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学生時代にゲーム専門サークルを作ったら2年で50人規模になった話

「みんなでワイワイ遊んだりするのが好きな方は部長まで」
1人でひたすら掲示板にビラを貼っていた2年後、
大学の教室は50人以上で埋まっていた。

こんにちは。エンタメとテクノロジー大好きのよねざわです。

大学生のときにゲーム専門サークルを設立したことがあるのですが、近年になってようやくesportsやボードゲームが市民権を得てきた頃だと思うので、このタイミングで振り返ってみたいと思います。

やったこと

大学2年生の春にゲーム専門サークルを作りました。基本的な活動は週2回、大学の空き教室に集まってアナログデジタル問わず、みんなでゲームをして遊ぶというものです。結果的には設立3年目で部員が最大50名規模のサークルになりました。ここでいう部員の基準はLINEグループの登録数などではなく年間部費を支払った人数になります。その後は後輩たちの尽力もあり、大学側から公認サークルとして認可された時期もありました。

なぜ作ったか

理由は2つあります。

1つ目は、自身が1年生のときに入部した軽音サークルを辞めたことです。雰囲気が体育会系で少し堅苦しく感じ、自分にはカルチャーフィットしませんでした。そういった経験もあり「好きなことを思う存分楽しめるサークルをつくるぞ」とか思っていました。

2つ目は、自分はesportsやボードゲームが大好きなのに大学内に遊び相手がいなくて困っていたからです。もしゲーム専門サークルがあれば入ってたと思うのですが、当時はそういうサークルがなく「なければ自分でつくるぞ」という気持ちでした。

1年目、部員集め

誰もいない状態から新入部員を勧誘する方法ですが、新入生が集まる棟の掲示板に部員募集のビラを貼り続けました。

朝にビラを貼っても昼頃には別のサークル達に上から貼られるので昼休みにも貼りに行きました。夕方も同様です。朝昼夕と1日100枚のビラ貼りを2週間続けました。

当時のビラです。

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怪しいです。

部長の名前の記載がありません。説明会の詳細がありません。それでも十数名がメールしてくれて、個別に説明会の場所と日時を返信するというスタイルで部員集めをしました。

こんな怪しいビラでしたが説明を行った新入生のほとんどが入部に至りました。

自分と同じく、ゲームは好きだけど遊び相手がいなくて困ってるという課題を抱えた人ならば、怪しいビラでもメールをするので、ビラの時点でフィルタリングされた結果、熱量の高い人が集まったんだと思います。

ただ1年目はまだ活動人数が少ないこともあり

「来週また活動に来てくれるだろうか?どうしたらもっと楽しませられるだろうか?」

のように自分→部員という視点で活動していました。

ですが1年目後半には自分主導ではない場所でイベントが発生してたりと、部員⇆部員の流れが生まれていました。

自分が好き勝手に始めたことが、周りを巻き込み始めていると実感した瞬間でした。

2年目、学祭、合宿

1年前同様の勧誘を行い、部員数は総勢27名になりました。

この年は2つ新しいことを始めました。

1つ目は大学祭の出店です。

自分は小学生のときからゲームセンターの空間が大好きで、学祭期間だけ出現するゲームセンターみたいなやつを作ろうと思いました。来店した友人同士で遊んだり、部員に挑戦できたりするような、ゲーセンそのままの体験を再現するつもりでした。

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この空き教室を

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こんな感じにしました。

対外的に活動したのは学祭ぐらいだったので外部の方には「学祭でスクリーンにゲームを映していたサークル」と覚えられることが多かったです。

2つ目はゲーム合宿です。

合宿といっても、地方の合宿所に2泊3日で乗り込み、ほとんど外に出ずにゲームし続けるという内容です。修学旅行の夜の自由時間がずっと続くようなイメージです。

せっかくなら合宿でしかできないゲームをしたいので、30人規模で一度に全員が遊べるゲームは無いか、とか考えるのですが探してもなかなか無く、なければ作ろう精神で、オリジナルのゲームを開発して本気で遊びに取り組んでいました。

