見出し画像

「いつでも自分らしく在りたいか」そんな風に思ってない自分

「あなたらしくあれ」
「自分らしい自分とは」

選択肢が増えた多様な時代において、自分の『在りかた』を問う機会が増えた。悶々と考えては、答えを探す行動をし、行動をしてはまた悶々と考える。

僕の人生は、きっとこのような繰り返しによって、少しずつ前進し、そして、少しずつ老いていくのだと思う。

最近また一つ気付いたことがあった。

「いつでも自分らしく在れるべき」という美徳の存在と、「本当はそんなことを思っていない」自分の存在。


「いつでも自分らしく在りたい」を地でいっている人間は、常に自己表現をし、ときに批判や争いに晒されながらも、強い意見を持ち、それを通す努力をする。自己実現にどん欲な、エネルギー溢れる人間だ。

僕はというと、そこまでエネルギーに溢れていないし、どうしても主張したい事柄なんてあまり多くない。自己表現の欲はあるけれど、常に自分を表現したいわけでもない。

ただ一つ、「自分が本当に好きな、心から落ち着けるごく限られた人たちの前で、自分らしくあれたらそれでいい。」そんな風に思っていて、さほど感情を持てない環境下で、自分らしく在りたい、自分を出したいって欲求が全然生まれてこないことに気が付いた。
 
むしろ、その他大勢の前では、自分らしくない自分であっても、それが仮の姿であっても、距離感のある関わりでいた方が心地良かったりする。こじれているのかもしれないし、一種の諦めのようなものなのかもしれない。

なんなんだろう。

色々と考えてみたけれど、結論は

『誰に対しても自分らしくある必要はないし、「自分らしく在れる人を大切にする」で間違ってないな。』

ということだった。

自分らしく在れる環境が拡がっていくことで、より幸せになれるのかもしれないし、拡がらなくてもそういった環境が日常にあることが幸せなのかもしれない。そういう環境を、居場所というのかもしれない。

 

 

▷ 関連 note


最後まで読んで頂きありがとうございます。読者さんからのリアクション、とても励みになります。コメント付きでシェアとか頂けると、さらに喜びます!