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旅人の間合いと、

2014年からはじめた、住所不定の 『移動する生きかた』 。

今まで1~3ヶ月を目処に拠点を移してきた僕は、短期間で如何に自分を知ってもらい、相手のことを知り、適切な間合いでコミュニケーションをとれるか…といったことを、知らずと意識してきた気がする。

何者であるかを名乗り、今までの体験を語り、相手の話を聞き、波長が合いそうなところで情報の交換をする。

自分を積極的にさらけ出していくコミュニケーション、相手との心地よさを探っていくコミュニケーションは、旅人として誰も知らない町に入る環境下で有効だった。

また、語弊を恐れずいうと、その場限りのコミュニケーションというか、点で関わるような関係も許容し合えるコミュニケーションになるため、自分の関わりたい距離感で、関係性をコントロールできた感覚があった。


短期間で多くの町を巡ってきた僕だが、今いる高知県では2月で滞在一年を迎える。



短い期間で距離を詰める『旅人の間合い』を今まで大切にしてきた僕だったが、一つの町に長期間いるようになると『農耕的な間合い』を意識する場面が増えた。

日常を共にするように長期的に向き合い、種に水をやり、ゆっくりと育てていくような感覚。

旅のように関係性がコントロール出来ないわけではないけれど、同じ地域で暮らしていることが一つの関係性になってくる。


振り返ると、東京で社会人をしている時は、わりと『旅人の間合い』に近い距離感でのコミュニケーションを選択し、

一方で実家のあった地元(横浜)では『農耕的な間合い』が求められていた実感があり、後者の関係性に息苦しさを覚えることがあったのを思い出した。

地元の繋がりのようなもの、とも言い換えれるのかもしれない。


例えばよく行くカフェや飲み屋。

繋がりのあるお店が増えれば増えるだけ、行く選択肢は増えるけど濃度を保つのは難しくなるし、行きたくても行けていない場所に、どうやってその感じを表現していいのか分からなくなるのだ。

東京のように不特定多数に散らばる関係性だとそれも意識しないのだが、顔が分かる規模感の町であり、自分自身を名乗り、その内側に暮らしていると、そんな気持でもいられなくなる。


八方美人になりたいわけじゃないけど、関係性を育むためのあらゆるコストや感情と向き合わないと、うまくバランスが保てなくなるのだ。

「明けましておめでとうございます」の前に、「今年もお世話になりました」とすら言えていない人が多すぎて…それがなんとも言えない気持ちにさせる。


(いや、それは旅の生活でも一緒だけどさ…距離的に離れてしまっていると、しょうがないよな…って、そう許せる自分もいるんだよね。)



完璧を目指したいわけじゃないし、他者目線で生きたいわけでもない。

そして、この気持ち悪さは、他でもない僕が勝手に作り上げたものだけど … オウエンしたい人たちをオウエン出来るように、ゆっくりと関係性を作ることやそのバランスとも今年は向き合っていきたい。


『日常がある場所に住まい続ける当然のこと』が、旅を続けてきた僕にとって、新鮮で懐かしい暮らしかたなのだ。

社会の圧倒的多数の人たちと同じような暮らしをしながら、改めてその面白さや難しさを感じようとしている日々にいる。


話は少し逸れたが、整理すると今こんな感覚を持って生きている。






日本微住計画BLOG: https://satoshohei.com/

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