以下、一例として実際に30人規模で遊んだゲーム企画書のメモです。

戦国ジャンケン列車

■きっかけ
体育館を保有している合宿所にて30名規模で合宿をしているときに
なにか大人数でチップを奪いあえるゲームはできないかと考えた。
※合宿では初日にチップが均等に配られる。

■既存のジャンケン列車の問題点
・一度負けてしまうとモチベーションがなくなるというのが最大の問題点
・自分が属する列車への帰属意識の低下→面白さの低下

■改善策
・勝利条件を見直し。列車の先頭から勝ち抜きチーム戦を行うように変更
・3連勝した者は戦闘終了後に先頭につくことができる下克上システムを導入(通称:明智システム)
・2チームによる最終決戦(通称:関ヶ原)後、敗北チームは勝利チームにチップを支払う
・支払い額は先頭順に傾斜をかける(例:敗北チーム最後尾の者が勝利チームの先頭の者に支払う)

■良かった点
・ルールがシンプル
 ・ルールをすぐに理解してもらうために、既存のゲームを利用しシンプルな改善に努めたこと
・テンポの良さとゲームバランスの良さ
 ・勝ち抜き戦中のテンポが良く、同人数の勝負のため接戦になりやすい
 ・2連勝はできるが3連勝がなかなか難しい確率1/8のバランス(通称:アケミス)
・一度負けたとしてもモチベーションは下がらないこと
 ・先頭側は優越感やポイントの期待感、後方側は勝敗を決する責任感や明智システムへの期待感

■悪かった点
・参加人数が2n人ぴったりでないとゲームバランスに影響が出ること
・明智システムが二度発生した場合に整列がもたつきテンポが悪くなる場面があった

3年目、50人規模になる

この年は新入生向け説明会を1回で打ち切りました。

当時のメモには

「1日で36人が見学にきた」
「これ以上新入生に来られたらヤバいのでビラを全部剥がした」

と書いてます。部員数は一気に総勢50名近くとなりました。

なぜあの年に一気に規模を拡大できたのか、理由を3つぐらい考えてみました。

①市場がよかった

実は9割方これだったんじゃないかと思います。以下は2010年ゲームソフト売り上げランキングです。

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2010年秋にポケモンとモンハンの新作が出た翌年の春の話です。ちょうどゲームの遊び相手を求める層が増えたのではないでしょうか。

②ポジショニングがよかった

そんな状況の中、毎年2,500人の新入生がいる大学において、ゲーム専門サークルは当時自分たちしかいませんでした。そして、まだスマホが普及していなかったりとオフラインコミュニティに遊び相手を求める必要がありました。

③設立3年目がよかった

歴史も浅くフラットな組織だったので、なかなか居心地が良く見えたのではないでしょうか。この頃から活動も週2になったりして、熱量は増していったように感じます

しかし課題も出てきます。

組織の壁

なかなか30人目以降の部員が定着しないなとは感じていたのですが、今ふりかえると当時は完全にこの壁に当たっていたと思います。

 ~30名くらいまでは少人数がゆえの楽しさとか一体感がありますね。経営者がそこまで成熟していなくても(経営者=現場のエースでも)やっていける規模だと思います。社員も価値観が似た人が多く(代わりに多様性は少ない)

ある意味、我々はただの学生コミュニティだったので、本物の企業や経営とはレベル感が全く違うと思いますが、状況としては似ていると思いました。

当時は自分一人が全体を把握していたつもりでしたが、確かに30人を超えたあたりから分からないことが増えてきました。自分の知らないところで誰かがうまくやってくれてたり。ということは、自分の知らないところでうまくいっていなかったこともたくさんあったのかもしれません。

