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人間に期待しすぎる私はコロナを経験した後も、何も変わらないのではないかと震えている。

今日は私が実は一番不安になっていることを書きたいと思う。それは、自分がコロナにかかって苦しむことでも経済破綻でもなくて、コロナが収束(終息)しても社会が何も変わらないのではということだ。

afterコロナやwithコロナの社会が”どう変わるのか?”ということが、至るところで議論になっている。私自身も、きっとコロナ禍を経験した我々の価値観や生き方は大きく変わるはずだ……と思っていた。

しかし、本当にそうだろうか?

最近、「どうせコロナ明けたらみんな変わらない生活や考え方に戻るよ」という発言を何度か耳にして、そうなのかな…私たちは社会から何かを学ぶことはできないのかな…と心が揺れた。

これまで日本人は無数の災害を経験してきた。でも、そこでガラリと考え方や見方が変わったかといわれると、そんなことはないのではないかと思うのだ。一時は、考えるようになる。生き延びたことに感謝し、自分の命も相手の命も大事にしたい、本当の自分の人生を生きよう、そんなふうに思う。

でも、いつの間にか忘れてしまう。忘れることは人間の大いなる才能ではあるが、どうしても、忘れちゃいけない感情まで忘れていっている気がするのだ。

大変不幸なことだが、生活の危機に直面したり身近な人が亡くなったりした人にとってはこの出来事が大きな転機となりえると思う。でも、それ以外の人たちは「大変だ」「怖い」「これまでの生き方を考え直す」といいながら、明けてみるとこれまでと変わらない日常に組み込まれていく。そんなことはないだろうか。

日常という営みを否定するわけではない。そうではなくて、自分のあり方とか人との関わり方とか生き方とか死に方とか……私たちはそんなことを社会的な出来事から学ぶことはできないのだろうか。…素朴にそんな疑問が湧いた。

そもそも社会の変化を経験することに、何か意義を見出すこと自体が間違いなのだろうか。ただ、出来事は目前にあるだけで、そこに学びや成長の意味を期待することが人間への眼差しとして無理があるということなのだろうか。
どうも私は人に期待しすぎるきらいがあるのかもしれない。人に期待すると、精神的にはいいことがない。でも、期待しないのはせっかく人間に生まれたのになと、寂しくなる。

ただでさえ、自粛自粛でしんどいのにそんな人間的な学びの機会にしようなんて追い込むな!という意見もありそうだ。そうだよな、私は堅苦しいことをいっているんだろう。でもせっかく生きているんだから、私は体験する全てから学びたいし、学べるはずだと思ってしまう。そして、その時の思いを忘れないようにしたいと願う。
うーん、もしかしたら傲慢なのかもしれないなぁ…?

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