく影響されるのだ。

読んでくださった読者の方から、それって「職業病」というか、むしろリアルな「病気」ではないかと指摘を受けました。ですよね、わたしもなんか、もうそんな感じがしている。

こんなにホルモンバランス影響されてるわたしって、更年期とかやばいんじゃないだろうか。
いやむしろ、普段からこんなにホルモンバランスの変化に順応しているのだから、更年期こないんじゃないか、とか。


ちなみに今回紹介したのは、チャットモンチーのドラマーだった高橋久美子さんの詩集。『今夜 凶暴だから わたし』。
昨年末から何冊も古今の詩集をよんできたのだけれど、一番好きだと思った。
とても視覚的で、同時に、音楽的な文章でした。3日前に手に入れたんだけど、もう、4回読みました。
わたしのコラムはともかく、この詩集は、すごくよかったからいろんな人の「永久保存のお薬みたいな書籍スペース」に並ぶといいなーって思いました。


それでは、また。


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