しかし、軽音サークル時代のガチガチ組織のネガティブ体験もあり、組織っぽいことはしたくないという想いで変容しませんでした。そのスタンスで30人までは世代間関係なくフラットに活動できていたので、うまくやれていた気になっていました。

30人目以降に入部した部員は疎外感を抱えていた人も多くいたでしょう。部員はゲームを遊びにサークルに来てるのではなく、遊びたい人と遊びにサークルに来てるんだなと気づくのが遅すぎたのは本当にバカだったと思います。

50人規模になっても自由でフラットなカルチャーを推進して「先輩たちは新入生と交流するように」とやんわり言っては「なかなかうまくいかない。なんで?」とか思ってました。もし今、手を打てるんだったらその逆で、新入生ごとの結びつきをもっと強くします。

救いだったのは「ゲームを通して人と遊ぶのが好き」という部員の性質上、とにかく優しい性格の人が集まっていたので、組織崩壊でありがちな「陰で誰かを悪く言い合う」というような場面は見られなかったことです。

市場やポジショニング、部員の熱量など運に恵まれたことによる組織の急拡大に対して、自分自身の成長が全く追いつけていませんでした。ただのシステム的な問題を自己責任論にして丸投げしていた状態です。

事実、設立5年目の入部部員は5名前後となりました。

しかし、こういった問題よりも、もっともっと重大な問題がありました。

ビジョンを共有し続けなかった

実はサークルを作った当初、ぼんやりとした目標がありました。

「大学から部室をもらって24時間遊び続ける場所にする」

という愚かな夢でした。

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※設立3年目の説明会で使用したスライド。この時点ではしっかり掲げています。

せっかくビジョンがあったのに、やりきれませんでした。

おそらくそれだけクレイジーなことをやりきれば有名になります。いずれ来るesportsやボードゲームの波に対して全国的な学生団体としてイニシアチブを取りえたかもしれません。ゲームを本気でやりたくて志望大学はこのサークルがあるココにするということもありえたかもしれません。就活で野球部のエピソードを話せば企業に好印象をもたれるように、エンタメ系企業を受ける時に話せるようなエピソードができたかもしれません。サークル発でゲーム会社に就職したOBがリクルーターとして帰ってくるという好循環を生み出せたかもしれません。

ある意味、自分が真に願って、このビジョンを周りに言い続けるだけでよかったのです。実際、大学の公認については言い続けていただけなのに、自分は全く実行せずとも周りが努力して叶えてくれました。

目の前の人を短期的に幸せにするのも大事ですが、多少の痛みが伴っても長期的に成長させる決断ができるのは設立者しかいません。

なぜやれなかったか

ゆるいサークルのつもりで入部した人に自分のエゴを押し付けるのは申し訳ないという当時の気持ちがあったのもありますが、結局は自身が現状に満足していたからだと思います。

作った当初の目的である、好きなことを思う存分楽しめるサークル、そしてゲームの遊び相手がいるコミュニティを作るということは達成できていました。

ただ、自己の幸せに閉じなければ、周りをもっともっと幸せにできたはずです。これはかなり極論ですが、このサークルに出会わなかった方がより良い世界線があったという部員も少なからず発生してると思うので、設立者としては自分のエゴと部員全体の最大幸福を両立しながら、サークルの存在意義を突き詰めなければなりませんでした。

終わりに

現在のサークルの様子ですが、噂によると当時の規模ではないにせよ、今でも元気に活動を続けているらしく、後輩の方々には感謝しかありません。

気づきとしては、なにかと飽き性ですぐ辞めてしまう自分が、卒業するまでの5年間継続できたのがこのサークルでもあります。筆不精な自分が部内向けブログは合計166本も執筆していました。

こうしてふりかえってみると、自分は自分で主体的に始めたことしか長く続けられないんだなと割り切ることができました。そして現状に満足せず、ビジョンはより大きくという気持ちで人生の舵を切っていくことにします。

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