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過去の痛みが薄れるのは結構怖い

最近、「肩がこる」とか「腰が痛い」とか「なんかだるい」とか不調を不調として感じられるようになったなぁ…と思う。

10年前はいつも鈍くドロドロとした「死にたい」があって、そこから派生した「しんどさ」はあった。でも、それ以外の細やかな不調も痛みもなかった。リスカの痛みも鈍かった。


今の自分にとってのリスカは「痛いだろうなぁ」と思うからできない。


「リスカをしないと生きていけない」と必死にしがみつくような感覚が消えていく感じがする。


薄暗い部屋で、ひとり泣きながら腕を切っては

染み出る血をティッシュで拭って

血が服につかないか心配しながら眠る


そんな視覚的な記憶としては残っているけれど、体感的・情動的な記憶はどんどん薄れている。


いいことだけれど、過去の私と今の私がつながっていない感じがして、「過去の出来事は本当にあったんだろうか」と不安になる。


過去の不幸が自分につながっていないとすればハッピーなようだが、そうなると、母親からの連絡を断っている私は「ただの親不孝者」になってしまう。

「あの苦痛は確かにあったんだ」「私はつらかったし、それはなかったことにしなくていいんだ」と繰り返し思うけれど。

家族や親戚は私の苦痛の訴えを「ちょっと我慢すれば済むものを我慢できなかった狭量な子」程度にしか捉えておらず、

他者にも確認できない世界で、その苦痛を「確かにあったんだ」と思い続ける作業は案外大変だ。

「私は幽霊を確かに見た」と言い続けるような手応えのなさ。


脳内で生み出した荒唐無稽なでっちあげなのではないか。

自己愛が生み出した幻想ではないか。


ふと考え始めると不安になる。


ただ、学生時代から、私が苦しんできたのを知っている夫が、そして電話越しに大騒ぎする母の声を一緒に聞いてきた夫がいるので、なんとか過去と今がつながっている感じがする。

一人でも証人がいることは、世界の足元の揺らぎを和らげてくれる。


腕に残る傷も、「あの時はこんなに自分を傷つけたくなるほどしんどかったんだぜ」という証明になっている気もする。

傷が消えないことが嫌だったこともあったけど、今は消えないでいてくれてよかった…と思う。

自分一人でも、過去の自分を労わってあげられるから。


どんな過去であっても、過去が今につながっている以上、忘れることは足元の土台を崩すことだから怖い。

過去を受け入れるというのは、土台を崩すんじゃなく、むしろ補強する感じなのかもしれない。

自分の物語として「それでいいよ」と。

負の遺産でも大事な歴史だ。

過去の傷が和らいで、足元がちゃんと固まって初めて、今の傷や不調に「痛いなぁ」「しんどいなぁ」と感じる余裕が生まれるのかなぁ…と思う。

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